2019-08-24-1
鋼紀七拾八年戊辰
十二月甲子 辛丑朔甲辰
始発と終列車のみ停車する運命のプラットホームに、少年の吐胸に秘めた電鈴が木霊する。千千れ舞う小雪の彼方に掠れた、天孫の竹斯に降るが如き一筋の光臨。メガロポリスの方角を見上げながら歩いていた鉄郎は、其の微かな閃きに窄めていた肩を衝き飛ばされ、暮れ泥む鈍色の雪原を、独り遮二無二駆け出した。
「母さん、見てよあれ。999だ。間違いない。十二月卅一日、午後六時着の999だ。999が帰ってきた。」
追い付ける筈のない遥かなる繊光。白墨にまみれる宵闇の空を伝い優雅に蛇行しながら舞い降りてくる、此処では無い何処かへと通ずる幻の架け橋。銀河鉄道株式会社、大銀河本線、銀河超特急999号。乗車出来るチャンスは年に一度。地球での停車時間は僅か六時間。年が明ける午前零時再び地球を発ち、来年の今日、大晦日の夕刻まで帰ってはこない。メガロポリスの上空を旋回するサーチライト。轟然と聳える宗主の要塞に溶け込んでいった瑠璃色の残像。鉄郎は見失った希望の欠片を瞠めて立ち止まり、治まらぬ動悸に肺の腑を焦がした。去年もこうして入相の空を見上げ、探し求めた999の機影。其の時は未だ天翔ける鉄道車両への興味、遠い宇宙への憧れでしかなかったが、今は違う。十三歳になった鉄郎にも少しずつ此の星の仕組みが判ってきた。
電網社会の特異点によって到来すると思われていた文明の劇的な栄華は、欲目に眩んだ卑猥な妄想でしか無く、ビジネスベースの希望的観測は、有史より同じ過ちを繰り返し続けた人類の最期の過ちと為って、其の驕慢な歴史にピリオドを打った。解析モニターの向こうで蠢く超絶的知性があらゆる高度な社会問題を立て続けに解決していく事はなく、実世界の混沌とした軋轢は思考単体で太刀打ち出来る物ではない事を再確認しただけで、寧ろ、浸食する余地の無くなっていたグローバリズムの起爆剤として暴発し、更なる次元の混迷に人類を突き落とした。
原型を留めぬ程に肥大した資本主義。安易な合理化で、立法、行政、司法、選挙の系図をデジタル統合した途端、頃合いを見計らって電網を匐走していた鼠族に、画餅を秒単位で食い尽くされた民主主義。人類は何者かに因って検閲されたアルゴリズムに、主権も主観も主体も明け渡して、農作物と云う工業製品が地球の自然環境を蹂躙した様に、政治も経済も社会も想定を超えた過積載情報の津波に押し流され、法制度と言う首輪を解かれた市場原理の熱狂の坩堝から、電脳武装した機族が光速で爆誕。リベラルと言う羊の皮を被った歪んだ其の選民思想は、知識階級の妄想と制御不能なテクノロジーの融合した、帝国主義と共産主義の結託と言う究極のファシズムへと暴走し、ダボス会議の長老達が謳ったグレートリセットを、陰謀論と呼ばれていた脱法投資家に因る国際的な談合、諸共リセットすると、旧人類の文化と歴史もオフラインにしたアーカイブの飛び地に幽閉し、先進的超人思想を崇拝して、生命の機械化を受け入れない生身の人間を執行猶予付きのインターンとして分別淘汰。研修事業先という名目の管理区域外に追放し、マイクロチップワクチンで監察する事すら打ち切って、難民から棄民へと突き落とし、機族社会の家畜に成り下がる事すら許され無い。限界強度を越えた車軸が根元からへし折れ、挫傷した人類の命運。其の脱落した車輪の下で鉄郎も又、喘いでいた。
塵芥の底に突き落とされて敗者が確定してから訴える人権や平和主義。そんな人類の笊の様な浅知恵は、生身の人間の国内法でしかなく、禁を解いて掲げた破防法ですら、人智を超えて自立した重機の力学の前では雑音以上、鼻歌以下の代物だった。パトロンの提灯担ぎと数字だけを追い求める三文記事で公害化し、ジャーナリズムとは名許りのシャーマニズムに堕した、マスコミと言う狼少年と、大衆の絶望的な白痴化によって自己顕示欲の墓場と化したソーシャルメディアは、プライバシーの濫獲、欺瞞と利益誘導の超過積送信に明け暮れ、合法マフィアの資本家に使い捨てられた職業左翼の残党は、機族と全面戦争の最中、機族に易々と買い叩かれ、非暴力や機族の人権を訴えて裏から人類の足を引っ張り、而も其の挙げ句、団結した自由と平等と正義を叫ぶヤラセの反戦デモ迄もが、一定の熱量を超えた途端事務的に一掃され、稀少鉱物より軽い人の命が焼却燃料の山と連なり、形式的な猿芝居として解析処理された民族や国家は、最適化と言うシュレッダーに掛けられ、極度に集積化した事業体を駆け巡る情報と契約のアルゴリズムが、完全に此の星を運用し、進歩と発展を謳うドグマが太陽系を越えて其の菌糸を伸ばし続けている。
地球は最早、生命の宿り木では無かった。原子力資源を独占する一握りの資本家が石油化学事業に対抗する為、学会を買収してでっち上げた、科学的根拠の無い利権塗れの脱炭素キャンペーンに因って、世界のエネルギー政策と経済は混乱を極め、森林資源は二酸化炭素と言う息の根を止められて枯渇し、再生可能エネルギー増産の名の許に、北極圏と南極大陸の氷河迄をも引き剥がしてレアメタルの採掘した挙げ句、地底に封印されていた天文学的な量の放射性物質を掘り起こし、行き場の無い使用済み太陽光パネルを始めとする非炭素系エネルギーインフラの世紀末的規模の残骸は、一部の先進国がリサイクルの実用化に漕ぎ着けた物の、莫大なコストに因って破滅的な補助金を投入しなければ採算の見通しが立たぬ、死の廃棄物で在る事を再確認しただけで、後は唯只管、重金属を垂れ流し、地球の表土と地下水脈を再生不能に貶めた。荒業化を究める機族達は、環境プロパガンダと抱き合わせに、汚染という概念を管理区域外に体良く締め出しただけで、人類の夢見た持続可能社会と言う欺瞞を嘲笑い、一部の激甚放射性廃棄物を大気圏外に投棄する以外あらゆる産業廃棄物を地上に放擲し、気象変動や土壌や海洋の重酸化を単なる物理的表象と却下して、地下資源の濫掘による頻発地震ですら、免震構造のメガロポリスから漫然と見下していた。生態系の保護も数奇者の懐古趣味に過ぎず、一部の自然環境が観賞用のジオラマとして模造されているのみ。絶滅か変異か、機属する術の無い行き詰まった動植物の惨状に、沈黙の春すら眼を伏せて素通りし、他の惑星や遊星コロニーへと移住出来ない生身の人間は、自らが害虫害獣呼ばわりしていた生物と肩を並べ、機族文明の吐き出す汚物の養分を啜り生き延びているだけ。今や此の星の未来を語る人類も居なければ、人類の歴史を振り返る者すらい無い。況してや、電脳化する遥か以前に、人類が見失っていた其の心なぞ、望む可くも無い。
今日も一日、鉄郎親子は水と食料、換金出来る廃材を求めて、最終処分場だった埋め立て地を、その昔、環境循環型都市を謳っていた無人の旧市街地を、大型プラントの廃墟を、津波に削られた儘の千里生色なき磽确たる更地を歩き続けた。メガロポリス周辺の落ち穂を奪い合い殺し合う人々の狂騒、新種と変種が日々更新される感染症ベルト地帯を避け、見捨てられた者達すら見捨てた徒し野に潜む、声なき声に耳を澄ます。それが二人の生きる知恵だった。汚染物質を蓄積していない草の根や木の実、浄化すれば飲める溜まり水を見極め、メガロポリスの下水処理施設や郊外のプラントで散布される凍結防止剤の塩化カルシウムを回収し、埋もれた鉱物の玲気に感応し掘り起こす。傍目には零の確率を鉄郎の母は有り得ない精度で探り当てた。倒木に一輪の花を咲かせ、沙漠に潮騒を呼び寄せる奇蹟の所業。その超然とした異能は地震を予知し、メガロポリスの貧民窟で渦巻く詐術、讒言、背信を看破し、日々生死の淵をなぞる親子の命を導いた。か細き母の指先が告げる妙なる恵示。鉄郎は何の疑念も覚えず、秘やかな羅針の揺らめきを有るが儘に信じて育った。
風を抱き、地脈と睦み、夜露を爪弾き、暁を待つ。廃材を寄せ集め補強したプレハブの一間で鉄郎が深い眠りから覚めると、母は既に小屋の脇に盛られた残土の頂に身柱を建て漲っている。恰も往にし方の口碑から黄泉帰った巫女の如く、東雲の静寂間に其の身を濯ぎ、霞の杜に分け入ると、半死半生に臥した自然の吐息を神薙ぎ、其の堅く閉ざした瞼を走る微かな戦きに心を凝らす。
時が満ち、盛土に添うて進み出る爪先。顎を引き、左手を軽く結ぶと、徐に右の肱を遥か床しき明仄へ手向ける。鉄郎には見えた。真一文字に差し伸べたの手の中で榊が萌え盛り、紫立ちたる英気が迸るのを。肩口から水平に翳す甲の先を一点に見据える研ぎ澄まされた面差し。独りの女として期する凛とした自負を超え、陶然として犯しえぬ境地。それは母にして母に非ず。人にして人に非ず。天孫の蚕糸を纏い、道無き世に下り、諦斬に緘黙せる焦土を滋く。万里遍く旭日、五色棚引く巻雲。神代の調べが聞こえる。太古の眠りを言祝ぎ、陰陽を御して穢魔を祓う、忘れ去られた在りし日の舞い。逆光を背に彼我の真秀場を巡る弱竹の身ごなし。闇に融けていた黒髪が煌めく。吐胸の高鳴りに踏み鳴らす大地。天照らせ玉緒の鈴生り。言の葉の佑はふ誉れ。
今日一日の収穫を祈り恵方を占う恍惚の隻影を、鉄郎は醒めない夢の様に仰ぎ明兆を待つ。見えぬ物が見え、聞こえぬ物が聞こえ、形亡き物に触れる。母は偽り無き者の計らいを賜る何者かであった。然し、その霊活な洞察力を持ってしても、荒野の不毛に屈するしかない時がある。現に一時間程前から降り始めた雪から逃れる為、明日、新しい年を迎えると言うのに、何の収穫もないまま家に引き返す事を二人は強いられていた。空腹と疲労を引き擦って踏み締める帰路。大気汚染物質で変色した死の結晶は飲む事が出来ぬばかりか、長時間浴び続けると頭痛や吐き気を催し、目眩を起こして膝を付けば、氷室の柩に葬られる。茶褐色に変質した土嚢袋を継いだ外套の縫い目から、沓の代わりに爪先から踵に掛けて巻いてある葦の隙間から、酸性の痺れを伴う冷烈がジリジリと染み入る。こうなると暫くは表を出歩く事すらままならない。大した蓄えもない小屋の中でどうやってこの無慈悲な冬を凌いだら良いのか。
極限の飢餓と対峙する予感に鉄郎は戦慄した。本能とは猛り狂う野獣だ。人間の意志なぞ肉体の煉獄に突き落とされた流刑囚でしかない。絶食が五日を越えると、ガラッガラにささくれた胃壁と横隔膜の捻転が世界を歪曲し、骨の髄から決壊した悪寒が全身の毛穴を駆け巡る。昼日中でも瞬く度に視野を埋め尽くす星々。三半規管を乱打する半鐘。膝が抜けて寝返りを打つ事しか出来ず、力の入らない肛門から内圧に負けた腸が捲れ上がる。僅かな飲み水だけで約半月、何も口に出来なかった時は、砂埃しかない小屋の中で横になったまま、魔性の化身が囁く有りと有らゆる悪徳と闘い続けた。人の皮を剥げ。理性とか言う化けの皮を引き裂いてしまえと説き伏せる幻聴。
窮すれば小人、相濫れる。メガロポリスの貧民窟にこびり付いている鉄郎と同じ年の孤児達は、旧世紀、未成年者の性交渉権を秘かに吹聴する、LGBTQ+推進に因って合法的に市場開放された児童売春に身を投じ、一時の間食と引き替えに感染症で死んでいく。空腹は人間のあらゆる屈辱や痛覚を貪り卑賤な臓物を暴き散らす。
葦を枯らして流れる赤銅色の廃液。三途の川に浮かぶ、メガロポリスの私生児と浮浪者達の縺れ合った屍を喰らい尽くす、肥沃な蛆の蠢き。その艶やかに張り詰めた乳白色の粒の泡立ちが、炊き出しの玄米にしか見えなくなる惑乱。そして実際、鉄郎は知らぬ間に汚染された蟲の死骸を口にしていた事がある。其れも一度や二度の事ではなく、其の都度、母に頬を打たれて吐き出すまでその衝動に気付かない。ザラザラに干涸らびた舌の上に残る節足の爪痕と渋い体液。呑み込む事の出来ない死の影を舐めた後味。母の眼がなければ鉄郎はとうの昔に六道の坩堝へ堕していた事だろう。
どうにかして此の終末同然の世界から這い上がりたい。999でなくとも良い。メガロポリスを旋回する一筋の機影が、高圧電流を帯びて垂れ下がる蜘蛛の糸だとしても、地球以外の領域へ行けるのなら、南瓜の馬車でも紙のロケットでも構わない。太陽系外には移住した生身の人間が主権を確保し繁栄している遊星やコロニーもあるという。そこに辿り着くか、それとも、機械の体を手に入れて・・・・・・
「鉄郞、雪が眼に入るわよ。」
闇に色めき闇と消えた狐火に魅入られ、身動ぎ一つせぬ我が子の背に母が声を掛ける。鉄郎は思わず邪険な言葉が喉元で支えた。睫を掠め頬を刺す酸性雪より滲み煎る其の優しさに、今どんな顔をして振り返れば良いのか判らない。
「999に乘つて歸つてきた人は獨りもゐ無いつて云はれてゐるわ。」
「そんなの只の噂だよ。」
「ぢやあ、機械の體を只で吳れる星に行けると云ふのも、只の噂ね。」
母の言う通り鉄郎にとって999の存在は、人語に上る断片を寄せ集めた御伽噺でしかない。実しやかに聞こえるのは、新しい年を告げる汽笛と共に出発し、銀河鉄道全車両の中で唯一、無限軌道を制限解除で走破すると言う事くらいで、現に今、垣間見た思わせ振りな煌めきも本当に999なのかどうかすら判らない。星を売り買う富裕層が銀河を周遊する豪華寝台特急か、異界を流離う謎の亡霊列車か、虚蒙で糊する貧民窟の堕胎した粗雑な都市伝説か。機械の体を只で呉れる星に行けると言っている時点で、真に受けるのは子供だけ。そんな奇特な星が何処にあるのか、何という名前なのか、問い質した途端、泡となって弾け、惨めな現実に引き戻されるのが落ちだ。それなのに、
「999に乗る事が出来たら、誰もこんな草臥れた星になんか戻って来こないさ。機械化人に好き勝手にやられて何処も彼処も滅茶苦茶だよ。彼のメガロポリスだって何時か地殻が崩壊して地の底に沈むに決まってる。そりゃあ、彼奴等はどんな汚染物質もパーツクリーナーで洗えば何て事無いさ。永遠の命を手に入れたエリートには、こんな苦くて酸っぱい雪も空きっ腹も関係無いんだろ。」
雪を蹴散らし声を荒げた己の浅ましさに鉄郎は打ちのめされた。母の手に頼らず母の手を導かねばならぬ歳だと言うのに、こんな風聞を心の支えにしないと立っていられず、自ら暴いた墓穴に嵌って藻掻いているのだから施しようがない。疲れと寒さと空腹による苛立ち。そして、こんな空騒ぎをする気力すら、長く苛酷な冬に閉じ込められ、極限の飢餓と衰弱が押し寄せてきたら、根刮ぎにされてしまうのだ。足許に爆ぜた白い礫が暗示する野垂れ死にの背中。降りしきる雪を蝕む汚染物質のどれよりも自分の心が穢れている。鉄郎は或る窃かな目論見を母に押し隠し温めていた。
木の根や木の実を幾ら囓って腹を満たしても、塩がなければ人は生きてゆけない。鉄郎親子は拾い集めた稀少金属や資材を主に工業用塩化ナトリウムと引き替えていた。貧民窟や最終処分場の周囲をトラックで回収に廻る屑屋が湧いては消え、その善し悪しを見極める事が、交換出来る品物を探し当てる事より重要だった。欺き、奪い、踏み躙る。この星の遣り方を連中も忠実に履行し、隙を見せたら序でに命まで巻き上げる。そんな追い剥ぎと紙一重の狐狸畜生の一人に、外装の電脳ブースターを耳に掛けている、流木の様に干涸らびた、二の腕に筋彫りの翁がいた。
生命の核を機械化した此の星の勝ち組は、管理放棄した地域に捨てた物なぞ顧みず、文明の残滓に群がり分解する、バクテリアの如き下の下の商いは、生身の輩の御慰みで廃れた試しがない。そんな百花繚乱の屑屋の中で、筋電義肢やパワードスーツを装備している業者は数あれど、電脳ブースターとなると話しは別だ。筋彫りは見栄やお飾りで掛けているのじゃない。地金相場や換金レートを衛星回線を捕まえて確認しているのを目撃し鉄郎は驚いた。旧世代の外装基板とは言え、仮にも電脳化しているのに屑の回収をしているだなんて。こんな莫迦は初めてだ。バッファーオーバーフローを浴びて脳に器質的な欠損でもあるのか。兎にも角にも、犬に論語か説法か。単にサイトの閲覧や検索をするだけでなく、演算処理と主補の記憶装置を拡張した大脳皮質で仮想空間の大海原に同期出来れば、世界が変わる。無尽蔵のサイバーハザードやセキュリティブロックの迎撃で、背乗りされ、訴追され、人格が崩壊するリスクもあるが、チャンスもある。それなのに魔法の杖を薪にして暖を取っているのだから世話がない。しかもその上、ベレッタM92を小脇に挟んだだけで、助手席と後部座席に抗生物質、葉煙草、工業用の塩化ナトリウムと代用アルコールを詰め込み、ピックアップの門型に飲料水のタンクを括り付け、小豆色に錆の吹いたランクル79を独りで転がしているのだ。飢えと絶望で殺気立った落人を相手に取引をするには余りに杜撰な備えで、出来心を誘っているとしか思えない。
何時しか鉄郎は産廃の尾根を探索している時も、メガロポリスの地下を這う淡水化装置の配管から滴る漏水を回収している時も、集めた 灌木> かんぼくで火を熾している時も、荒ら屋の補修をしている時も、果ては夢の中にまで筋彫りの事を想い描く様になっていた。
廃材の基板やハードディスク、モーターやミックスメタルから抜き取った、リチウム電池、コンデンサー、水晶振動子、ネオジム磁石、金鍍金の端子類、ステンレス316を忙しなく検品し、鉄郎親子の存在その物を値踏みする狡猾な眼差し。如何わしくシャクれた下顎から繰り出す棘しかない一方的な物言い。真冬でも砂埃を吸ったTシャツに多機能ベストを羽織っただけで立ち回る貧躯。腰に提げたジャックダニエルの瓶。中に詰めた代用アルコールのポリッシュで、濃紫に変色した二の腕を這う稚拙な墨の輪郭。
初めの頃は単なる気の迷いで片付けていた。併し、筋彫りとの交渉を重ねる内に、淡き随想が図太い一本の動線となり、電脳ブースターを避けて振り下ろす、鈍器の感触に逢着した時には既に、鉄郎の意志は鉄郎の手を振り切り逆走していた。掌から肩胛骨へと突き抜ける鋼質な衝撃、物静かに倒壊していく陥没した後頭部。忌まわしき邪念を掻き消そうと幾ら藻掻いても、血塗れの電脳ブースターは微粒発光ダイオードのシグナルを忙しなく痙攣させて、顳顬に喰らい付いてくる。良識なぞ事の根深さを掘り起こすだけで、無駄な抵抗でしかなかった。
彼の爺を襲撃するのが此の暮らしから這い上がり、此の星の成層圏を突破する最短距離だ。狐疑を巡らせている内に据え膳を下げられでもしたらどうする。今の今まで無傷でいたのが不思議な位の上玉だ。お前が遣らなくとも余所のハイエナが手を下す。誰かの餌食になってから、奴の墓を暴いた処で何も出てきやしない。襤褸を纏った自分達を雑巾の様に扱う輩に何を遠慮する必要がある。旋毛曲がりな奴の脳天にハンマーでも鉄パイプでも、この星から御然らばする往きの駄賃に呉れてやれ。
鉄郎は執拗で甘美な眩惑に屈服し、仕事の手が空くと、筋彫りの習性、行動原理、事業半径、生活形態を嗅ぎ周った。燃料を補給する為、マイクロプラスチックを回収したまま放置してある集積所跡に還元装置を持ち込んで、車中泊しているのを突き止め、身寄りもなく、仕事を終えると塩で 濾> こしたポリッシュを呷り、セルの壊れた発電機の様に唸って独り眠りこけるのを、易々とその寝顔が拝める処まで近付き幾度と無く盗み見た。ランクルに防犯の人感センサーを装備している訳でもなく、取引の際、有無を言わさず一方的に喋り立てるのは難聴の所為で、陽が落ちると鳥目でランクルの前と後ろの区別も付かなくなるのだから、まるで闇討ちを心待つが如き高枕。鼠賊の欲目を通しても、何かの罠でなければ、魔性の御祝儀か。何時でも寝首を掻ける獲物は黒極上々吉にて、直ぐ眼と鼻の先。にも拘わらず、鉄郎はその妄執にケリを付けられず、豚の様な鼾を拝聴しただけで、マイクロプラスチックの山を後にした。
頭の中で悶絶する電脳ボードを夜霧で醒ます片道四時間の帰り道。筋彫りのベレッタに返り討ちにされるのを恐れたのでもなければ、良心の呵責に傅いたのでもない。何の道、待っているのは草臥れ儲けと重金属の土埃に埋もれるだけの日々。座して其の身を清めれば衆生済度衆生済度の幕が開き、神助が転がり込むでも無し。生き恥を曝すだけ曝して、息の根が止まるまで楽になる事はない。同じ命を削るなら、羆の頸動脈に喰らい付く豺狼の様に、奇骨侠骨を打ち鳴らし無法の原野に轟きたい。此の星に蔓延る不条理の喉笛を喰い千切るのに、多少の無茶や返り血は織り込み済み。苦崖愴谷の絶険に爪を立て、逆賊の気概に奮える若い身空に、筋彫りの反撃なぞ物足りぬ位だ。折角、腐臭に躍る雑菌を消毒してやるのに、殺生も糞もない。
鉄郎の決意に立ち開かるのは、清く正しく美しく、娜やかで時に息苦しい崇高な母の生き様だった。虚偽不実の一切通じぬ聖哲の視座に、強奪した電脳ボードがどう映るか。塵の山に落ちていたと言っても信じる訳がない。此の暮らしから抜け出すのに遠回りをしている余裕はないと訴えても、理路を外れた薄弱の泣き言、無用の饒舌に耳を貸す訳がない。手段を選ばずに物質的な成果を追い求めるとどうなるのか、知りたければこの星を見渡せば良い。そう諭すだろう。例えそれが999のパスでも受け取らず、此の星の命に寄り添い殉職するだろう。
鉄郎にとって、幽谷に滅する御神木か、鍾乳石と結した仙女の様な母は余りにも高潔で、己の将来と重ね合わせる事が出来なかった。霞を喰って懊悩を禊ぐだけの人生。それは英傑を仰ぐ思春期の鉄郎にとって針の筵に等しく、誰も誉め讃える事のない光貴に浴した処で唯の独り善がりでしかない。母の背中を頼りに、亡者の諍いを潜り抜け、生き長らえてきた事は確かだ。正義の敗北した此の星で、徳を高める事こそが手堅い生き方で在る事も目の当たりにしてきた。しかし、陋巷の猥雑に揉まれる事を避け、綺麗事に徹しているだけでは、羽化せぬ蛹と変わらない。道無き世なればこそ道を説く、其の耳触りは結構だが、道理を説いて通らぬ此の星に操を立てても、袋小路の中で迷子になるだけ。此の這い蹲っている汚染された地ベタに、泥に塗れず拓ける道が何処にある。
己の醜さに垈うつ鵺の四肢の様に、幻滅と愛惜、救済と堕落の狭間で四分五裂に入り乱れ、闇に呑まれていく鉄郎。生きて荒魂の化身と成り果てるかに思えた其の時、迷う道すらない雪原に乾いた音が弾けた。立ち枯れた灌木の梢を折り、母が微笑みを浮かべて立っている。雪明かりとは違う何かが、手にした小枝を幽かに照らし、二人が寄り添い辿ってきた足跡をなぞる様に、穂先が新雪を駆け抜けた。
遙奈流 夢路乎波世而 浮之空
餘其騰繼流 雪晚爾轉
遙かなる 夢路を馳せて 浮はの空
吉事繼がるる 雪暮れにまろぶ
其の人、紙墨すら選ばず。一点一画、典雅静謐に身を窶し楷書は、黎明の孤碑。深山流水、淀みなき草書は、時に移ろう万葉のひとひら。淑やかに、嫋やかに、そして厳かに。再び帰らざる、一筆にたった一度の巡り合わせ。書に過ぎる哥あり、哥に過ぎる画があり、画に過ぎる己の姿、一代の過客にして歌境此処に極まる。返歌なぞ及びも付かない。胸を拍つ一握の温もりに鉄郎の凍てついた血潮が、調和を失した現実の断片が解晶していく。
劣悪な星の許に生まれ落ち、果てしない苦役を強いられる日々の中にあっても、母は泣き言や恨み辛みを決して口にせず、書を以て精と為し、物を以て粗と為し、絶望の画布に花鳥風月を描き続けた。生き長らえているのが不思議な首の皮一枚の暮らし、瓦礫の迷宮、そして、激越な気象変動に埋もれる四季の音連れ。其の窶れた機微に眼を配る秘めやかな嗜み。蠢くだけで漣すら立つ事のないゲル状の海、粒子状物質に掻き消された星々、墨で塗り潰した様な汚水の雨、咲く事を諦めた被子植物に往時の幽影と詩趣を垣間見、仕事の合間を見ては砂地に歌を綴り、風に攫われ無地に臥す薄命を慈しむ。幻想への安易な逃げ道や敗北の挽歌なぞでは決してない。忘れ去られた言葉、滅び行く文字。断ち切れた紙縒を伝う最後の灯火が、嬲り尽くされた風土に眠る和魂を呼び覚ます。
清貧と言う気取りすら削ぎ落とした母の古筆が、此の親子以外、読み書きの出来る者が何処に居るとも知れぬ言霊が、降りしきる雪に覆われていく。限りある物達の透徹した憂いが鉄郎の幼さを慰め、白い吐息に紛れ消えていく。雪が滲みる訳でもないのに熱い目頭。裏も表もない母の朗らかな声が、揺るぎなき春の息吹を口ずさむ。
「さあ、早く家に戾りませう。しつかり休んで新しい歲を迎へませう。」
気が付けば今も又、鉄郎は垂乳根の手な心の中に居た。鏡に向かって吠える犬を後ろからそっと包み込む、母聖の羽衣。
鼻の頭が支えるほど狭い荒ら屋とは言え、骨身を蝕むこの忌まわしい雪を凌ぐ事は出来る。僅かだが薪と飲み水の蓄えも有る。自分達には帰る場所が在り、其処には細やかな寛ぎが在る。食料が底を突いているのは確かに堪えるが、此までも何度となく乗り越えてきた。今は唯、疲れているだけ。風雪を侵し敢えて咲き急ぐ寒梅とは訳が違う。こんな真冬に散り場所を探してどうする。百花の魁に眼が眩み平地に躓く、そんな貧民窟の小競り合いに巻き込まれずに済んだのは誰の御陰だ。万有の解は行住坐臥、面前に侍りて、其れを見極め捉える智力が整うまで心の瞼は啓かない。湖底に沈む石の様に母は静かに時を待つ。己の進むべき道は母と辿った正しき道の先に続いている。
新しい命を賜ったかの様に言葉が内から溢れてくる。実物の花を見た事のない鉄郎の胸の奥に、母の詠う花々が咲き乱れる。凱風に翻る洗い 晒> さらしの稚気。夢魔から醒め、多くを語らぬ母の穏やかな眼差しから逃れる様に、外套を目深に被りながら微かに頷き、葦を幾重にも巻いた爪先で再び新雪を掻き上げる。風が出てきた。此れから吹雪くのだろう。メガロポリスの灯りを背にしたら、後は灌木が僅かに顔を覗かせているだけで、何の目印もない雪景色だ。下手をすれば勝手知ったる我が家ですら見失う。もう眼と鼻の先だからと言って気を抜き間誤付いていたら、芥場を飾る雪化粧も行き倒れの死に化粧。こんな処で道草を喰っている場合じゃない。
鉄郎は傾いだ心を立て直す様に、不確かな足許を一歩一歩踏み締め、雌伏の時を刻む。今、自分が為す可き事は、此の吹雪が順風に一変する、来る可 き瞬間に備え集中する事だ。喩え何一つ元手の無い身であっても、頭の中を整理し、時局の急所を衝く一撃に狙いを凝縮する事は出来る。堅き心の一徹は、石に矢の立つ例在り。耐え抜いた嶮路崕峰の先に、必ずや善因善果の誉れ在り。酸性雪の冷鋲で痺れる躰の芯に一条の火柱が立ち昇る。廃材で組んだ四阿は直ぐ其処だ。野末に蹲る小さな影を求めて眼を凝らす。不意に、母の押し殺した声が鉄郎の逸る足取りを遮った。
「家に近附いては駄目。」
闇に潜む未知の何物かに感応する母の不随意筋。神聖なる啓示では決して無い。風向きが捻転し、冷烈な寒気が不吉な瘴気に豹変する。
「鉄郞、逃げて。私とは反對方向に走るのよ。振り向かずに、兔に角逃げて。」
悴んだ指先を鉄郎の頬に添え、我が子の顔を焼き付ける様に眼を見張る。母がこんな言葉を口にするのは初めてだ。蟻塚を砕いた様な貧民窟の暴動、無差別爆撃でしかないメトロポリスの産廃投棄、その産廃の山を穿ち掻き上げるF5クラスの竜巻、メトロポリスの免震構造から摘み出された地表の総てを呑み込む津波の逆上。迫り来る惨禍兇変が壮絶であればある程、此の手を強く握り締めて離さず、一筋の活路へと導いたあの母が、鉄郎を其の場に残し駆け出した。全く状況が掴めず、思わず其の後を追い掛けようとした刹那、ヴァイオレットの閃光が遠離る母の背を掠め、霙を孕む横殴りの白魔が色めく。新雪を入り乱れる姿無き蹄鉄。獣臭い息遣いまでもサンプリングされた剛性軍馬の嘶き。怒号が怒号を呼び、闇雲に交錯する光弾の条跡。
人間狩りだ。メトロポリスの有閑貴族が興じる、自警団の清掃事業が長じた、狩りとは名ばかりのジェノサイド。テント村に火を放ち、逃げ惑う者達を女子供の区別なく銃撃し、屍の山を競っては、高笑いを蹴立てて去っていく、機械仕掛けの白日夢。弱者が一ヶ所に固まって共棲する事は、却って強者の食指を擽り、御狩場はメガロポリス周辺の貧民窟と相場が決まっているのに。其れが何故、鉄郎親子以外、誰も足を運ばぬこんな荒野の果てで。しかも、確実に獲物を仕留めたければレーザーアサルトで水平掃射すれば良い物を、より機動力のあるスノーモービルに乗らず、疑似ボルトアクションとか言う奴なのだろう、連射の利かぬ好古趣味の小口径ライフルで、サイレンサーすら装備せずに目視での狙撃。傷を付けず生け捕りにでもするつもりなのか。
釣して綱せず。弋して宿を射ず。奴等は狩りを楽しんでいる。其の甘さと驕りが唯一の救いだが、此の吹雪の中、逃げおおせたとして、其れからどうすれば良いのか。眼を付けられて了った家にはもう戻れず、灌木が朽ちているだけの徒し野に、寒さを凌いで身を隠せる場所なぞ何処にもない。どうやって母さんと合流すれば良いのか、否、それ以前に母さんの命は。反対方向へ逃げろと言われたが、此の儘、生き別れて終う事になったらどうする。鉄郎の脚は取り残された其の場を躙るばかりで、母と光弾の残像を震える瞳で追う事しか出来ない。其処へ矢庭に、
「オイ、居たぞ。」
誇らしげな声と猛々しき嘶きに背を衝かれ振り向くと、焼きの入った粘りのある光沢を滴らせて、クロムモリブデンの円筒が鉄郎の鼻先を捉えていた。一瞬の白撃に見当識が砕け散る。鉛錫色に燻る剛性軍馬の甲殻。鞍笠に棚引くラインディングコートのフレア。クロム鞣しの重厚な胸元、肩章、領袖に鏤めた金釦。そして、蜷局を巻くロングマフラーの台座に滅り込んだ、炭素同素体をドープしていない旧世代のチタン合金と思しき筐体が剥き出しの頭部。鉄郎の腰は頽れ、旋雪の坩堝を引き裂き現れた鋼鉄の神馬に跪いた。歯の根から舌の先まで痺れて、逃げる処か命を乞う事すら出来ない。レーザーライフルの銃口に魅入られ、死の洞穴が其の隻眼を眇めただけで、鉄郎の魂は風穴を空けられ、つい今し方まで筋彫りの強殺を粋がっていた気炎なぞ跡形もない。続々と詰め掛ける蹄鉄の乱拍子。煌びやかな鐙の鈴生りに取り囲まれ、万事は玉屑の道連れと飛し、風前に滅した。
人工被膜で覆われていない複眼レンズを小刻みにウィービングして獲物を視姦する騎乗の魔神。こんな異形の電脳機族を鉄郎は見た事がない。機族達は日常、角質を模した合成樹脂で全身をコーティングし、一瞥では生身の人間と見分けが付かない装いをしている。中位機種以下のアンドロイドですら、申し訳程度の目鼻立ちとは言え頭部はカウリングしている物だ。其れを此の奸賊共は、クラシカルな洋装に亜麻色の植毛を撫で付けていながら、人類であった頃の名残を拒絶するかの如き険相で、此の塵界に憚っている。まるで産廃の墓場から復活した工作機械のゾンビか、排撃に朽ちた邪神像か。その奇鉱怪銕の堵列を、落天斬地の恫喝が一瞬にして制した。
「そんなガキ放つておけ。女だ、女を追へ。時間が無い。この吹雪で暗視スコープは使ひ物にならぬ。解像度は度外視して、赤外線走査をサーモグラフィに切り替へろ。誰だマイクロ波を飛ばしてゐる奴は、五月蠅くて敵はん。さつさと切れ。」
殿に控えていた頭目が、私刑の円陣を蹴散らして現れると、騎馬の蛮族は犬橇の犬に成り下がった。大取は青銅鋳物の化身だった。旧世紀のチタン合金と言う、霊超類の優越に浸った下僕達の謹製趣味とは、囲幕する領域の兇度がまるで違う。鉄と鉛の如き似て非なる粗造の死神。取り巻きなぞ糸で吊された機体模型でしかない。漠然とした視覚イメージであろうが、書式での指示であろうが、CADすら介さずに自動補正し、あらゆる素材で直接成形出力し得る時代に、砂型鋳造の地肌を醜老の如き無数の皺襞が縦横に走り、殴り込んだ空間を蹂躙している。文明の仮面を剥ぎ、進化を拒絶した呪界からの使者。人工被膜の虚飾を灰し、緑青の酸化被膜で爛れた憑魔の葬厳。まさか此は完全機械化人が産声を上げた創世記のミイラなのか。
マシンニングで彫造された犀革の如き団塊の中核に、インローで嵌め込まれたモノアイから、猟奇を帯びたプラズマが放電している。回転ベゼルに縁取られた風防硝子の眼底で、積算尺のインデックスを掻き毟る長短の神経質な複針。鏡面研磨された文字盤を血走るカドミウムレッド。頬から襟足に掛けて富士壺の様にこびり付いたベアチップを駆け巡る、珪酸コバルトのフィラメント。下顎のエアフィルターが排気する焼き鏝の如き痛罵。
鉄郎は凡庸な群臣を一撃で睛圧した総帥の槍眸に衝き抜かれ、九死の戦慄すら氷結した。鼻先を擽る銃口の比ではない。モノアイの魔窟に蠢く独善と狂爛。見てはいけない物を見て了った、禁忌に触れた誅撃。心の臓を鷲掴みにされて、吐息一つ喘ぐ事すら叶わない。
「伯爵、此のガキを囮にして。彼の女を誘き寄せましょう。」
「戯けが、そんな美人局の様な真似が出来るか。漁がしたければ貧民窟で騒いでゐろ。良いか、何時もの獲物とは訳が違ふ。無傷で捕らえなければ意味が無い。レーザーライフルの出力をもつと抑へろ。相手は生身の人間だ。炭にするつもりか。女の足跡を踏み荒らすな。獲物は直ぐ其処だ。行くぞ。」
爵位を冠した鋳鉄の羅刹が踵の拍車を軍馬の腹に蹴立て、瀟洒な軍装を翻すと、配下の機畜も其の後を追い、母が姿を消した方角へと殺到する。鉄郎は這い蹲ったまま蹄鉄の巻き上げる後雪を被り、己の存在を無視して過ぎ去っていく馬脚を避けて、強張っている事しか出来ない。遠離っていく嘶きが死に損ないの雑魚を嘲笑う。踏み散らされた足跡が転がっている以外、露命を拾えたと言う実感なぞ何処にもなく、モノアイの金縛りから解かれたと言うだけで、恐怖と悪寒で骨の継ぎ目すら合わず、母の命が危ないと言うのに、嵩を増す雪の粒子が整然と体温を奪っていくのを愕然と承諾している。千切れる程に痛かった鼻筋や頬、指先の感覚は既にあやふやで、肘から先と膝から下も緩慢に麻痺し、魯鈍な睡魔が背後を付け狙う。終末を告げる地吹雪の大勤行。視界の総てが頭ごなしに薙ぎ倒され、此処には今、生を拒絶する物以外何も無い。人間狩りの狂騒が眼の前を素通りし、百鬼夜行の戦列に復帰した事で、死がより深淵を究め、時が限界を刻み、置き去りにされた雪原を研ぎ澄ます。敗北の傍観者と決して眼を合わせない、現実の峻厳な素の横顔。文明に冒涜されたこの星の寡黙な復讐。その忍びに忍んだ心火が決壊した様に、皓皓暗澹たる地の果てを、突如、荘厳な地響きが轟いた。重機に因る衝撃とは明らかに異なる大地の慟哭。鉄郎の薄弱な意志を震撼する運命の弔鐘。壊疽寸前の指の先まで痺れる、その忌まわしい余韻を劈いて、翡翠の光弾と母の断末魔が交錯する。
震えが止まった。高波の様な暴風雪の礫が点描となって静止し、地鳴りの如き轟音が途絶え、逆巻く荒天の彼方で、レザーライフルとは異なる金属の炎色反応と思しき光芒が闇を焦がしている。捕らえた獲物を閲する為に投光器で照らしているのか。命の灯火とは程遠い、温もりのない無機質な燃焼。聞こえた筈の絶叫は脳にメスを入れられた様に切除され、恐れていた事が寸分の狂いもなく進行していく銀幕の世界を認識が拒絶し、母さんが撃たれた、と並べ立てる白けた字句が、意味を置き去りにして雪に舞う。石化した心拍の秒針。終息していく遙かなる弧光。其の幽かな火影が、住み慣れた荒ら屋の囲炉裏の中で微睡む、健気な種火を呼び覚ます。
繕い物をしながら神代の物語を紡ぐ、母の篤き祈りを馨し、限られた食料を煮炊きして五節句を祝い、旧市街地から掘り起こした、黴黒に腐す教科書や少年誌の単行本を照らした、彼の灯火。母と二人で身を寄せ合った日々の断片が追憶の炎に揺らめき、辛く悲しく惨めだった出来事が、寧ろ無性に懐かしく、愛おしく、狂おしい。甘美な随想に導かれ降り注ぐ憐慕の清らかな慈雨。其の仮初めでしかない御恵みが最後のマッチをへし折った。
豪雪の瀑布に呑まれ燃え尽きた燐光。思わず取り縋ろうと鉄郎が身を乗り出した瞬間、肋骨が波打ち、怒濤の震駭が脊髄から脳髄へと堰を切る。表裏が捻転し食道を逆走する胃粘膜。眼圧が軋みを上げ、毛細血管がレッドアウトする網膜。分類不能の感情が声帯を切り裂き、雄叫びが運命の扉に響き渡り、雲母摺の虚空に張り付き静止していた地吹雪が息を吹き返す。鉄郎は氷獄の鎖を引き千切り、潰えた光を求め半狂乱で駆け出した。引き返す場所なんてない。生死存亡の節目も見失い、唯只、蹄鉄の轍を駆逐する。解体現場の破断された鉄骨の様に屈曲して絡み合う凍結した四肢。物の十メートルと進まぬ内に足を取られて、後はもう降り積もる雪に溺れ、藻掻き匍匐する。追っているのか追われているのか、前に進んでいるのか、地の底に潜り込んでいるのかも判らない魂の痙攣。
隻眼の死神を睨み返す事すら出来ぬ分際で、一体何がしたいのか。厳然たる危機を漠然とした不安の影から覗き見るだけで、未曾有の恐怖に平伏した腑抜けが、今更、己の肉体を痛め付け、助けには行ったと言うアリバイでも欲しいのか。
顔面から足許にのめり込み汚染した雪を食むその後頭部を、上から踏み躙る自劾のリフレイン。千仭の山を転ずる巌の如くのたうちながら、盲爆の連鎖をブチ撒けていると、何時しか鉄郎はドス黒い泥濘の中で身悶えていた。果てしなき雪原に其処だけが欠落した様に口を開け、敷き詰められた、降りしきる雪を無言で呑み込む漆黒の茫漠。其の生臭い闇に憑き物を葬られ放心した鉄郎の眼に、見覚えのある継ぎ接ぎの襤褸が止まった。まさかと思い手に取ると、それは脱ぎ捨てられた母の外套で、泥濘と思い掻き分けていたのは、バケツで撒いたかの如き致死量の血溜まりだった。
凍傷で麻痺した頬に針を刺す様な熱い感覚が本の一瞬甦る。接着剤の様に固着し黒ずんだ皮膚に涙が溢れていた。手の中で棚引くポリエチレンの焼け焦げた風穴。血の池を跨いで何処までも続く蹄鉄の跡。決定的な状況証拠を突き付けられた鉄郎は、幼児帰りでもしたかの様に、
「どこにいったんだよう。」
と甘えた声で口籠もり、母の外套を胸に抱き竦めて血の池に額ずいた。涙が襟足を脇腹を背筋を伝う幾筋もの汗と共に醒め、死灰の如き暴風雪が丸腰の体温に牙を剥く。壊疽した痛覚に昏々と埋もれていく氷塊した泣血哀慟。
力尽きる程の力すら持ち合わせていない雑魚に、失って途方に暮れる程の未来なぞ元から無かった。筋彫りを殺して電脳化し、此の星から御然らばする。そんな御伽噺に一匹狼のつもりで喰らい付き、自慰の屋根裏に閉じ籠もっていただけの夢精病者。たった独りしかいない肉親の命の行方さえ判らず、夥しい血祭りの跡を前にして、撃ち殺される価値すら無い自分の存在に、薄ら笑いを浮かべる事すら出来ない。朝露を啜って木の根を囓り、瓦礫の陰に隠れて機族達の眼から逃れ、襤褸を纏って屑を嗅ぎ廻る姿を、貧民窟の餓鬼共から蓑虫呼ばわりされた挙げ句此の様だ。塵外を垣間見る事すら出来ず、魘され続けるだけで醒める事のない悪夢。此が神の試練、人類の始祖から受け継いだ原罪、巫山戯るな。母さんを、母さんを返せ。其れが叶わぬのなら、せめて、せめて一目、母さんを・・・・
たらちしの母が目見ずして鬱しく
何方向きてか吾が別るらむ
吹き止まぬ永訣の白墨に組み敷かれ、天地も知れず遠退いていく意識の中で、鉄郎は頭から踣り込んだ新雪に向かって呟いた。他に何かを言い残すも何も無い。唯、母を想う心だけが最期の一点に結晶していく。すると、完全に雪に埋もれる寸前の背中に、香貴を散らし歩み寄る、端然とした気配を感じた。息の根を窺う、其の無為な眼差し。喪神の彼方にささめく閑吟低唱。
大口の眞神の原に降る雪は
いたくな降りそ家もあらなくに
満ち溢れた潤いのある暖気に頬と爪先の凍傷が充血してさざなみ、手足を覆う滑らかな肌触りがしっとりと汗ばんでいる。心地良い朦朧と疲労と弛緩の三和音。鈍らな意識の傍らで何かが頻りに爆ぜている。囲炉裏で柴を焚いているのか、否、此の音にはもっと芯がある。立ち枯れた灌木の小枝とは訳が違う。閉ざされた瞼の向こうで、和やかな火勢に身を窶す野太い薪の独白。絡み合う樹皮と脂の燻香。こんな稀少な森林資源、一体、誰が何処から。
鉄郎は何時以来とも知れぬ安らかな微睡みの中で、僅かに傾いだ疑問符を定点に、漂泊する自我と世界を寄せ集める。寒波の訪れと共に厳しさを増す日課の資糧採取、歩いても歩いても外れを引く徒労の行軍、綿雪を纏い降臨する999の光跡、銀箋に綴る母の寿哥。惹かれ合う途切れ途切れの時系列。折り重なって広がる波紋と波紋。其の滑らかに解晶していく追憶の曲水に、形無き小さな 痼> しこりが渦を点す。覗き込んだ水面に明滅する己の姿。何かに魅入られ硬直した其の表情に、蹄鉄が雪煙を巻き上げる。白暮に散った断末魔。小さな痼りに亀裂が走り、芽吹いたカドミウムレッドの隻眼が、黒変した血の池に鉄郎を突き落とす。
肋骨を穿つ心駭。息が詰まって跳ね起き、寝汗に浸かった襟足を地吹雪が駆け抜ける。甦った戦慄と露命に悟性が追い付けない。生きている、のか。記憶と統覚が鮮明に成れば成る程、あやふやで手に付かぬ実感。整えた呼気が肺の腑を健やかに環流している事にすら、素性の知れぬ虚ろな吐き気を催してしまう。
精も根も尽き果て自ら血の池に身を屈した。母の跡を追う事も、我が身を護る事も諦めて、死の逸楽に溺れた。一度捨てた筈の命。塵を拾って生きてきた其の功徳を買われて、御仏に拾われたとでも言うのか。鉄郎は真っ新なシーツを設えたベッドの上に坐していた。しかも、服を着ている。襟足から爪先まで純綿の柔和な天然繊維に抱かれて、西方に十万億土を過ぎた、極楽の蓮の蕾から生まれ変わったかの様な天地転倒。全く身に覚えのない僥倖は、却って鉄郎の疑心を炙り立てる。
洗い晒しの霜原を爽やかに敷き詰めたシャンブレーシャツに、点描のストライプで抜染したインディゴのベストを重ね、丁寧な毛焼きを施された太畝のコーデュロイパンツは、奥行きのある鳶色の光沢を湛え、真鍮のファイヤーマンバックルがタンニン鞣しの黒革ベルトを慇懃に施錠し、オーガニックコットンのみで編み上げられたクルーソックスの雲の上へと誘う優しさに、石化して皹を巡らす足の裏の角質が、人の情けを知らずに育った追い剥ぎの様に戸惑っている。化繊の混紡や時流に媚びた模造品とは訳が違う逸品。細部に宿る拘りと失われた筈の技術が、厳選された素材を磨きに磨き上げている。
産廃から掘り起こした古着は総て塩や医薬品と交換し、外套とは名ばかりの端切れを継いだ襤褸一枚を被って、夏も冬もなく雨露陰寒を凌ぐ。そんな踵の千切れたサンダルに爪先を引っ掛けた事すらない鉄郎にとって、ミシンで縫製された卸し立ての衣服は、夢の続きでなければ何かの策略としか思えなかった。
見上げれば、直天井を行き交う厳めしい大梁。ウェザーチェックの欠片もない漆喰の壁。オーク材で統一された床板と家材は、油絵のモチーフの様な配置と調和によって整然と完結している。浅浮き彫りのサイドボード、扉にステンドグラスを施したガラスキャビネット、棺桶を立てた様な長躯のワードロープ、天板に虎斑の杢目が踊るドローリーフテーブル、重厚な装幀の全集で埋め尽くされた本棚と、手持ち無沙汰なマガジンラック、両翼を広げて宙を静す壁掛けのシェルフ、金鍍金の文字盤を掲げた重錘式のホールクロック、ガンラックに縦列して横臥する中折れ式散弾銃の数々。天涯孤独の主人公が迷い込んだ、眠れる森の主無きロッジ。幼き頃、廃校の瓦礫の中で眼にした洋書の挿絵が甦る。訪問客の審美眼を意識した肖像画や小賢しい饒舌な陳列、金満趣味の華美な装飾はなく、沈思に耽る調度品の寡黙な経年変化を囲んで、爆ぜる暖炉の昔語りに、窓外の吹雪が相槌を先走る。
気象制御されていない処を見ると、メトロポリスの管理区域外だ。文明に追われた棄民の墓場に、こんな贅を尽くした旧世紀の遺物が現存するなんて。奇妙な部屋だ。非の打ち所のない保存状態は文化財の展示場の様に人を突き放し、自宅の荒ら屋には溢れていた、手の温もりで磨き込まれた色艶も、喜怒哀楽を巡る生活の息吹も、何かが過ぎった残像の欠片もない。忘れ去られた隠し部屋の如く、幽居に秘した空虚。八時半を跨ぐホールクロックの針が、重錘の鎖に縛られた小さな世界を周回している。
騙し絵の仕掛けを探る様に、ザワついた耳閉感を峙てる鉄郎。夢魔の館に一服盛られて、己の拾った命すら妖しく、心を許す事が出来ない。粉飾されたこの部屋の意匠を暴け。漆喰とオールドオークの狭間に綻びを探る、敏捷な邪視の切っ先。其の一閃が、ドレッシングチェストのオーバルミラーの中に潜んでいた金鱗と擦れ違う。咄嗟に振り返った鉄郎の頬を張る冷や水。細かく鋲の打たれた総革張りのウィングバックチェアに、女が深々と身を埋めている。何時から其処に座っていたのか。鉄郎の点眼外顎を意に介さぬ、白檀のオードトワレを纏った不敵な物腰。その傲然とした気配に全く気付けなかった驚きを、此の唐突な亜空間の主は遙かに凌駕していた。
「母さん?」
鉄郎の絶句した眼路の先に鎮座するたった独りの肉親。凄惨な最期を一度は覚悟した悲衷の人が今、其処に居る。それなのに、渇望していた筈の奇蹟の再会に、鉄郎は犬歯を剥いて身構えていた。此奴は誰だ。欲目に眩んだ幻にしても度が過ぎる。
彫金細工の様に繊細な肢線をなぞる、艶やかで毛足の深いフォックスコートに露西亜帽のロングを合わせた、輝ける闇の様な黒装束。肩口から小脇へ豊かに波打ち、蜂腰を抱いて腓を擽る糖蜜の様な金色の垂髪。光と陰が鬩ぎ合う魔性のコントラストに、鉄郎は冷徹な狂気を直感した。仙山桃質、偽りを知らぬ瑞々しい頬。研ぎ澄まされた頤に眠る独片の丹唇。切れ上がった秀鼻の子午線から解き放たれて棚引く蛾眉翠彩。翻った鳳尾が如き雅な睫毛に縁取られた、絶世の星眸。完璧なデッサンによって構築された生みの親の生き写しは、オリジナルを超えて若々しく、現世から逸脱し、最早、天来の美、神来の妙とは程遠く、其の容色、咲みを含まず、無菌漂白された痛ましさで、瞬き一つせずに窒塞している。
これは何の模倣劇だ。無断複製にも程がある。一体、何様のつもりだ。此の贋作野郎。鉄郎は理路の通じぬ女の存在感に呑まれるまいと、空回りする思考に罵辞を殺到させる事で防塁を築き、己を奮い立たせた。
肘掛けに添えられた女の手の肌理は白磁の玲瓏を奏で、五指を滴る爪甲は月長石の神韻を湛え、荒れ果てた大地を、産廃の蟻地獄を素手で掻き分け、掘り起こす日々とは無縁の安逸に浸っている。母の手は鉄郎と同様に、指と爪の区別さえ付かぬほど角質化し、ラッカーシンナーに浸して削っても落ちぬ程、ドス黒く汚染されていた。其の懸命に生きてきた証を、無自覚に嘲笑う女の洗練された佇まい。何より、柩の中に納められた黒耀石の様に透徹した其の眼差し。生き別れていた息子を無言で視姦し続ける親が何処にいる。こんな魂の入っていない猿真似でも良いから、母さんには生きていて欲しい。だが、違う。鉄郎は塵汗に伏して猶、貴を放つ母の面影とは真逆な、女の硬質な面の皮を睨み返した。
見れば見る程、訳が判らない。この肌の艶、潤い、発色からして、女が血の通った生身の人間である事は先ず間違いない。どれほど精巧に加工、改良されていようと、人工被膜はポリウレタンや塩化ビニールの塊だ。表情筋のモデリングにも限界がある。体の線は細いが栄養状態が悪いとはとても思えず、汚染物質の蓄積や遺伝子障害も見当たらぬ、相当な優良種だ。筋電義肢や人工臓器をマウントしている事もないだろう。鉄郎が嘗て見た事がない程の衛生的な健体。それなのに女の令顔清色は掛け替えのない生の恩寵を無視した、破戒の彼方に傲座している。恰も機械化人を超絶した究極のエリート。遺伝子ドーピングの生み落とした第三の人類。麗しき即身成仏が辿り着いた至高のマネキン。
慈悲の欠片も垣間見せぬ、母の仮面を被った此の幽女が、自分を血の池の底から救い出したのか。彼の惨劇の現場を見たのなら、何故、平然としていられるのか。抑も何故、其処に居た。偶然立ち寄る様な場所じゃない。人間狩りの探査の網も張られていた。数え上げたら切りがない、些細な糸口の総てが蛇影と化し、母が襲われた其の場所で、母の生き写しに助けられると言う奇僻に迷い込む。そして、本の僅かでも嫌疑の手綱を緩めると、弾除けにすらなれなかった母への贖罪と思慕が決壊し、女の足許に縋り付きそうになる。其処へ不意に、
「具合はどう?ああいう物しか用意出来ないけれど、良かったら召し上がれ。」
素っ気ない事務的な響きが、女の口を掠めた。母と寸分違わぬ声色に揺すぶられる、鉄郎の張り詰めていた虚勢。そして、女が眼で促す先に誂えた持て成しに、息を潜めていた獣性が唸りを上げる。引き攣った小鼻の奥で、想定外の芳醇な粒子に感応する鼻粘膜。振り返ると、ドローリーフテーブルの上にコバルト絵具で彩色されたティーセットが湯気を立てている。何時の間にと訝る暇もない。鉄郎は女への穿鑿を薙ぎ倒し、車座に畏まったボーンチャイナの鈴生りに飛び掛かった。
ポットから沸き立つ浄水の香気。腰の括れた小瓶の中に眠る上白糖は、石英の煌めきを湛え、小皿に盛られたチョコチップクッキーの尾根が、ゴツゴツと肩を小突き合っている。鉄郎は茶葉を無視して砂糖を瓶ごと呷り、ティーポッドの注ぎ口を銜えて何の躊躇いもなく流し込んだ。喉を焦がす熱湯。垂直落下の火砕流が急き立てる圧倒的なリアル。夢じゃない。小皿に頭から突っ込んでクッキーを犬食いし、ティーポッドを呷っては、クッキーの欠片を抱き込む様に掻き集めて皿に齧り付く。
粗造遺伝子による工業野菜や培養肉の、取って付けた様な口当たりとは一線を画す、天然の原料によって練り上げられた、偽りのない純朴なる滋味。蟻がバターとマーガリンを嗅ぎ分ける様に、鉄郎の舌は豊饒な無雑にのめり込んだ。グルテンの顆粒から解れる炭水化物の甘味とカカオの苦味を、円やかに包み込む全卵と乳脂乳糖。塩と油脂を摂取する為に、腐敗した石鹸ですら噛み砕き飲み干してきた、鑢の様な味蕾が望外の慈雨に戦いている。富貴を究めても叶わぬ珠玉の稀少食材を、どうやって手に入れたのかなぞ今は構っていられない。
歯の根を濁流する鉄砲水の様な唾液の氾濫。額から噴き出す荒玉の汗。胃酸が渦を巻き、血糖が毛細血管を急激に押し広げ、首筋から二の腕に発疹が駆け巡り、網膜に星が飛ぶ。物を噛んでいるのか、唸り狂っているのか、呑み込んでいるのか、痙攣しているのか判らない。体中の細胞が押し寄せる養分と水分の一粒一粒を奪い合い、分解から合成に転じた筋繊維の一筋一筋が弾けて、撓垂れていた肩胛骨が脊椎がグツグツと隆起する。復活した敗者の肉体。ブレーキの壊れたカロリーの激流は、延髄から前頭葉へと絶頂する脳血流の熱暴走と繚乱し、神経回路の活動電位をブッ千切る。見境を失った食欲と暴力。底知れず精力が漲ってくる。衰弱と疲労によって虐げられていた怒りが、母に手を掛けた機賊と、為す術もなく傍観した非力な己に対する問答無用の憎悪が、喉に支える焼き菓子とは逆流する様に込み上げ、鉄郎は肩で息をしながら徐に振り返った。女は賢しらに左の口角を吊り上げ、侮蔑と愉悦の入り混じった狐視を燻らせている。家畜を値踏みする粘着質の涙腺。鉄郎は息を吹き返えした獣心を辛うじて組み伏せ、其の巫山戯た眼差しを睨み返した。
「君は大丈夫だったのかい。」
「大丈夫って、何が?」
「人間狩りだよ。」
緊張感の欠片もない女の反応に、鉄郎は助けてもらった礼すら忘れ、チョコチップを飛ばして噛み付いた。
「人間狩り?どうせ機械伯爵と其の取り巻きでしょ。此の辺りでそんな下品な気晴らしに繰り出すのは。」
「機械伯爵?知っているのか。」
「知ってるも何も、片目の赤いのが威張り散らしていたでしょ。彼がそうよ。宇宙開拓事業で財を成した銀河鉄道株式会社の筆頭株主で、財界の盟主。名声と罵声の小競り合いが絶えなくて、無駄に有名だから、耳を塞いでいても聞こえてくるわ。会社の総会でもあるんじゃないの。何時も此の時期は湾岸の旧本社跡地に逗留しているわ。」
「湾岸?何でメガロポリスじゃなくて、そんな管理区域外に。」
「さあね、敵が多いから、寝首を掻かれない様にしてるんじゃないの。」
「其の旧本社跡地って湾岸の何処に在るんだ。もっと詳しく教えてくれ。母さんを助けるんだ。」
「どうやって行く気。つい今し方、外の吹雪で死にかけてたのに。例え辿り着けても、返り討ちにあうだけよ。助けるとか言ってるけど、連れ去られたのなら今頃、床の間の剥製にでもなってるわ。一緒に並べて飾られたいの。幾ら彼の男でも、其処まで酷い趣味じゃない筈よ。」
黙っていればゾッとする程の妍容が、救いなき過言を連ねる毎に卑しく身悶え、生き生きと幻滅していく。滑らかな表情筋を利して狡猾に歪む翠翼の眦、陰湿に険を刻む淑やかな鼻梁。美醜入り乱れ、妖艶に狂い咲く、魔に取り憑かれた異形の女神。恩に着せた物言いにしても程がある。被災者の嗜みも此処までだ。助けてもらった負い目なら、仇に熨斗を付けて返してやれ。此のイカレた女には其れが御似合いだ。筋彫りを殺れと唆した彼の声が再び木霊する。鉄郎はガンラックの散弾銃を奪い取り、其の銃口を突き付けた。
「余計な口を叩いてる暇があったら、言われた通りに案内しろ。」
全身に浸透した糖質が獲物を求めて爆ぜている。機械伯爵の前に先ずこのドス黒い女狐からケリを付けろ。激情が快感に達し、凶賊の酔美な熱狂に惚気ていく。処が女は鉄郎の血走った眼睛を平然と正視して、微動だにしない。寧ろ思春期の御乱心を楽しんでいる。
「そう言うの撃った事有るの?」
ウィングバックチェアに深々と身を沈めて、軽挙妄動を誘発する、幼子を愛す微笑み。如何なる災禍にも動じなかった母の面影が、厳めしく構えた銃口の先で寛いでいる。小兵の鉄郎には丈の余る長躯の銃身。鈍重なクロムモリブデンの塊が、当ての外れた逆上に伸し掛かる。此は飾り物で弾は込められていないのか。銃爪に食い込む人差し指の第二関節。行き場のない若さを諫める其の冷徹な肌触り。否、こんな物は只のブラフだ。俺はサーカスのライオンじゃない。一発脅して、口の聞き方を教えてやる。若し手元が狂ったら、生身の体を恨むが良い。鉄郎は女の頭上を狙って銃爪に力を込めた。白熱無晶した意識の中で一点に集中する重厚な手応え。撃針が雷管を姦通し、肩に抱いた銃床が官能に激甚する、筈が、
弓形の鋼芯は、錆で檻の腐着した地下牢の如く、軋みを上げて微かに傾ぐと、少年の焦がれる雄々しき英雄譚を撥ね除けた。何を囓って終っているのか、安全ピンをスライドさせようとしても頑として動かない。照星越しの銃軸線上で、噴飯を堪え切れぬ女の口角が含みを醸す、どうしたの坊やの一言。不屈の銃爪に鉄郎の鬱血した人差し指は悲鳴を上げ、襟足に噴き溜まる冷や汗と脂汗が先を争って背筋を洗う。整備不良でも何でも良い、責めて此の一発だけでも、どうにかしやがれ。使い込まれた擦り傷や打痕が物語る歴戦とは裏腹に、揺すぶっても、撫で摩っても埒の明かぬ、眠れる往古の銃身。痺れを切らした鉄郎は女から眼路を限り、足許にライフルを叩き付け、奇想普く千夜一夜の口火を切った。
床の上を活魚の如く跳ねてライフルは暴発し、レースのカーテンを巻き上げて、砕け散った窓枠から地吹雪が激龍となって躍り込む。雑兵の独り相撲を虚仮にする古鉄の咆哮。黒服の深い毛足と鳳尾の如き金髪を棚引かせながら雪の女王は立ち上がり、不意の撃発に腰から砕け落ちた鉄郎を見下ろして、傲然と高笑う。まともじゃない。異彩に煌めく見開かれた瞳孔、突き抜けた焦点。崩壊した顔面神経。心の底から迸る一点の曇りも無い卑劣な歓喜。荒れ狂う旋雪を纏い、其の美貌と白檀のオードトワレを振り乱して発情する、鬼界の化身。見目麗しき容姿以外あらゆる物が欠落している。例え首を切り飛ばしても、此の下品な嘲弄を止める事は出来ないのだろう。溺れている子供に石を投げる様な奴だ。自分を暴風雪の渦中から救い出したのも、死神の気紛れか、より残酷な最期を誂える為か。鉄郎は床の上に這い蹲って、人の不幸を肥やしに咲き誇る悪の華を睨み付ける。蹴汰魂しい高笑いと、吹き止まぬ嵐を引き連れ、悠々と部屋を出て行く女。
恩を仇で返す事すら叶わず、とんだ俄狂言を振る舞って、何の御咎めもなく取り残された雪の御白洲。吹雪の中でくたばり損ねただけでは飽きたらず、自ら注いだ恥辱に泥を塗る体たらくに、行き場のない憤りが、吹き飛ばされた調度品に紛れ床に散乱している。ガンホルダーには未だ数挺のライフルが縦列待機していると言うのに、二の矢、三の矢を物色すらせず、鉄郎は只、恍然と見上げるばかり。
彼の女の言う通り、機賊の巣窟を単独で突破し、母を助け出すなんてハリウッドの三文オペラだ。今は小腹が満ちて血の巡りが良く、逆上に拍車が掛かって、犬死にを物の数にも入れていないが、此の熱病が潰えたら、後は何一つ残らない。母が命懸けで護り抜いてくれた此の命を粗末にして、どんな面目が立つというのか。塵を漁って生き延びる。其れが鉄郎に出来る唯一の弔い。母の死に次ぐ、最も耐え難き現実。死にかけようと生き残ろうと、欲動と貧苦の尽きぬ肉体で簀巻きにされ、無情な運命に押し流されている事に変わりはない。結局、絶望の裏返しでしかない激昂に翻弄されている、何時もの自分に鉄郎は不時着していた。
真鍮のドアノブが小首を傾げ、更なる激動の扉が開く。死神が帰ってきた。暴風雪の出迎えを無言で制し、常闇の幽姿に金襴の鬣を靡かせて、橋掛かりを潜る後シテの殺気。夢幻の禁域を破った狂愕の御息所。隣の部屋から再び姿を現して、ウイングバックチェアを素通りすると、鉄郎の前に立ちはだかり、迷える子羊が途方に暮れる事すら許さない。黒い雪女は左手に黒革のPコート、右手にA4サイズのツールボックスを提げている。
「フルチャージされてるわ。例しに彼の鏡を撃ってみなさい。」
顎で指図し、女が右手を振り上げると、宙を舞うツールボックスは硬質な連結音で痙攣し、受け止めた鉄郎の手の中で。短身のレーザーアサルトに可変した。リアサイトに浮遊するエアディスプレイ、光発振器へと通ずるオートレンジの銃口、老竹色のカーボンファイバーで成形された玩具の様に軽量な本体は、銃爪を添えたグリップとハンドガードがなければ、計測機器の類だと言われても鵜呑みにしただろう。
オーバルミラーに眼を遣ると、凍傷で黒変した孤児が放心している。時化た面しやがって。気合いが足りねえんだよ、此の煤被り。鉄郎はドレッシングチェストの流麗なレリーフの中に埋め込まれた、惨めな肖像へポインターを飛ばした。エアディスプレイを透かして、炭を葺いた様な頬の上に点る緋い粒子。鏡面の呪力に惹き込まれ、嘘の様に軽い銃爪を引くと、広角モードに設定された銃口はポインターを中心に120°の範囲を、左から右へ何の反動もなく一瞬で水平に掃射した。A4サイズのハンドツールは武器ではなく兵器だった。閃烈と爆風が室内を席巻し、床の上に散乱していた様々な破片や調度品が再び宙を舞った。撃ち抜かれた漆喰の壁を亀裂が駆け巡り、散弾銃の餌食となった以外の窓硝子も総て崩壊し、屋根を根刮ぎ吹き飛ばされた様な暴風雪が視界を埋め尽くす。目眩く白魔の暴虐、網膜に明滅する走査線の残像、甦る母の断末魔。そんな氷点下の阿鼻叫喚に黒い雪女は欲情し、痴塗れの呵呵絶笑が響き渡る。
「どうしたの、漢なら撃って撃って撃ちまくるのよ。遠慮してる場合じゃないでしょ。貸しなさい。こうやって撃つのよ。もっとレンジを絞って出力を一点に集束しないと、彼の連中は捌けないわ。ママを助けたかったら皆殺しにする位の覚悟がなきゃ駄目よ。命乞いをする者がいたら真っ先に片付けて、誰がお前達の主人なのかを叩き込む。頭を狙うのよ。無線で自我をオンラインに退避される前にケリを付けないと、厄介な事になるわ。其れが出来ないのなら、水鉄砲を振り回すのは、御庭のプール遊びだけになさい。」
鉄郎の手から取り上げられたレーザーアサルトが、今だ原型を留めるキャビネットやワードローブを次から次へと血祭りに上げ、撃ち砕かれた屋敷の柱が、梁と筋交いを道連れにして傾ぎ始める。市街戦に巻き込まれたかの如き半壊家屋の直中で、雄叫びを上げる死のレクチャー。
「ママを愛しているのなら、力尽くで証明するのよ。機械に身を堕とした連中の作り物の命なんて、物の数じゃないわ。死を直視出来ない愚か者達を、偽りの無い地獄の底に沈めるのよ。」
瓦礫の山に光弾を叩き込む衝撃と錯乱が、破滅の女神を更なる陶酔と享楽の境地へとエスコートする。忘我の果てに成就する魂の浄化。此の女が塗れている穢れは尋常じゃない。焦点のイカれた藪睨みの血相で、鉄郎の顔にPコートを投げ付け怒鳴り付ける。
「行くわよ。」
其れは命令だった。
2019-08-24 09:57
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