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2022-07-21

    無友不如己者  己れにかざる者を友とする無かれ
    丹之所臓者赤  たんざうする所の者は赤し
 
 
 貧民窟との交わりを一切拒絶した母の無言の教え。其れは流亡るばうの荒野に顕現した神の眼となって迷える子羊を俯瞰し、鉄郎は幼くして闇市を貪る浮浪児達の汚染された欲動との闘いを強いられ、生き残る為の知徳と引き替えに、些々やかな友愛を育む機会と術を完全に放棄して育った。人にして人にあらず。メガロポリスの汚物を野良犬と肩を並べて奪い合い、騙し合い、殺し合う、堕落した半人半獣から得る物なぞ何も無い。人の世は疑う物と骨の髄にまで植え付け、喚声と怒号に塗れた享楽を断罪する、軍罰の如き鉄郎への厳しさは、より厳しく己れを律する母の峻烈に反り上がった背筋を前にしては、不貞腐れる事すら許されず、時に我が子の頬を張る其のごころは、例え肩から斬り落とされても不動どうじぬ気骨で貫かれていた。泰山北斗を仰ぎ見るが如き母の潔白。其の総てをドス黒く塗り潰した生き写しの女と、膝を突き合わせて相席する銀河超特急の二等車輌。旅の友とは程遠い、振り解いてもまつはり付く毛虱けじらみの如き付け馬。
 母の諭した家訓を体現する合わせ鏡の物狂いが、ボックスシートのモケットに鼻持ちならぬ露西亜帽を預け寝息を立てている。決して心を許す事の出来ぬ、999の乗車券を恵んでくれた此の旅のパトロン。生命の奇蹟と寵愛を一身に秀約し、神話の世界から舞い降りた不世出の美貌をほしいままにする謎の貴婦人を、鉄郎は酸鼻を堪えてしかめる薄目の奥から狐視を凝らしていた。無防備に曝した星も傾く妖艶な至態。瘴気しょうきの晴れる様な眼福とは裏腹の、余りにも唐突で不合理な此の女の存在に、当てはまる憎悪が見付から無い。陰陽妖なす高貴な毛艶がさざな黒妙くろたへの異風行装に雪崩なだれた、天孫の降臨する瑞雲が如き金霹こんぺきの垂髪。産まれたままの潤いを湛えるピンクパールの頬に、羽を畳んだ孔雀の様に霏霺たなびく豊かな睫毛。此の娟容けんようが一度息を吹き返すと、煮えたぎかなへを覆した様な騒ぎになるのだ。他人の欠点を愛せない者は自分自身を愛する事が出来無い。他人の欠点を理解出来無い者は自分自身を理解する事も出来無い。と竜頭は戒めていたが、自分はそんな器じゃ無い。二日酔いの騙し絵か、将亦はたまた、悪意に満ちた逆説か。母とは又一味違う息苦しさに耐え切れず、鉄郎はメーテルの優雅な寝顔から眼路を切り、窓外の血も涙も無い星空に額を押し付けた。
 己の命を楯にして鉄郎を守り、人の道を示した無償の愛に、万謝の尽きる事なぞ有り得無い。今も眼裡まなうらに溢れる、絶望的苦難を包み込む慈母の微笑み。厳しさの中に忍ぶ人肌の温もり。母さんに会いたい。して、怯懦きょうだに屈した彼の日の総てを懺悔したい。嘘偽りの無い渇仰かつごうに、硝酸を突いて充血する小振りな鼻翼。しかし、其の私的で普遍な太母たいぼへの思慕は、本能と超自我の板挟みで喘ぐ幼気な孤独を、絆と言う桎梏しっこくで背中合わせにはりつけていた。
 鉄郎に取って友とは物語の中に登場する空想上の人類で、勇気と信頼に因って勝利を分かち合う友情なぞ夢の又夢。何方どちらか一方の言葉を避けた忍耐と譲歩の上に成り立っている現実なぞ、想像した事すら無い。血を分けた母以外で鉄郎に寄り添ってくる者と言えば、パンに餓えた死の影と、死臭を嗅ぎ付けた銀蠅が関の山。鉄郎は独りに為ると何時も、ひびの入った心の鏡を取り出して腺病質な密談にふけっていた。旧市街地で拾い集めた宝物や、宇宙を舞台にした幻想譚を交換し合い、もすれば母の陰口を延々と反芻する隠微で沈痛な一時。其の自慰行為は荒野に伸びる孤独の影をより一層引き伸ばしてコントラストを際立たせる。止めようと思っても止められぬ悪癖。何時か熱を帯びた虚言の坩堝に呑み込まれて終うのではないかと言う恐怖。鉄郎は被害妄想を喚き散らしながら、奈落のモンパルナスを練り歩く御薦おこも達の姿に、己の末路と擦れ違った気がした。錯乱した声量に比例する死期の跫音。其の幻覚や妄言が単にオーバードーズや汚染物質の蓄積に因る脳の気質的な障害なのでは無く、人間としての核心に直結している深淵で在る事を垣間見る慄然。
 そんな母の前では独語の尻尾を隠す狡猾な鼠が、今更誰と、どんな友誼ゆうぎを交わし育んでいけると言うのか。タイタンを発って以後、車掌は鉄郎に一目置いくれてはいるが、乗客と乗務員と言う一線を越える事は無いだろう。戦士の銃と氏族の誇りを与えてくれたタイタンのおみな。鉄郎の罪と罰を背負い闇に散ったクレア。時間城での再会を期す竜頭。行き摺りの出会いの中で明滅した厚情。掴み取る事の出来ぬ束の間の触れ合いに、鉄郎は燃え尽きた流星の残像をなぞる事しか出来無い。旅の行く末を見据える処か、次の停車駅すら藪の中を手探る分際で、露命は絶えず成り行き任せの運試し。此の儘、自分は独りで生き、独りで死んでいくのだろうか。こんな事なら、例え人と争い傷付け合っても、塵界にまみれ人の手垢で揉まれていた方が良かったのでは無いのか。人と交わる事の無い人の命に意味は有るのか。鉄郎は光速すら蹴散らす鋼脚を誇っていながら、視界の湾曲も無ければ色相の偏移も無く、堅調な駆動音以外、運行している事を体感出来ぬ静止した銀河の厖大な空漠に、対数を幾ら並べても表し切れぬ、星系を間に挟んだ人と心の巡り合わせの確率に眼が眩んだ。
 無限軌道を鈴生すずなりに走破する十一両編成の謹厳な鼓動。其の狭間にそよぐメーテルの寝息が一瞬つかえ、豊麗な睫毛を伏したまま悩ましく険眉をよじると、傾げていた小首をもたげながら、犀利さいりに研ぎ澄まされた下顎を僅かに仰け反らせて、のみを打ち込まれた胸像の様に硬直した。色香の弥増いやます苦悶の表情に、こんなコブラとマングースを掛け合わした様な女がうなされる夢なんて在るのかと、横目でいぶかしむ鉄郎。眼に映る者は総て馬鹿にしか見えない癖に、其の見下している連中から天迄届けと持ち上げられていなければ気が済まぬ、筋金入りの御姫様だ。普通、敵が増えれば味方も増える物だが、奴の繰り出す七色のヒステリーを喰らったら、藪蚊一匹近寄ら無い。竜頭は此の馬鹿を守るのが鉄郎の仕事だといさめていたが、時空を遡った吹雪の中で一体何を目撃したのか。此の割れ鍋に合う綴じ蓋が在ると言うのなら、猫と鼠だって和解出来るだろう。心の糸口が全く掴め無い女だ。車掌との遣り取りを見てても、一方的に打ちのめすだけで、およそ会話と呼べる代物じゃ無い。優しさの切れッ端どころか、神経の素粒子すら欠落した悪意の結晶。何をう破綻したら、こんな瀆神とくしんの白痴美に育つのか。百歩譲って無師無統の狷介けんかいを気取っているのだとしたも、反骨と狼藉を履き違えている。此の放れ駒の隕力に巻き込まれては振り落とされ、踏み躙られては蹴落とされた天文学的な被害者の一人として、鉄郎は宣誓供述書の束を背負って登壇する事も、やぶさかでは無い。確かに、此の傾奇者かぶきものは底知れぬ浮世離れした超絶異能を持ってはいるが、どんなに距離を保った処で火の粉を被る事に為るのだから、其の力に例えあやかれたとしても消し炭の山だ。こんな歩く無人島だからこそ、箱詰めにされて押し流されるだけの監獄列車で平然としていられるのだろうが、兎に角、正気の沙汰じゃ無い。奇行乱行を繰り返してなほ、飄然としている其の鉄仮面の下で、こんなの本当の私じゃ無い、等と涙に暮れているとでも言うのか。
 汚水にした一滴の油膜の様に、禍々まがまがしく煌めきながら孑然げつぜんと相紛れぬ、超人的な独善。窒息寸前の同調圧力を一瞥で払拭する天性の暴君が、仮初めの安息を偽装している。一度目覚めれば、凄絶で雅な死の鱗舞をちりばめる毒蛾の、虚ろに揺蕩たゆたう胡蝶の夢。鉄郎とは又、似て非なる此の魂の孤児が、何に心を許し、何を心の支えに生きているのかなぞ全くの理知の外だ。此の儘、瞼に釘を打ち、歪な性根に釣り合わぬ其の美貌を綴じ蓋にして、永遠に封じ込めてやる事が本当の優しさなのかも知れ無い。
 鉄郎は自分に言い聞かせた。此くらい頭の奇怪おかしい女が相手で寧ろ良かった。仲間なんて物は人生の錯覚に過ぎ無い。情に流されて辿り着くのは地獄の一丁目と相場が決まっている。寝首を掻かれてから、待ってくれと叫んでも遅いのだ。いざと言う時は此奴を人柱に建てて危ない橋を渡れば良い。血を分けた一縷の繋がり。今は唯、其れだけを掴んで離さない事だ。隣り合う独房に引き籠もる鉄郎とメーテル。窓も出口も無い其の暗がりで、喧嘩腰の反目とは裏腹に惹かれ合う運命の磁力を、伝法肌の鉄郎は未だ認める事が出来無い。鉄郎は孤独だった。何に対して孤独なのすら判ら無い其の若さだけが、旅の道連れだった。
 
 
 
 銀河鉄道網の威信を歯牙にも掛けぬ、数百億光年の憮然とした星屑の沙漠。無限軌道を馳せる至高の浪漫は、汚染された大地から見上げるだけの、雲の上に浮かぶ蜃気楼でしか無かった。来し方行く末を知らぬ、壮大な万物の謎と神秘に躍る探求心も、此の空疎でグロテスクな死の遼域を前にしては、蛇に睨まれた蛙。創造主の存在をほのめかす思わせ振りな仕種やしるしの一つも無い、己の闇を直視するに等しい、決壊した悟性の散逸した欠晶。そんな絶界を埋め尽くす無気力な光子の燦爛が色を失い、俄かにざわめき始めた。
 巫術ふじゅつに秀でた血筋の割に勘の鈍い鉄郎ですら肌の粟立あわだつ天河鳴動。日頃、凛品をつくろ嵩高かさだかに見下ろす綺羅星が、熊の臭いを察知した蜂の巣の様に浮き足立ち、額を押し付けた窓硝子を伝って、変調した可聴周波が耳小骨から眼底を突き上げる。ドラフトの呼気鼓脈とは全く位相の、エンベロープが部分断裂した振動波形。招かざる客のり気無くドスの利いた挨拶に鉄郎の襟足は逆立ち、定刻厳守の平常運行に押し込められてれ切っていた好奇と戦慄が胸倉を掴み合う。奈落の底へ有無を言わさず突き落とす此の旅の流儀と醍醐味に鉄郎は麻痺していた。経験則に因る危険予知が通用するゼネコンの現場とは訳が違う。此処は宇宙なのだ。異存が有ろうと無かろうと、此の強制スクロールにリセットは利か無い。死の予感が醸し出すドス黒い甘美。其の生命の樹液に惹き寄せられたのか、モケットの背摺せすりもたれ、天を仰いで瞑目していたメーテルが緘黙の禁を解いた。
 
 
     天の海に雲の波立ち月の舟
        星の林に漕ぎ隱る見ゆ
 
 
 「来るわ。」
 愁然と羽を休めていた睫毛が瞬き、乳白色の張り上げ屋根を捉えた星眸が辛辣な精彩を取り戻していく。待ち構える凶事に全身で感応し、磨きの掛かる絶世の娟容けんよう。鈴蘭の蕾の様に心なしか綻んだ唇から覗く皓歯が、込み上げる愉悦と白檀のオードトワレを苦遊くゆらせ、日頃、箸が転んでも鶏冠とさかを振り乱す生粋の猛女がしずかに燃えている。二の句を継がず、覆爪ふくそうを研ぐ華麗なる猛禽。直感しているのだ。対するに不足の無い相手だと。其れとも既に大方の目鼻が付いているのか。やすりの目の様に逆剥けた星のつぶての苛立ちが、急行ニセコの筺体に感染して箱鳴りし、姿無きポップコーンノイズを拾ってぜる車内放送のスピーカー。後はもう為るようにしか為ら無い。此の宇宙に非戦闘地域とか緊急支援と無縁の瞬間なんて無い。鉄郎がコーデュロイの襟に首をすくめて小鼻を鳴らすと、進行方向のデッキ扉が慌しく開け放たれ、俊敏な一礼を拝したと思う間も無く車掌が通路を駆け出し、暗黒瓦斯に点る黄眸こうぼうを血走らせながら危急の一報を献じた。
 「メーテル様、鉄郎様。排他的軌道領域を無許可で侵犯し、機関室からの警告信号にも応じぬ船影が御座います。恐らく、系外の航界機構にも無登記のまま潜行している不法操業者なので御座いましょうが、有ろう事か機関室の警告信号に対して火器管制レーダーを返照し、当列車を自動追尾し続けておりまして、予断を許さぬ状況で御座います。」
 不測の事態を未然に防ぐ事の出来無かった責任を一身に背負い、怒濤の叱責を覚悟した車掌は、深謝の最敬礼に備えて踵を揃えた。処が、
 「其れで?銀河鉄道中央管理局は何と言ってるの。」
 何時もなら胃痙攣を起こした様に怒鳴り散らす物狂いが、垂髪を絡ませた指先に瞳を零して、物憂げに事後の対応を促した。浮わの空の姫君に肩透かしを喰らった車掌は、前傾しかけた腰椎を立て直し、ことを継ぎながら息を整える。
 「只今、銀河鉄道中央管理局で機関室から送信した船影と装備、性能、放出ノイズを解析し、航界監視データベースと照合の上、該当する船艇の特定に全力を挙げ取り組んでいる処で御座います。解明は時間の問題で御座いましょう。詳細に就きましては随時御報告致したいと存じます。加えて、当列車の警護に当たる、鉄道公安警備の手配した装甲車輌も、間も無く現地に到着するとの事で御座います。合流次第、当列車に増結し、万が一の事態も許さぬ所存で御座います。どうか御安心下さい。」
 制帽の鍔に車掌が手を添え、銀河鉄道株式会社の動輪をかたど徽章きしょうが煌めいた。紺ブレの短躯にまとう渾身の矜持。しかし其れは却って、鉄郎の狐疑をくすぐり、言葉の裏の裏にメスを突き立てる。高が不法操業の船一艘を相手に装甲車輌を引っ張り出してくるなんて、草野球の代打に大谷が出てくる様な物だ。そもそも、盗掘や瀬取りを生業にしている零細な密航船が、銀河鉄道の旗艦列車に火器管制レーダーを照射してくる訳が無い。最上位路線を誇る無限軌道のプロテクトだからこそ此の程度の共鳴で済んでいるが、火器管制レーダーの探知音と言えば可聴高周の限界を超えた音の空爆だ。捜索用レーダーとは物が違う。其れも広大な宙域で敵影を捉える出力は如何許いかばかりか。電波強度に依っては頭骨を砕いて御釣りが来る。行き摺りのチンピラが揶揄からかい半分で出来る事じゃ無い。相手は本物だ。
 クロスヘッドと大動輪が火花を散らし、天府をからげる黒鉄の魔神。其の光脚に振り切られず、付け回す虎狼の狙いとは一体。銀河を股に翔け、名も実も有る列車強盗なら猶の事、闇雲に獲物を漁ったりはし無い筈。機関室に詰め込まれた銀河鉄道株式会社の最高機密か、其れとも、此の列車のVIPに帝座する黒金剛石くろダイヤか。何れにせよ、レールに置き石をして逃げ去る様な玉じゃ無い。鉄郎は顱頂ろちょうを突き抜ける高調波を喰い縛りながら、しおらしく成った黒い響尾蛇がらがらへびを上目遣いに盗み見て溜息を吐いた。
 「ッたく、此から忙しく為るってえ時に。金玉を抜かれた子兎みてえに成りやがって。」
 聞こえよがしな悪態に眉一つそよがぬメーテルの放逸。手当たり次第に暴言を叩き売っていた舌鋒が、今思うと頼もしく、焦点の拡散した瞳孔の裏で、内に秘めた炎に身を焦がしている事なぞ、鉄郎は知る由も無かった。
 
 
 
 蹴汰魂けたたましい自動追尾を振り切る様に、レッドゾーンを突貫していた999がシリンダーブラストを荒げて減速し、短急汽笛を連呼してシグナルを送ると、公安警備の番犬は指示された座標をトレースしながら無限軌道に併走し、保安基準で定められている鉛丹色に白帯の光束造触炉搭載表記で外装された、内燃機関式充弾車輌に牽引されて、軍炭色ぐんたんしょくの鋼殻類が物々しい姿を現した。殺伐とした機能美で構築された居丈高な造形に降り注ぐ、満天の星芒を滴らせた強面の重装備。三連装砲塔を装甲車輌の四面に配備した四基三門。絡み付いた冷却素子の結管が脈を拍って浮き立つ、りに勃起した獄太の陰径が、雁首を並べて漲っている。有りと有らゆる最前戦で、一切の情状を介さぬ、剛姦と駆畜を反復再生してきた暴虐の輪転機だ。紛争浄化のアルゴリズムを無限に実行し続ける、自我の欠落した合成義脳は、淡々とした挙動で無言の抑止力を誇示している。運行妨害如きで繰り出してきた僅か二両編成の大人気無い援軍に、999を追い回しているのが只の野良犬じゃ無い事を改めて思い知らされる鉄郎。此から増結のランデブーに時化込しけこむのか。最後尾に就くにしろ、炭水車の後ろ、若しくは十一両編成の中間に就くにしろ、其の隙を衝かれたら如何どうするのかと思った矢先に、装甲車輌の左右両舷に配した二基の砲塔がおもむろに旋回し、砲身を束ねる天蓋が、射界の仰角に合わせて隊列を整える砲口と連動しながら、死後硬直した手の甲の様に可変し始めた。
 両腕を車輪方向の真下に振り下ろす様に静止した二基、計六門の主砲。管制指示を待つ錬度を究めた砲撃姿勢に、真逆まさかと言う躊躇ためらい等、割り込む余地は無い。落雷が直撃した様に突如臨界した充弾車輌からほとばしるプラズマが、連結式の動力ケーブルを濁流して装甲車輌の砲身を巻き込むと、鉄郎は星が産まれた瞬間の光彩で視界を埋め尽くされ、車窓の強化硝子を突き抜けた砲激のブラスト波に頸椎が弾け飛ぶ。レゾナンスの利いた万雷の矩形波が糸を引いて雄叫び、垂直に斉射した反動で砲座にり込む六門の砲身。炸爛した煌暴が鈷藍コバルトの砲条痕と共に減衰し、射醒後の白想に感嘆符の句点だけが取り残されてうずくまっている。
 「オイオイ、もう、おっ始まったのかよ。」
 ボックスシートの背摺からズリ落ちた鉄郎は、六本脚の鋼殻類が重厚な股関節を機動して備える次の砲撃態勢に向かって、白撃の残響に痺れ乍ら呆言を唸る事しか出来無い。威嚇射撃とは程遠い決壊した光圧。小蠅を追い払って済ませる気なぞ毛頭無い。鉄郎の視力が回復する事を許さぬ追撃の砲吼。客車の躯体が悲鳴を上げる、護衛と言う本分を逸脱した累衝波。此の全自動鱈場蟹たらばがには標的しか見えて無い。鉄郎がボックスシートの肘掛けに獅噛憑しがみついて起き上がると、蒼醒めた頬を閃光で染めるメーテルの淑やかな口吻が、しずかに息を吹き返した。
 「みかどの神輿に弓を引くなんて、彼の女以外有り得無いわ。」
 込み上げる快哉を堪える不敵な口角。解り合える者同士だけが辿れる見え無い糸を爪弾き、交錯する光と音の直中で、在りし日の微かな調べに耳を澄ます黒耀こくえうの酔眼。装甲車輌が999と併走しながら敵影を走査し、死神の指の様に蠢く三連装砲塔が旋回と整列と絶頂を萎える事無く繰り返している事等、全く意に介さない。張り詰めた琴線の先にいる何者かへの絶大な信頼がうさせるのだろう。莫大な熱量と反比例する撃墜の予感。砲撃を重ねる毎に、メーテルの視野の外で空振りする絶倫。最早、匿名の飛び道具が出る幕じゃ無い。
 「天庭の紅孔雀なんぞと持ち上げられて、調子に乗ってるんじゃ無いわよ。」
 北叟笑ほくそえむメーテルの旧知に満ちた罵辞。堪え切れぬ愉悦に閃いた、天穹に轟く雅な異名に鉄郎は耳を疑った。銀河連盟捜査局の第一種特別指名手配、通称、赤手配書の筆頭で在り、星間運輸機構が出資する格外報奨金の最高額を更新し続ける、自由と武勇の象徴。粒子状物質で覆われた夜空に想い描いた憧れの明星。航路を過ぎった紅民解放軍を殲滅し、民間遊星連隊 コサック を送り込んできた侵攻財閥を榴散価証券クラスターで沈め、機族に因る人類の再教育強制収容所を解放した、天河無双の女傑が今、鉄郎の足許を潜航している。実存したのだ。帚星ほうきぼしに乗った魔女の神話が。して、其の現人神あらひとがみに景気の良い毒を吐く喪装の隣人。鉄郎は信じたい尊崇と認めたく無い嫌悪で入り乱れ、整理不能な相関図の網に絡み取られている処へ、抱え込んだ銀灰色の肉襦袢を引き擦り乍ら車掌が駆け込んできた。
 「メーテル様、鉄郎様、誠に申し訳御座いませんが、窓のブラインドを降ろさせて頂きます。事態は収束に向かって居りますので、今暫くの辛抱で御座います。其の上で・・・・何と申しましょうか・・・・いささか、相反する様で心苦しい限りでは御座いますが、万一の場合に備え此の防護服を御着用下さい。」
 制帽を目深に被って視線を隠し、恐縮し乍ら差し出すゴアテックスとノーメックスの融合繊維で組み上げられた圧力容器の塊。防護服と言うには余りにも宇宙服な其のアセンブリパーツは、冷却装置や通信機器を凝縮した生命維持装置のランドセルが付属する、乗務員の船外活動ユニットだ。流石に此は女神の美意識が許さ無い、筈が、
 「慌てる必要なんて無いわ。毒蛇は急が無い物よ。」
 車掌の声が何処まで耳に入っているのか、微酔ほろよい加減で揺蕩たゆたう、メーテルの、心、此処に不在あらず
 「止めなさい。」
 「ハッ?装甲車輛の砲撃をで御座いますか。」
 「999を止めなさい。」
 「999を・・・・否、併し、メーテル様。」
 「彼の女郎蜘蛛じょろうぐもが糸を垂らして誘っているのに、こそこそ逃げ回ってはいられ無いわ。」
 互いの惹かれ合う因力に身を委ねる魂の邂逅。誰も割って入る事の出来ぬ二人だけの世界。其の聖域をけがす噛ませ犬に、誅殺のいかが轟いた。999の床下から立ち昇り、痺れた爪先から背筋を衝き上げる惴気ずいきが襟足を逆撫で、甘い吐息の様な呪詛を鉄郎の耳元で囁くと、辰宿列張を網羅する、窓外の
 
 
 星がけた
 
 
 と眼を見張った瞬間、あま御柱みばしらが装甲車輌を串刺した。動力ケーブルが逆流し、溺れた仲間に引き擦り込まれて誘爆する補給車輌。鉄郎は息の根を継ぐ事も出来ず、銀河の水底から撃ち放たれた、巨木の如き光励起の閃条に漂白する戦慄。頭から交戦と呼べる物など無かったのだ。物の一撃で決した兵火の審判。番犬の遠吠えが断末魔へと張り裂けて造触炉の隔壁を蒸散し、中性子の騰壊した析濫雲 ドーム の津波が無限軌道を呑み込んで、十一両編成の輪軸が宙を爆ぜる。贅を尽くした此の路線が抗核防護されていなければ、瞬く間に星滅しょうめつしている元素の墓場。
  「此りゃあ、OHおお GOD ごと  BYE バイ  。」
 直撃を喰らったシェルターの様に激甚する車内で、置き去りにされていく華核反応から顔を背け、真綿で締め上げられた様に反吐が喉を衝く鉄郎。此では公安の助っ人を幾ら呼んでも物の数じゃ無い。本物だ。無限軌道を間に挟んで皇然不滅の火の鳥が燃え盛っている。そして、其の標敵は言う迄も無く。愕然とした嫉妬に打ちのめされている鉄郎を余所に、此の天体ショーを満喫する当の鬼娘きむすめ
 「脅すだけ脅して勝利を自称したり、振り上げた拳を、そっと置くなんて、彼の女に出来やし無いわ。支配するか葬り去るか。負けた事の無い馬鹿が陥る一つ覚えも、此処まで来ると大した物ね。羨ましいわ。上には上が居る事を知ら無いだなんて。折角足を運んでくれたのに、手ぶらで追い返すなんて可愛そうだわ。彼の女と私と何方の首が置き土産に相応しいか。次の星までもう暫く有る事だし、言い余興じゃないの。無限軌道に割り込んで、私の行く手を遮ったからには、安い通行料では済ま無い事を思い知らせてやる。
 
 
    いざ子ども狂業たはわざなせそ天河あまかわ
         堅めし星そ をみなみなへす
 
 
 999を止めて、エメラルダスに船を横付けする様に指示しなさい。」
 防護服を抱いた儘、呆然と立ち尽くしている車掌に一瞥も呉れず、メーテルは宿縁の炎群を睨み付けている。山が動いた。過積載のタンクローリーで鉄火場に突進する、何時もの熱狂とは対極に聳える、氷山の鳴動。
 「命令するのは彼の女じゃ無い。此の私よ。彼の女が停車しろと騒ぎ出す前に。さあ、早く。」
 
 
 
 防護服を抱えた儘、泣く泣く機関室に戻っていく車掌の背中を漠然と眼で追いながら、鉄郎はエメラルダスと言う名の華麗な余韻に心酔していた。媚薬の小瓶を翳した様な魔性の嬌艶。相手は星の海を割り、神の方舟をも沈める宇宙海賊で、死と隣り合わせの筈なのに、何故か瓦礫の山の中で想い描いた夢の一つが叶ったかの様な、其処そこと無い歓喜が込み上げてくる。憧れの存在を透かして垣間見る、本当に自分が宇宙を旅しているのだと言う淡い実感。太陽系を脱しても猶、遠くに霞んでいた時間城と終着駅のアンドロメダ迄もが、実在する点と線の連続と為って星空に伸びていく。
 そんな取り留めの無い酩想を長緩汽笛の一喝がおもむろに断ち切った。胸の高鳴りを鎮める様に減圧するボイラー。シリンダードレンの放愾ほうがいむせび乍らメインロッドが手綱を弛め、蹈鞴たたらを踏む大動輪。除煙板をすくめて息を整えるドラフトに促されて、銀河鉄道網の覇者がトルクの利いた減速曲線を制動装置を介さずに一歩一歩噛み締めていく。幾ら銀河最強を誇る999の動輪周馬力を以てしても振り切るのは至難の業で在ろうとは言え、エメラルダスを迎え撃つなんて正気の沙汰じゃ無い。其れを此の黒色火薬を練り固めた様な女は、何とかして終うのかも知れ無いと思わせるのだから、何をか言わんや。奇妙な信頼と落ち着きに満ちた名の知れぬ大樹の陰に背を凭れ、鉄郎はメーテルの底知れぬ器に賽を放った。
 推力を失い惰性で軌道を舐めていた動輪が、長い溜め息と時にロックされて寸動し、待機動力が底流している以外、列車の挙動が完全に静止すると、後は野と為れ山と為れ。今頃機関室が停船命令を飛ばしている事だろう。此を受けて向こうがう出るのか。少なくとも公安警備の番犬と999とでは物が違う。有無を言わせず砲撃し、本物の精霊列車にするなんて野暮な事は無い筈だ。尊大な女王の自意識が其れを許さ無い。逃げ回って手間取らせる方が却って火に油。彼の馬鹿の言う事も一理有る。此から始まるのは死亡令状にサインした者のみが招待される弱者必墜の舞踏会だ。薄氷の継ぎ目で踏む死のステップを果たして踊り切れるのか。無限軌道を駆動する厳格で憂いを帯びた胎響が途絶え、仮死状態の車内を照らす黄濁した白熱灯。知らぬ間に火器管制レーダーの騒霊も息を潜め、身包みを剥がされた様な沈黙の中で、其の時を待つ鉄郎。エメラルダスが真の海賊なら圧倒的な武力の上に胡座を懸いているだけのチンピラでは無い筈だ。国志を偽り粉飾された演義の中で躍る、紙の中の英雄を字面で追っているだけの連中に用は無い。
 
 
    不待生而存不  生を待ちて存せず
    不隨死而亡者  死にしたがつて亡びざる者
 
 
 が本当に顕在するのなら、例え其の片鱗でも良い。無法の宙原を生き抜いてきた知恵と勇気と見聞に触れてみたい。己の領分を遙かに超えた旅の中で深まる星を掴む様な自問。何故、人は人なのか。何故、鉄郎は鉄郎なのか。何故、宇宙は宇宙なのか。何故、時は流れ、人は旅を求めるのか。其の手掛かりが在る様な気がする。地球を発って暫くは死相を仰ぐばかりで、吐き気を堪えるだけだった星空が、時折ほのめかす瑠璃色るりいろの示唆。鉄郎が宇宙の一部なのでは無く、鉄郎も宇宙なのだ。其の囁きに振り返ると、厖大な素粒子の空漠が人の心を表現して煌めく鏡に反転する。彼の恍惚に鉄郎の半身が傾いだ其の時、大気の絶した宙空がそよぎ、雄渾壮烈な凱風に星が霏霺たなびいた。
 大海の満ちるが如く押し寄せる潜影。大浸たいしん、天にいたれども、溺れず。唯、其の大いなるを以てあまねくのみ。気が付けば999も釈迦の掬った手水ちょうずの笹舟。舞い降りて影を落とさば日輪も千夜に暮れる、と人々の口の端を彩ってきた潤色は、流れては消える星の噂等では無かった。涸れる事無き天河の水面すら此の大逆の女王には狭過ぎるのか。鱣鯨せんげい溝瀆こうとくるる所にあらず。余りにも桁違いの全貌に鉄郎の悟性が追い付か無い。  時は来たりて、遮る物無き窓外を浮上する紺鉄の地平線。擁壁で補修された小惑星とのニアミスかと錯覚する、一望での掌握を拒む天文学的な面積に悠然と視界を埋め尽くされ、何処から何処迄が何事なのかすら判ら無い。垂直に立ち塞がる一面の鋼体にパースが崩壊し、消失点の錯乱に見当識迄もが放逸して、銀瀾のスクリーンを為す術も無くロールアップしていく。そして、結合部のビードが迫り上がっていくのを呆然と眼で追う鉄郎の間接視野を、血塗れの太陽が昇ってきた。そんな真逆まさかと二度見する事すら叶わ無い。壮大な物量の土手っ腹に埋め込まれた、途方も無く巨ッ怪な其の死神と眼を合わせて終った鉄郎は、迷夢の入り口から本物の悪夢へと叩き起こされた。全景を覆い尽くす側舷に刻み込まれた、墨刑ぼっけいの如き髑髏の紋章。おもねる事を知らぬ海賊の証が禍々まがまがしき微笑みを湛えて、眼にした者の戦意と魂を鷲掴む。討ち滅ぼされた者達の残留思念を引き擦り乍ら、無限軌道を睛圧する女王の凱旋。屍の海を乗り越えてきた緋い黒船の前では、鉄郎なぞ茹で上がるのを待つ替え玉でしか無かった。
 一矢討星の主砲を尖頭に戴き、膨発寸前のウェポンコンテナと、優雅な尾翼で着飾ったゴーストエンジンを抱え込む、鋼殻気嚢を張り巡らした不屈の舶鯨。天鵞絨ビロードのキルティングかと見紛う狭丹塗さにぬりの船底には、大航海時代のガレオン船を彷彿とさせるゴンドラ式キャビンが帝座し、勝利の女神か、将亦はたまた、痴に堕した人魚か、船嘴せんしに突き起つ一角獣の如き船首像とサーチライトが七色に交錯する。公安の犬は何故こんな化け物に単騎で向かっていったのか。戦果を数値化せずに実行するのは人間の遣る事で機械の管轄じゃ無いだろう。鉄郎は木造のキャビンを飾り立てる豪奢な意匠に掠り傷一つ付いてい無い事を醒め醒めと眺め乍ら、使い捨てられた無人機と己を重ね合わせる。十一両編成の旅客車輌と肩を並べた、全長は二倍、幅と高さが其れぞれ二十倍の天をべる巨艦。平時に於いても核濫粒子で死覚化している幽霊船が其のベールを脱いで皇然と着船し、領界は鯨肺の雄渾な息吹きに包まれていく。
 女王の名に相応しい気品と、軍容猛々しき両性具有の嵌合体キメラに横付けされて、拿捕された密航船に成り下がる999。帆柱に架かるロープの結び目や磨き上げられた真鍮金具が、肉眼で見える距離まで肉薄し、闘鶏の尾羽の如く不貞不貞しい二層式の船尾楼に、過美なレリーフが燃え盛っている。艤装の限りを尽くした存在其の物が治外法権の本丸を前にして、鉄郎は何者でも無い己の卑小な風采を省み、奇妙な清々しさが込み上げていた。うまで彼我の差が在ると、ジタバタするのも烏滸おこがましい。アンカーヘッドから咲き乱れる鉤爪を見上げて、此の船を意の儘に操る主の後ろ姿に思いを馳せる。貰い物の乗車券で只乗りしている小兵の巡り会った一時の夢。キャビンの側舷から客車に向けてタラップが伸びてきた。御伽噺の続きへといざなう天橋立か、鋼鉄の魔の手か。卒然と席を立ち、なじる様に鉄郎を見下ろすメーテル。言いたい事は判っている。余計な口を叩かせる物かと、鉄郎が腰を上げようとした其の刹那、
 「メーテル様、鉄郎様。」
 車掌が扉を開けて車内に駆け込み、何事かと問い質す間も無く、扉の上段に配した車内放送のスピーカーをヒスノイズが突き抜ける。
 「私はスペースノイド解放戦線総裁、クイーン・エメラルダス。」
 磁気嵐の彼方で掠れた、芯の有る物静かな声韻。動転した車掌を一瞬で征したしめやかな玉音に、張り裂ける鉄郎の空想と羨望。狼は突然遣って来る。鉄郎は砂塵の遠雷に齧り付いた。旧世紀の振動素子でモデリングされた粒の粗い解像度も相俟って、ジャックされた車内放送がサンプリングボイスか肉声か上手く聞き分ける事が出来無い。構声解析は精度が上がり過ぎて癖や揺らぎが無く逆に不自然だ。音素が多少潰れていてもピンと来る筈。系外に離散した人類の復権を謳う女王が、生身の躰で無い何て有り得無い。人間宣言の撤回?そんな物、聞きたくも無ければ、信じたくも無い。振り返って耳を澄ます鉄郎と其の脇を過ぎる黒い影。フォックスコートの襟から摘み上げた一筋の煌めきが、僅かな沈黙の狭間を擦り抜け、一呼吸置いて切り出した女王の御言宣みことのり
 「999の乗員、乗客に告ぐ。直ちに・・・・・。」
 と言い掛けた全放連型の木箱を、鉄郎の頭越しに閃いたアークの尖鞭が討伐し、玉と砕けた。車掌の頭上に降り注ぐ炭化した残骸。反動で舞い上がった鞭を通路に打ち下ろし、雷花の飛沫にほとばしるメーテルの激昂。
 「エメラルダスのれ事を垂れ流す馬鹿が何処に居るのよ。」
 ようやく調子の出てきた、もう一人の女王が再び鉄郎を頭熟あたまごなしに睨み付け、
 「行くわよ。」
 金色の鳳髪が翻り、小兵の戦意を煽り立てる。何時もなら此の剣幕に舌打ちで返す処だが、今回ばかりは勝手が違う。ピンヒールを蹴立てて先を行く烏賊墨野郎に異存は無い。此処で待ってろと言われても押し入っていくつもりだった鉄郎は、タラップのジョイントした客車へと急ぐメーテルの後を追う。そして、鬼気迫る其の背中越しに駆け抜けていく途切れる事の無い奇遇の数々に、在りし日の原風景が甦り、骨身に刻まれた既視感が充血して潤み、小鼻の奥を突き上げる。力強く握り込まれた手を引かれて、仰ぐ決然とした母の背中。有りと有らゆる苦難をくぐり抜けて活路を切り開く弱竹なよたけの痩躯が、先陣を切る墨染めの令嬢と錯綜する。ストロボ写真の様にチラ付く余計な感傷。母の面影に導かれて星を巡る稀代の冒険譚。鉄郎は醒める事を知らぬ此の夢の中に溺れまいと、紛らわしい黒妙くろたへの後背から顔をそむけ、傾いだ心を立て直す。しっかりしやがれ。旅に悪酔いするのなら、せめて自由の翼に触れてからにしろ。此処は崩落した産廃の尾根でも貧民窟の蚤の市でも無い。エメラルダスは直ぐ其処に居る。駆け抜けろ。再生不能な今、此のときを。
 貫通路の縞鋼板を跨ぎ、迫り来るタラップから眼路を戻した其の矢庭に、先行する影と影が折り重なった。扉の開け放たれたデッキの前に立ち尽くす漆黒のドレープ。空席を連ねる車内の葬列に舞い降り、メーテルの喪装に溶け込んだ闇のベール。通路の床板にまで達するブルカを頭から被ったエメラルダスの使者が、オーロラの亡霊の様に独り黯然と漂い、覗き穴一つ開けられてい無い布一枚を透かして、たった二人の弔客を精視している。慇懃無礼な顔の無い出迎えに、メーテルは手な心のスティックを切り替え、使い走りの雑兵が、
 「エメラルダス様が御呼・・・・・。」
 と切り出した瞬間、ブルカに潜む匿名の生首を光励起の雷刃らいじんが無言で撥ねた。水母くらげの様に宙を舞う端布はぎれと、硬質な放物線を描いて床を叩く目鼻一つ無い電脳ユニット。下獄の一閃に処された頸椎が咆電し、結束されたケーブルが犇めく断面を包み込んで倒壊するブルカの脇を、息一つ乱さずにメーテルは素通りし、乗降デッキに滑り込む。鉄郎の背筋を撫でる絶対零度のブリザード。何時見ても生きた心地のし無い虹周波こうしゅうはの斬像。
 「ったく、相変わらず、手が早いのは結構だけどよお。話の一つも聞いてやれねえのかよ。」
 足許に転がってきた断頭を土踏まずで軽くねてから爪先で掬い上げ、小気味良く胸元でキャッチした鉄郎は、後を追ってきた車掌の血相に苦笑いを振る舞った。
 「車掌さん見てくれよ。早速、此の様だぜ。」
 「嗚呼、た、何と言う事を。鉄郎様。相手は赤手配書を歯牙にも掛けぬ海賊エメラルダスで御座います。メーテル様に若しもの事が御座いましたら、私は・・・・。」
 「ケッ、一昨年買った線香花火じゃ有るまいし、時化た面してんじゃねえよ。其りゃあ、エメラルダスの御出ましと来た日には、流石の星野鉄郎様も、驚き、桃ノ木、下関だ。天の河原で大見栄を切る傾奇者かぶきものに睨まれたら、命が幾ら有っても足りやしねえ。でもなあ、車掌さん、彼の黒黴くろかびの事なら心配するだけカロリーの無駄だぜ。死んだ仲間を肛撃して喜んでる様な奴に、大人しくしてろと言った処で、ゴリラからバナナを取り上げる様な物さ。エメラルダスの賞金首だけ持って帰って治まる様な疳の虫じゃねえ。其れに何って言うのか、何時もとは一寸、雰囲気も違うしな。」
 「鉄郎様、事有る毎に申し上げる様で誠に心苦しいのでは御座いますが、何分、私は職務上、列車を離れる事が許されておりません。何卒なにとぞ、メーテル様の事を・・・・・。」
 刻の止まった鹿威ししおどしの如く、制帽を膝上にまで屈した車掌の最敬礼に、鉄郎は生首を小脇に抱え、ベストの胸ポケットの上から乗車券を叩いて虚勢を張った。
 「車掌さんよお、何だ神田の明神下で、俺には此奴の義理も有る。宜しくなんぞの口汚し、言わずもガーナのチョコレートだぜ。」
 「御武運を御祈り申し上げます。」
 「へっ、端ッから喧嘩腰と来たか。う来なくっちゃ。俺だって別にランチ合コンしに行くんじゃねえ。内の飛べ無い鴉の御姫様と海賊王が猫のじゃれ合いを始める様なら、俺が二人とも撃ち落としてやる。」
 「撃ち落とす・・・・鉄郎様、復た、そんな御戯群れを・・・・。」
 「車掌さん、此処まで来て只の睨めっこで済むとでも思ってるのかい。其れくらい気を張ってねえと、何方の女王様とも付き合えねえぜ。」
 「確かに、一筋縄では行かぬ方々では御座いますが・・・・・其れに致しましても、解せぬのはエメラルダスの深意で御座います。本来、系内に直行している筈のエメラルダス號が、何故、此の宙域を潜行していたのか。」
 「へえ、エメラルダスが太陽系に用が有るって、うしてそんな事、車掌さんが知ってるんだい。」
 「否ッ、其れが其の・・・・・誠に恐縮至極では御座いますが・・・・・。」
 「何だよ其の歯に奇無知の挟まった帰化議員みたいな物言いは。もう良い、判ったよ。言いたくねえ物を無理強いする程、野暮でもなけりゃあ時間もねえや。然う言うのも引っくるめて、ケリが付いた頃には炙り出てくんだろ。取り敢えず、内のKYな御姫様の事なら、んぶに抱っこに下の世話。何時もの事だ、任せとけって。車掌は乗務、金魚の糞は尻拭い。卯建うだつの上がらねえ者同士、適材適所で明るい現場。大きな声掛け、小さな気配り。無事故、無違反。笑顔で確認。其れでは御唱和願います。」
 鉄郎は雑魚の斬頭を車掌の胸元に放り投げると、暗黒瓦斯の鼻先に人差し指を突き出して、
 
   足許、ヨシ!!
 
   空調服、ヨシ!!
 
   乗車券、ヨシ!! 
 
   戦士の銃、ヨシ!!
 
 ツー事で、車掌さん、今日も一日、御安全に。」
 
 
 
 呆気に取られて生首を落としかける車掌を置き去り、乗降デッキにジョイントした蛇腹のタラップに駆け込む鉄郎。手摺りも何も無い急勾配でけ反る、ゴアテックスとノーメックスを合成した腸管。眼を凝らした其の遙か先に出口も見えなければ、メーテルの高麗こまッしゃくれた残り香すら無く、何を何うやって登っていったのかいぶかしみ乍ら、嵩張かさばひだに足を取られて藻掻いていると、不意に無限軌道の重力場が途切れて管内の気圧が一変し、獰猛な扇風に鉄郎の躰は巻き上げられた。天地無用で吸引される不測のスパイラル。抗う術の無い濁流に揉まれ、眼を開ける処か呼吸も出来ずに宙を掻き毟り、波動関数から弾き出された電子の様に腸壁を捻転する粗忽者そこつものの狂躁。瞬く間に釣り上げられてキャビンの甲板に吐き出される手荒い歓迎に鉄郎は肩口からバウンドし、這いつくばった潮気の無いチークの柾目まさめにキスをした。
 こんな海賊の流儀が何処に在る、此の密漁野郎。俺は一本釣りにされた本鰹じゃねえ。鉄郎は睫の先で飛び交う星々を掻き分け、乱気流の続きを踊り続ける三半規管を引き擦って立ち上がると、暴落した夕陽が頭上で渦を巻き乍ら伸し掛かってくる。立ち眩みの波紋が妖なす、死水の網に絡んだ狭丹塗りの船底。息が詰まる程の圧迫感を突き返す強壮絶倫な帆柱が傾ぎ、虚ろな角度で旋回する帆桁の両翼。鉄郎は膝が砕けて倉口の格子を踏み抜きそうに為り乍ら、寡黙な老兵の様に憮然と佇む艤装に片手を付いた。
 黒鉄の魔神がプラレールに見える、近世の暗礁から迷い込んだ筋金入りの幽霊船。冒険を超えた冥府の統征。血の海に沈められた幽鬼達の情念を逆波で浴び、ポールにまつはる海賊旗からステアリングホイール、側舷に配備された機関砲に至る迄、眼に映る何もかもが葬然と揺らめいている。蛛網ちゅうもうの呪縛と見紛う張り巡らされたロープと滑車の雁字搦め。キリストを降ろした十字架の様に佇む主無きステアリングホイール。つい今し方、装甲車両を撃破したとは思えぬ廃墟の寂滅。其の何が潜んでいるやも知れぬ、息の根を絶した気配が掻き立てる胸騒ぎを、黒妙くろたへの亡霊がピンヒールを蹴立てて颯爽と突き崩した。流石、オートクチュールの魔女、沈没船の墓場もパリコレのランウェイも糞も無い。メーテルが向かう先には、歩哨と思しきブルカの控える開け放たれた船首楼の扉。今更、其の場凌ぎに周りの物陰を漁った処で仕方無い。鉄郎は乱れたシャツの裾をタックインし乍ら、艦内に消えたメーテルを追って敵の懐に乗り込んだ。
 案山子かかし同然の歩哨をパスして何の鑑査も無い敷居を跨ぐと、其処は天地をかえして床一面に敷き詰めた星系図が瞬く、銀河のネガフィルムだった。木造の大航海時代は先端技術の特異点を突破した電網隔世紀へと一転し、統合管制機構と戦術情況演算の集積化したモザイクが、アクセスランプとシーク音の神経質なシンコペーションで、軌道計算、電波解析、磁空撚率の数列を執拗に掻き毟っている。生き埋めにされた肉眼の様に犇めく夥しい多針メーターが睥睨する鋼壁。艦内の動力モニター、タイムラインの逆算、流動する等航線をちりばめたエアディスプレイと、非破壊走査されてホログラフ化した999の機関室を、μ単位でトレースし乍ら宙を舞う断面図。紛う方無い。此れこそがベテルギウスも蒼褪めるエメラルダス號の中枢。然して、奴こそが燃え尽きる事を知らぬ紅孔雀の御神体。鉄郎は襷掛けの様に躰の起伏をなぞって透過していく天体軌道の残像越しに、実存した神話の女帝を凝視した。
 刻々と算出されるエレメントの遊星に満ちた玄室を征する、星系図の外輪に沿って居並ぶ配下のブルカと、其の扇の要に屹立する一際大仰に構えたブルカの隻影。気配を消している従臣と身の丈もブルカの絹地も見分けは付か無いが、此の陣容を束ねる枢軸から立ち昇る瘴気が、只者で在る事を許さ無い。誰よりも其のブルカの頭目の前に進み出たメーテルが、只の思わせ振りでは済まさ無い。足許を流れる銀河を挟んで対峙する射干玉ぬばたまの黒と黒。顔の無いブルカの闇の中で、車内放送の磁気嵐に掻き乱された彼の玉音が砕けた。
 「クイーン・エメラルダス號はクイーン・エメラルダスがおさす舟。ようこそメーテル。相も変わらぬ娟容けんよう。眼の保養とは正しく此の事。併し、此のエメラルダスの手に掛かれば999の拿捕だほなぞ軍事的逍遥しょうように過ぎぬ。果たして何時迄、其の涼しい顔を続けていられる事やら。」
 微かにそよいたドレープの中でくゆらせる勿体振った優越。ホストに有間敷あるまじき、余計な一言で鉄郎は短い夢から覚めた。別に優しい言葉を期待していた訳じゃ無い。死に神も避けて通る冷酷非情な女海賊だ。気に食わなければ首の一つも刈るだろうし、斯うもアッサリ拝謁させるのも己の力に余程の自信が有るのだろうが、其れにしたって何かが違う。卑しさ許りが鼻に突く絵に描いた様な黒幕。此が女王エメラルダス?無法の玉座に就く者が何に向かって吠えると言うのか。神秘のベールだったブルカが御薦おこもの被り物に堕し、其の押し付けがましい驕慢を、メーテルは血の気の失せた白亜の頬玉ほうぎょうを硬直させて醒め醒めとみつめている。彼の雷管が裸で歩いている様な女が。こんな日陰干しの暗幕を恐れている。そんな馬鹿な。己の合わせ鏡に何を臆する事が有る。鉄郎の苛立ちが顱頂を衝いた其の時、メーテルの吐息が虚空に紛れた。
 
 
    月もなく花も見ざりし冬の夜の
        心にしみて恋しきやなぞ
 
 
 バイナリーの蛍火が明滅する晦冥に溶け込んだメーテルの痩貌。今宵の主役を前にしてい乍ら、心、此処に不在あらず。たった一首を口遊くちずさんだだけで再び緘黙の御簾みすに退いたもう一人の女王に、虚仮こけにされたブルカの頭目は其の小賢しき玉座から飛び降りた。
 
 
    あまつちをうごかす道と思ひしも
        むかしなりけり竹斯ちくしことの葉
 
 
 此の期に及んで詩なんぞを嗜み、風雅を気取ってなんになる。そんな物は所詮、隠者の遠吠え。匙を投げた苦悩の最終処分場でしか無い。虚構の美を追い求めた挙げ句、古人の流涎りゅうぜんを舐めた其の舌で物を申すとは、卑しい口にも程が在る。」
 噴出した油田の様に波打つブルガの忿悶ふんまん。併し、其の奇妙に流麗な滑舌と声律に鉄郎は小鼻を吹いた。何んなにビットレートを上げようと、肉体の無いコイルと磁石の変調に哥の心は響か無い。アーカイヴの検索結果を切って貼っただけの、取って付けた台詞で安い鍍金メッキが地金を曝すと、
 
 
    いにしへも今もかはらぬ世の中に
         心の種を殘す言の葉
 
 
 メーテルは剥落した其の傷口に優しく塩を擦り込み、声を荒げる溝鼠色どぶねずみいろの頬被り。
 「そんな詭弁で鬼の首を獲ったつもりか。言論なんて物は限られた己の知性に劣等感を持つ、人類の自慰行為でしか無いわ。空言巧言に溺れ身を滅ぼした残党の分際で。さあ、剣をれ。油虫の様に踏み潰し、其の死に顔を萬人に曝してやる。」
 二人の狭間を流れる銀河の上に光励起サーベルが叩き付けられると、鉄郎はメーテルの慧眼を少しばかり見直して終った。スペースノイド解放戦線が聞いて呆れる。何の事は無い。此奴は人の皮を被ったグローバリストだ。カーク・マルクスを産み落としたのもロスチャイルド家なら、人権派のパトロンは“命より金”の大資本家と相場が決まってる。行き着く処、此の似非民族左翼も優生機族の捨て駒。アゾフの末裔でしか無い。
 足許を照らす鈷藍コバルト凊剣せいけん気怠けだるく手に操るメーテルに、一抹の期待と不安を抱いている自分を鉄郎は認めたく無かった。海の藻屑の様な部下達に囲まれて二人の女王の一騎打ち。其りゃあ、名も知られていて自分から吹っ掛けてくるのだから、ブルカの化身も其処其処出来るのだろうが、此方の黔いのも相当な物だ。雑魚を一蹴するのはもう飽きた。そろそろ、彼の馬鹿の本当の力を見てみたい。併し、闇にまつらう金絲雀カナリア色の垂髪から何時もの逆毛起つ様な妖輝が失せている。嵐の前の静けさで在って欲しいと願う鉄郎。女の喧嘩に首を突っ込むつもりは更更無い。
 ブルカの裾を擦り抜けて雷刃が其の抜き身を突き立てると、エメラルダスの周りを回遊していたエレメントが弾け、配下のブルカが星系図から後退った。凄寥蒼然せいりょうそうぜんとした室内の大気が硝結し、燐舞する幾何ゴーストの輝度が絞り込まれて振り返す闇。天環を巡航する星系図が其の足を止め、四方を囲む多針メーターの萬視がメーテルの痩貌、一点に集束する。対して、視姦されている当のメーテルは此から剣を交える相手と向き合ってはいる物の、懈怠けたいな伏し目の焦点は合っているのか、い無いのか。明らかに何時もと勝手が違う。緊張感の欠片も無い撓垂しなだれた肩口に鉄郎が固唾を呑んだ其の刹那、垂れ籠めていた円錐の織物がフラッシュを焚いた様に一瞬でメーテルとの距離を詰め、初動の片鱗すら無いノーモーションで切っ先の散弾を水平に掃射した。咄嗟に胸元で突き立てた刀身を楯にアークを飛ばして受け流すメーテル。熱暴走を起こした孔鑿重機こうさくじゅうきのヒステリーが射貫き、斬り裂く、剣術と言うより火器に等しい、息の継ぐ間を与えぬフルオートの剛腕。猛禽や豺狼さいろうとは異なる其の精密な挙動に、攻守が切り替わる暇も無ければ、途切れる事の無い斬像を、凝らした窄眼すぼめで追う事すらも儘なら無い。バックステップを繰り返し、星系図を流浪するメーテルを影の様に付いて離れぬ疾黒のドレープ。鳳尾の如き睫を掠め、頸動脈を悪魔の精度で追尾し、逃げ遅れた析算値のマトリクスを斬り刻む、光量子の千閃萬烈。塵風になぶられる雪柳の様に揺れ惑う鳳髪は、振り切る事も、突き放す事も、切り返す事も出来無ければ、相手を懐に誘い込み、カウンターを狙っている訳でも無く、心のうろに迷い込んだ儘、なまくらに小手先を弄しているだけで、反撃のハの字も無い。壁際に追い詰められて、大上段から振り降ろされた渾身の一刀迅雷を受け止め、群棲する多針メーターに背中を付くメーテル。互いの鼻先で鍔を競り合い、折り重なる二つの影。
 「何うした。討ってこい。」
 顔の無い怒号がメーテルの柳腰を薙ぎ払い、躰の泳いだ処を追撃されて、緒端をばなを断たれた胸元の玉房たまふさが闇にはじけて融けた。何を勿体振っているのか知らないが、御茶を濁せるのも精精、煮え湯がぬるむ迄の事。
 「オイ、しっかりしやがれ。」
 冷めた番茶の御手合わせに思わず檄を飛ばす鉄郎を背に、猛攻をはぐらかしているだけのくろ蜻蛉かげろう虫螻むしけらを八つ裂きにしても飽き足りぬ、純粋無垢な嗜虐の熱狂は何処へ失せたのか。此処に来るまで横溢していた、エメラルダスの風下に立って堪るかと言う鬼概は微塵も無い。烈火の如き兇刃を前にして、壁に立て掛けた能面の様に遠い眼差し。無気力に捌いている様に見えて、露聊つゆいささかも乱れる事無き露西亜帽。誉めるつもりは毛頭無いが、遣れば出来る女だ。息が上がっている様子も無く、だから猶の事、釈然とせず、其のもどかしさは一方的に攻め立てている側とて同じ事。有効打を奪えぬ捉え処の無さに業を煮やし、
 「猪口才ちょこざいな。」
 ブルカの裾がメーテルの爪先を踏み付けて、体勢を崩した間隙を衝き、したたかな一太刀がメーテルの手許を弾き飛ばした。
 「何が心の種を残す言の葉だ。口程にも無い。」
 宙を舞い、放電ノイズを散らして星系図に突き刺さったサーベルに勝ち誇るエメラルダス。此では軍配も何も在った物じゃ無い。如何いかにも手慣れた姑息な細工に、失った得物を拾う処か見向きもし無いメーテル。抑も、此の腑抜けは端っからブルカのヒステリーなぞ眼中に無く、案の定、其の余計な態度がブルカの端布はぎれに火を点ける。
 「捕らえろ。」
 エメラルダスの指示に、壁際の下僕がタッチパネルを操作すると、メーテルを背後から視姦していた多針メーターの黒山からプラズマが跳梁し、雷撃に討たれて宙に浮き、失神したメーテルの蜂腰を無脊椎マニピュレーターがくわえ込む。
 「傷を付けては元も子も無い。丁重に扱え。此の女の海馬を初期化し、準備が出来次第換装する。999の引き揚げと解析は其の後だ。」
 回収されていくメーテルの後に続いて、無言で別室へと向かう従卒の隊列。トレードマークの露西亜帽を飛ばされ、鳳髪を振り乱して項垂うなだれた姿を見る限り、此処からの起死回生は望み薄だ。
 「オイ、其のくろいのを何うする気だ。」
 ようやく御鉢の回ってきた鉄郎が啖呵を切ると、メーテルを見送る木耳きくらげの被り物は振り返りもせずに言い放った。
 「おやおや、未だそんな処に居たのかい。そんな物知れた事。此の女の躰を頂くのさ。」
 下卑た其の物言いによぎる人間狩りの悪夢。確かに此奴は海賊だ。今更、蒲魚振かまととぶっても始まら無い。
 「俺の豚に汚ねえ手で触んじゃねえ。」
 鉄郎が腰のホルスターに手を遣ると、鵲は冷徹で硬質な感触を返してくるだけ。其りゃ然うだ。此の霊銃はこんな雑魚を相手にするタマじゃ無い。鉄郎はエメラルダスを睨み付けた儘、突き刺さっているサーベルに間接視野で探りを入れると、エメラルダスはかたきの卒塔婆の様に斬り払った。
 「汚いだと。汚物同然の身の上で。生洒洒いけしゃあしゃあと。本来、事のついでに胃の腑に納めるような代物では無いが、此の女が態々999に乗せて連れ回してるのだ。何等かの秘め事が有るやもしれぬ。此奴も豚の仲間の処に放り込んでおけ。」
 エメラルダスのサーベルが鉄郎の足許を指し示すと、継ぎ目一つ無かった床面が不意に開口し、蛇腹のタラップを引き擦り回された彼の吸引力と共に鉄郎の視界が暗転し、有無を言わさぬ急激なスロープとスパイラルの激流に呑み込まれた。掴み所の無いダクトの中を滑落し、盲滅法に蹂躙される、全く進歩の無い御粗末なデジャブ。我ながら其の御人好しに、穴が在ったから入っているとは、察しが良いのも考え物だ。逆上した脱水機の蓋が外れた様に吐き出されて、再び肩口からバウンドし、奈落の底にキスをすると、鉄郎は叩き付けられた打撲の疼痛が乱反射する、天地を滅した無明の絶界に転がり込んでいた。闇に頬を擦る硬質で冷俐な肌触り。寝返りを打つと見えない壁に背中が支え、手を突き膝を立てて半身を起こすと、独居老人の繰り言の様に愚直な鋼板の残響だけが、耳骨を浸す耳鳴りの暗礁に紛れていく。
 乗車券をライトモードにして翳してみると其処は、小窓の付いた扉が一つ在る切りの四畳半にも見たぬ四角四面の懲罰房。台本通りの展開がくすぐる浪漫主義の小聡明あざとさに鉄郎は頬が緩んだ。通俗三文映画の絶体絶命を華麗なギミックで脱出するのがヒーローの見せ所。此の後に控えるハイライトは、濡れ場か、爆破か、カーチェイスか。盛り上がってきやがった。御誂おあつらえのシチュエーションに鉄郎は千鳥足の三半規管を引き擦って立ち上がり、袖を捲った序での景気付けに駄目元で正面の扉に踵を叩き込む。すると、豈図あにはからんや、其の儘一気の前倒しで視界が開け、湿気混じりの黴臭い埃が舞い上がった。ライトを当てると、ドアのつがいの溶接は蒟蒻団子こんにゃくだんご緒緒切ちょちょぎれ。こんな豪壮な図体で何んな施工をしてたのやら。此じゃあ裏口から卒業するみたいで読者に申し訳が立た無いが、まあ、AVをヤラセで訴える野暮も無い。
 紙数の兼ね合いか、ビデ倫の審査か。割愛された脱獄劇の代わりに待ち構える、波乱の仕切り直しに鉄郎は乗り出した。只の袋小路でしか無い懲罰房を後にして、船倉と思しき瓦落多がらくたの山に潜り込むと、隔壁で仕切られた棚の中はベアリング、銅線、減速機、モーターベース、グランドパッキン、捻込み配管のエルボーとチーズと言った、アナログな補修資材が所狭しと詰め込まれては崩れて足の踏み場も無い。グリスのドラム缶を渡って鋼管のタラップを見付けるも、此又、犬のケツの穴から引き擦り出した真田虫の様に、溶接ビードが垈打のたうっていて、こんな安っぽいスリルに躰を張るのかよと泣きが入る。ジョイントの隅肉すみにくを確認し、本当はこうう言う時、意識の高い主人公だったら火薬庫を探し当てて一仕事している処なのに、と愚痴り乍ら天井の低い最下層甲板に出る鉄郎。何方どっちが船首で何方が船尾なのすら見当が付か無い以上、取り敢えず、足で稼ぐしか道は無い。乗車券のライトが照らし出す半径数メートルを、勘に任せて駆け巡り、眼に付いた階段を手当たり次第に駆け上る。乗車券の機能を使えば艦内をスキャンしたりとか、色々出来るのかも知れ無いが、今はヘルプを呼び出している暇も無いし、元々、取説とかって言う奴は性に合わ無い。男は黙って出たとこ勝負。運が悪けりゃ死ぬだけさと吐き捨てた鉄郎。すると、ライトの彼方に人工物とは異なる醜怪な影が蠢いた。
 何かが壁を鷲掴みにしている。鳥の鉤爪?真逆。一瞬、頭を過った紅孔雀の異名を持つ此の舟の主。併し、近寄ってみると其れは剥き出しに為った老木の根塊で、天井を突き破って壁を伝い床を這い回っている。屈強に節榑立ふしくれだつ原始の暴発。生命力とか言う在り来たりな言葉が通用し無い亜空間のコラボ。此処は艦内だ。地上で攀縁類へんえんるいが建物に浸蝕するのとは訳が違う。何より、んでいる。腰に提げたホルスターの中で闇眠に伏していた鵲が。其の尾羽をそばだてて、何物かに感応している。霊獣にブラフは無い。此の上に何か在る。然う独りごちた刹那、
 
 「其処に居るのは誰だ。」
 
 永い眠りから覚めた物憂げな声が頭上の根株から降り注ぐ。樹が喋った。耳を疑い、声の主から一歩後退る鉄郎。其の踵が宙空のクッションに優しく包み込まれ、鉄郎の躰が床から浮き上がった。襟足が逆立ち、Barbourの裾が大気を孕んで自重から解放され、慈愛に満ちた老木の霊験に空転する悟性。そして、緩慢に引き剥がされていく艦内の人口重力に気を取られ、直ぐ其処に迫った天井に思わず抱え込んだ頭が、舟の躯体を擦り抜けた。鉄郎の見開かれた瞳孔を透過していく鋼材の断面図。凪いだ湖水から顔を出す様に床下から現れた鉄郎は、肉体から離脱した儘の心が泳いで、唯唯、生い茂る見事な枝振りの老木を仰いでいた。僅かに残る薄桃色の花瓣はなびら。此は桜の・・・・否、
 慄然と舞い上がっていた逆髪さかがみが治まり、ジャケットのはためく肩甲骨から靴底へと自重が甦っても猶、其処は、醒め無い夢の入り口。鉄郎は再び、オールドチークの愚直な意匠を纏う大航海時代に舞い戻っていた。天球儀と時辰儀を並べた書斎机と航界図の巻物が詰め込まれた書棚。彫金を控え目に配した短躯のワードロープと意味有り気に鎖で縛られた宝箱。壁に掛けられた古事伝承をつづるタペストリーと異国の花蝶を敷き詰めた波斯ペルシャ絨毯。天蓋の様に覆い被さる老木の下影にしつらえた、沈思にふけるクイーンベッド。在りし日の栄華をはべらせ、鉄郎の眼を釘付けにする、其の雅なレリーフを鏤めたヘッドボードから玲瓏一矢れいろういっし鶴声かくせいが飛んだ。
 「少年。」
 酸素吸入器を外し、眼を閉じ床に伏した儘、女はしずかに戒めた。
 「女子の寝室に入つたのだ。せめて躰の埃くらゐは払ひ落とせ。」
 メーテルとけんを争う其の美貌を斜めに限る縫合痕。亜麻色の垂髪を留める髑髏のヘアブローチ。小鼻をくすぐるアプリコットの芳香。
 
 
   絕代有佳人   絕代ぜつだい佳人かじん有り、
   幽居在空穀   幽居いうきよして空穀くうこくに在り。
 
 
 女海賊クイーン・エメラルダス。言葉もあかしも必要無い。此のひそやかな稀人まれびとの他に何者が名乗れるとうのか。頬を刻む宿痾しゅくあの韻影。病床に伏して猶、規矩きくを正す、孑然げつぜんとした其の威風。膝の皿が怯震し、鉄郎は慌ててBarbourを脱ぎ、女王に背を向けて頭に被った埃を叩くと、露わになった腰の得物が放つ共鳴に女王は耳を傾けた。
 「矢張り、私の銃を喚んでゐたのは御前か。」
 サイドキャビネットに据えた御鏡みかがみに掌を翳すと、ダマスカスの文様が波打つ霊銃が映し出され、エメラルダスは其の鏡像の中に腕を伸ばして取り出した。惹かれ合う鵲と鵲。タイタンのおみなが巡り合わせてくれた新たな出会い。
 「御飾りで持てる銃では無い。名は何と云ふ。」
 「星野鉄郎。」
 「何う遣つて此処まで来た。」
 「何う遣ってって、999で・・・・。」
 「999、其れでは、メーテルも。」
  薄らと瞼の狭間から覗く星眸が潤み、愁眉を解いて半身を起こすと、ヘッドボードにもたれて老木を仰ぐエメラルダス。
 「然うか、メーテルが来てるのか。」
 憔悴した青娥の追憶。咳を堪える掠れた声。咳を堪える声に絡む不吉なザラつき。
 「相変はらず無茶をしてゐるのだらうな。」
 「其れが・・・・・、木耳きくらげみたいな奴を被った連中に・・・・・。」
 「何、ブルカを着た者達が何うしたのだ?彼は小間使いのアンドロイドだ。序列を割り振つてゐるだけで全て同じ型なのだか、又、何か粗相をしたのか?」
 「メーテルを捕まえて、其の躰を・・・・・。」
 「然うか、庇を貸して母屋を取られるとは、エメラルダスも落ちぶれた物だな。もう少し此の躰に無理が利けば、あんなワゴンセールの世話になぞ為らんのだが、
 
 
   都府樓纔看瓦色  都府樓とふろうわずかに瓦の色を看
   觀音寺只聽鐘聲  觀音寺くわんのんじは只だ鐘のこえくのみ
 
 
 天河無双の女海賊も、今では垂簾すいれんの幽女だ。」
 エメラルダスが御鏡に再び掌を翳すと、手術台に運ばれ、全身をスキャンされる喪装の令嬢が映し出された。メーテルに勝るとも劣らぬ鳳尾の如き睫が騒めき、其の炯眼けいがんに一瞬走った敬慕のさざなみが、怒濤の憤怒に呑み込まれる。薄く引き締まった口吻こうふんから食い縛った皓歯こうしが覗き、夜着よぎ代わりのくろき釣り鐘外套をエメラルダスは払い除けた。紅蓮の業火を巻き上げて羽搏はばたく紅孔雀の覚醒。迂闊な一言が、封じられていた霊鳥の禁を解いて終ったのでは無いかと震撼する鉄郎。処が、戦士の銃を手に取り、ベッドから降り立とうと身を捩った其の時、エメラルダスは烈しく咳き込み肋骨を波打たせて蹲った。己の炎に焼き尽くされて崩れ落ちる伝説の火の鳥。思わず駆け寄ろうとする鉄郎を、エメラルダスは左手を突き出して制止し乍ら、右手で酸素吸入器を口に運び、ヘッドボードに其の身を預けて一息吐いた。
 「宇宙とは未知のウイルスの宝庫だ。全く厄介な相手でな、まるで人が宇宙へ進出するのを拒む見え無い番人だ。生命が誕生するのに此の宇宙は奇跡的なほど都合良く出来てゐる。宇宙は知的生命が誕生する為に在る等と云ふ輩が居るが、其れは宇宙の誕生や生物の進化、物理法則や時の流れを勝手に擬人化し、人間の尺度で考えてゐるだけの事だ。所詮、己の存在に陶酔したい人類の編み出した独り善がり。似非科学に色を付けただけの、甘つたれた文学でしか無い。そんな物はダーウィンの進化論がつくの昔に喝破してゐると云ふのにだ。宇宙は生半可な命など見向きもし無ければ、必要とすらしてゐ無い。」
 「機械の躰に乗り換えないのか。」
 「気に入つてる物を手放す理由が何処に在る。鉄郎、御前の方こそ、機械の躰を只で貰へると唆されて、999に潜り込んだ口では無いのか。」
 本の気休めで掛けた言葉に、額から噴き出た幾筋もの脂汗にまみれ乍ら切り返す、エメラルダスの決死の作り笑顔。スペースノイド解放戦線を独りで背負う女王の、燃え尽きる事の無い生命への賛歌が鉄郎に火を点けた。
 「俺はハプログループD1a2aだ新生縄文人。此の生身の血統こそが俺の総てだ。テメエの出自を生け贄にする事で、エリートなんて云う免罪符が手に入ると勘違いしたリベラルジャンキーの成れの果てが今の糞機族だ。白人願望に押し潰された村上春樹や、白人に鞍替えしたイシグロカズオじゃ有るまいし。国家や民族を否定し、資本主義の暴走を許した文化左翼の似非啓蒙主義が、霊超類なんて云う究極のナチズムを生んだんだ。俺は優性種に成る為のパスポート何て必要ねえ。」
 身の丈を越えて過言はとどまる事が無かった。エメラルダスの鬼概に応える魂のエールが心の壁を打ち破った。タイタンの嫗の諭した想いが、今、言葉と成って溢れてくる。
 「多目的視座に創造的克服、そんな、無き事を理を以て有りげに云い為す空論に溺れ、新しい民主主義と称して、民主集中制の焼き直しを企て、あらゆる民族の歴史と文化を滅ぼした挙げ句、人類が機族に淘汰されたのは自然環境を支配し破壊した当然の報いだ、人類は地球に謝り続けろと火裂ほざきやがった似非知識人と、其れを裏で操った帝政投資家グローバリストを俺は許さねえ。人類が地球に謝り続けろってんなら、言い出した同じ出自のテメエから謝るのが筋ってもんだ。機族との全面戦争に突入しても、機族から金を貰って非暴力や機族の人権を訴え、ヤラセの反戦デモや密告を繰り返しやがって。人類の足を裏から引っ張り続けたリベラル中毒に、魂の帰る場所なんてねえ。」
 此の眼で見てきたかの様に、爆ぜる小兵の心拍。エメラルダスは吸引ノズルをくわえて痰を切ると、手当たり次第の舌鋒をたしなめた。
 「フッ、まあ、然う、熱くなるな。」
 研ぎ澄まされた令顔清色が綻び、まなじりを伝う汗が涙の様に滴り落ちる。若かりし頃の自分に問い質された様な錯覚に含羞はにかみ、女王は其の胸襟を解いた。
 「スペースノイド解放戦線なんぞと言ふ大層な看板を掲げてはゐるが、機族と持ちつ持たれつと言ふ事で云へば、私も其のリベラル何とかと云ふのと大差無い。確かに、共産主義とリベラルアーツは近代の生み出した、人間の理性をドグマとして崇める一神教のカルトだ。フランクフルト学派も所詮は其の一宗派。ナチスの反動から産み落とされた左利きのナチスで、孔子学院に毛の生えた、学閥とは名許りの諜報機関でしか無い。夢を壊す様だが、リベラル仕込みの機族資本から委託されるアウトソーシング抜きで此の舟も喰つてはいけず、海賊呼ばはりされれば、盗みもするだらう。此から火星の大掃除に行く処だ。元請けの銀河鉄道株式会社が三顧の礼で打電してきた。貧乏籤と判つてゐても、図体ばかりデカい分、先立つ物が無いとエンジン一つ掛けるのも儘為らぬのだ。とは云へ、何時もなら少し色が付くまで焦らして遣る処だが、今回に限つて金のイロハは二の次だ。其の上、時間も無いと来てゐる。」
 「火星って云うと、電劾重合体に乗っ取られた。」
 「然うだ。私の生まれた星だ。こんな形で錦を飾る事に為るとはな。酸化したあかい大地が広がる、地球に最も近く、然して、人も物も素通りしていく、中途半端なテラフォーミングのまま放置された三等級の惑星だ。其れでも、私は火星の赤錆た砂嵐が好きなのだ。鉄が生きて呼吸してゐる証だ。人の血が赭いのも赤血球の鉄分が酸化してゐるからだ。此の樹も火星から連れてきた。杏の樹だ。火星の赤錆を吸つて赭い実が生る。我が家に居ては旅を想ひ、いざ旅に出ては我が家を思ふ。野良猫は譬へ人に保護されて幸せに暮らしてゐるやうでも、生まれ育ち、家族と過ごした場所と時間を決して忘れる事は無い。窓辺に佇み独り鳴いてゐるのは。硝子の向こうに広がる外の世界に在りし日の記憶が蘇り、赭い血が騒ぐのだ。赭く錆びた命のうしおが。」
 赭き火の星に生まれた火の鳥がしずかに燃えている。勇む心をなだめる様にエメラルダスは呼吸を整えた。
 「火星は私が護る。」
 血然とした寡語のいかが鉄郎を焼き尽くした。何を案ずる事が有ろう。言霊にした使命が女王を何度でも甦らせる。烈しく跪きたい衝動に、躰が痺れて身動きの取れ無い鉄郎に向かって、エメラルダスはおもむろに言葉を継いだ。
 「鉄郎、海賊なぞと言つた処で、好き勝手に宇宙を飛び回れる訳では無い。銀河航路の圏外は完全に補給を断たれる死の世界だ。本の数光年でも足を踏み外せば生きては帰れ無い。御用風を喰らつた時からの瘋癲ふうてん稼業も、所詮、銀河航路の周辺でウロウロと騒いでゐるだけ。いかめしい旗を掲げてゐるのもモラトリアムのヒステリーだ。然して、気が付けば、
 
 
    虎とのみ用ゐられしは昔にて
        今は鼠のあなう世の中
 
 
 要領の良い連中は、河をわたつて舟をくと云ふのに、こんな襤褸船に獅噛憑しがみついてゐる時点で先は無い。例え高く飛べなくとも、此の船を背負つて進もうと言ふのなら、最後まで意地を張り通せば良い物を、
 
 
    けがさじと思ふ御法みのりの供すれば
        世渡るはしと成るぞ哀しき
 
 
 何時の間にか溝浚どぶさらひが板に付き、染み付いた臭ひにも気付け無い。何故、斯う為つて終つたのやら。
 
 
    しを思ひ分くこそ苦しけれ
       ただあらざればあられける身を
 
 
 今は唯、想ひ馳せるのみ。無鉄砲に火星を飛び出して終つたのも遠い日の花火だ。彼の頃、何を追ひ求めていきり立つていたのか思ひ出す事すら出来無い。議論と虚栄と競争に疲れて、人間なんぞ本で読めば十分だと思つてゐた。」
 エメラルダスはキャビネットに眼を遣り、鏡が感応して映し出した縫合痕の無い若かりし日の姿を手で遮った。
 
 
    恨みても泣きてもいはむ方ぞなき
        鏡にみゆるかげならずして
 
 
 青春と呼べる物なぞ何も無かつた。素直に若者の役割を演じてゐれば良い物を、旅を旅してゐるだけで何処にも辿り着けずに此の有様だ。其れを今、斯うして振り返る事で彼こそが青春だつたのだと気が付くだけ。後悔してゐ無い等と負け惜しみを言ふつもりは毛頭無い。違ふ生き方をしてゐたら何うだつたか夢想し乍ら、此の儘、届かぬ想ひを残して朽ち果てていくのだらう。併し、過去に引き擦られて生きるのも其れ程悪い事では無い。
 
 
    うれしくば忘るることも有なまし
       つらきぞ長きかたみなりける
 
 
 失つた物が大きければ大きい程、人生は深みを増し、得る物も大きい。望んだ物が総て手に入り、願つた事が総て叶ふ人生なぞ、空気の中を泳いでゐる様な物だ。心残りとは良く云つた物だ。肉体が滅んでも猶、心が残るのなら。其れも又、本望。人は悲しく、然して、美しい。」
 御鏡をよぎる手放して終った物達の面影を繋ぎ止める様に言葉をあざなうエメラルダス。其の往時を弔う問わず語りが、時の風雪に埋もれる半睡半醒の眼差しが、不意に焦点を取り戻して硬直した。
 「鉄郎、御前は未来が見えるか。」
 ひるがえった声色に老木の木末こぬれおののき、身を寄せ合っていた残花の独片ひとひらが散った。
 「未来とは子供達だ。其れが答えだ。子の無い私に未来は無い。有るのは只、眩し過ぎる思ひ出と、若い頃にすがつた自尊心の欠片だけだ。許せ無かつた。自分より劣る男に心と体を許す事が。負けを受け入れる事が。間違ひを認める事が出来無かつた。人類アレルギーと云ふ同族嫌悪に点ける薬は無い。海賊王だとのたまひ、宇宙の宝と名声を追ひ求め、本当の宝を見失つた。戦ひの日々の中で、我が子の為に命を投げ出す者達を、掛け替への無い未来に命を捧げる姿を蹴散らし乍ら、己の弱さを恥ぢた。然して、焦土に取り残された戦災孤児が狂おしい程に愛おしく、手を差し伸べたら此の様だ。何うだ、鉄郎、身の無い貝殻を笑ひたければ笑へ。」
 沈黙が全てを物語る、墨刑ぼっけいの如く鼻梁を裂いた縫合痕。老成した科白かはくとは裏腹に取り乱した鏡像を伏せ、裏面の内行花文ないこうかもん花瓣はなびらを指ででるエメラルダス。女王は裸だった。銀河に轟く怪聞とは程遠い、配下のアンドロイドが乗務しているだけの孤独な艦内に閉じ込められた、箱詰めの捨て猫。其の打ちひしがれた病躯に鞭を打ちエメラルダスは語気を極めた。
 「鉄郎、若し御前が海賊なぞと云ふ物に憧れなぞ持つてゐるのだとしたら、飛んだ御門違ひだ。そんな上辺だけの夢では無く、己の為す可き事を為せ。人が己の好きな物だけを食べ続けたら何う為る。己の好奇心の面向おもむくに任せて、唯独つの学問に没頭したら何う為る。己の叶へたい夢にかまけて、総てを投げ出したら何う為る。己の好きな食べ物と、己の躰に必要な栄養は別物だ。己の興味が有る学問と、本当に学ばなねばならぬ学問もまたしかり。己の思ひ描く夢と、己に定められた天の使命を履き違へるな。鉄郎、己の為す可き事を為せ。何より御前は、神の物語の中に居る。鉄郎、御前は神話を信じるか。」
 「信じるかって云われても、言い伝えの迷信だろ。」
 「私は無神論者だ。此の無機質な宇宙の深淵なる闇を一度覗き込めば、神が存在し無い事も、死後の世界が存在し無い事も知る事になる。其の上で、私の話を聞け。人が語る過去と云ふ点に於いて、神話と歴史とは僅かな差異でしか無い。歴史的事実を幾ら並べても、神話が物語る一つの真実には到底及ば無い。神話には合理主義を越えた意味が在る。」
 「でも、神話なんて殆ど作り話じゃないか。」
 「事実で無いから意味が無いと言ふのなら、文学も映画も、人が思ひ描く夢も未来も全て意味が無い。旱魃かんばつで苦しむ民の許に旅の僧が現れ、祈りと共に其の手にした杖で地を穿うがつと、水が湧き出で井戸に成つたと云ふ伝承が、何故、民族や文化、時代を越えて存在するのか。僧の足跡と文献が一致し無い、杖一本では水脈に到達し得無い等と云つた科学的事実より、民を救ふ祈り、其のちからを偽り無く信じると云ふ、心の真実こそが大切だからだ。人類に本当に必要だつたのは科学の進化では無く、精神の深化だつた。言ひ伝へが途絶えた時、人の心も途絶える。今の地球みたいにな。鉄郎、御前のルーツには神話が在る。神話の源流を人は未開の野蛮な迷信だと切り捨てた。併し、神とは単に万物の神秘を擬人化した人類の妄想では無い。原生人類の自然に対する漠然とした傍観が、認知構造の革命的な飛躍に因つて、世界と云ふ概念を生み出し、其の柱に目視不要な威霊を創起し、打ち建てた。存在し無い存在を想像し、共有する。其れは人類の思考を新しい次元に押し上げ、宏大な心的世界を生み出した。死と神の概念は人智の創造的発展に不可欠な過程だつた。威霊との交神を司るシャーマニズムも、蒙昧な蛮族達の出鱈目な空騒ぎ等では無い。一心不乱に祈祷する狂態に近代化した人類は眉を顰め、白痴の為せる業だと嘲笑つた。併し、何故、人は祈るのか。自然災害に病魔、人智を超えた脅威を鎮める為、失はれた命と通じる為に人は祈つた。拡張された心は形無き物を求め、より尊き願ひへと昇華する。然して、感極まつたことばが祈りと成つて発露し、時間と場所を越えて轟き、人人の心を救つた。呪詛が祈りに、祈りが形無き物を信じる力に、未来を描く心を育てた。心とは祈りだ。形無き心は形無き真実に共鳴する。祈りとは命と命を繋ぐ心の源流で在り、其の核心に詞が在つた。詞が神と共に在り、神、其の物で在つた時代。詞の呪能を高度に発揮する事で此の宇宙と交神した。鉄郎、御前は言霊のさきはふ星の許に生まれた。私は神を信じ無い。其れでも我々の心の起源に神話の世界が在る事は認めざるを得無い。人類の破滅は其の源流を見失つた、否、破棄したからだ。鉄郎、詞を、然して、心を遡れ。答へは常に我我の伝承に在る。メーテルは其の答へと力を賜つた女だ。メーテルを護れ。其れが御前の使命だ。」
 竜頭の教えを引き継いで語るエメラルダスの詞が、逃れ得ぬ荷縄と為って鉄郎の肩に食い込んでいく。メーテルを護る?此の俺が。あんなピカソの絵を逆さにした様な出鱈目な女を。迫り来る威大な影に怯え、振り上げた拳が叩く運命の扉。其の僅かに空いた隙間から、エメラルダスは詞を紡ぎ続ける。
 「其の昔、地球にイスラエルと言う国が在つた。其の国の公用語はヘブライ語だ。其れも発音すら判ら無い。文字だけの詞を二千年の時を超えて復活させた。詞とは民族の絆、存在のあかし、其の物だからだ。彼等は其れを知つてゐた。離散と虐殺が繰り返されても詞が心を繋ぎ止めた。神の言葉を断ち切る事を許さず、彼らは繁栄した。常に内ゲバと裏切りのピエロだつたリベラルとは対照的に、其の国の原理主義者達が最期の最期迄、機族の暴虐に抵抗し続けた。無論、機族と云うグローバリズムの徒花を産み落としたのもイスラエルの末裔なら、神の国を始める裁き主を名乗つたのも機族なのだから皮肉な物だがな。力尽きたイスラエルの民が滅び、ヘブライ語も封じられると、人類は神話を起源に持つ詞を失つた。アーカイブの棺に詞は未来と共に葬られた。鉄郎、御前を除いてな。」
 エメラルダスは我が子を見守る様に、鉄郎の腰に提げた千早振ちはやぶる霊銃に眼を細めた。
 「詞を遡り、解放しろ。詞とは至高の伝世品だ。然して、鉄郎、御前自身も又、伝世品種の誉れだろう。御前なら其の意味が判る筈だ。
 
 
    白露のはかなくおくと見しほどに
 
 
 小兵の天稟てんぴんを言問うエメラルダスの詠嘆が、吐胸とむねに轟き、絞り出す様な覚悟が鉄郎の決唇けっしんを迸る。
 
 
      ことの葉ふかくなりにけるかな
 
 
 「然うだ、鉄郎。御前には其の詞が有る。うたは言語の道を尽くす。御前を育んでくれた始祖の詞より美しい物が此の宇宙に在るか?詞とは御前が旅の最期に必ず還る場所だ。御前の心が変はらぬ限り其れは何処にも行く事は無い。譬へ其の身が滅んでも、其処が御前の還る詞と成る。詞は美しい祖国と離れる事は無く、だからこそ美しい。御前の詞は未だ少々荒っぽいがな。鉄郎、詞を磨け。伝へたい想ひを磨けば詞も輝き、詞を磨けば心も輝く。」
 エメラルダスと差し向かう緊張感が、忘れる事の出来無い彼の包容力に解け出していく。鉄郎は初めて其処で気が付いた。何時も、何時も見上げていた、七つの海で満たした様な母の眼差しに。何も名を残さぬ母が纏っていたエメラルダスと同じ女王の風格。鉄郎を護り抜く為にきんを解く事の無かった母が、今、初めて心を開き、其の想いを詞にしてくれた様な錯覚。
 「神の物語には初めから文字など云ふ物は無く、其の必要すら無かった。唯、人と人とが与交くみかはす詞が有れば其れで総ては満たされてゐた。そんな己の姿を顧みる必要など無かつた詞を、融通無碍な呪能の総てを、漢意からごころさかしらが文字と云ふ形有る鏡の中に封じ込めた。人は文字が連ねる事物の影を真実や豊かさと取り違へ、詞と言う心の自由を手放し、神神と共に暮らしてゐた時代は潰えた。鉄郎、形有る物を求めるな。人は形有る物と結果を求めて滅びた。形や結果を求めるのは、己の歩む道を信じてゐ無いあかしだ。己の進む道に自信が有るのなら、周りの景色なぞ無用。目指す処が高く遠く在れば在る程、御前の詞は輝く。鉄郎、御前の旅は詞を遡る旅だ。神の物語をけ。道に迷つたら上を目指せ。難を逃れず、決して下る事勿ことなかれ。」
 小鼻を焦がし、眦で滲む想いを堪え、女王の激励に頷く事が出来無い鉄郎。エメラルダスはほのかに恥じらい乍ら、伏せていた御鏡を元に戻して、何年来か見当も付かぬ心からの微笑みを覗き込んだ。
 「歳を取つた証拠だな。久し振りに生身の詞を交はせて、いささか口が過ぎたやうだ。もう時間が無い。メーテルに宜しく伝へてくれ。」
 「宜しくって、メーテルに会わないのか。」
 虚を衝かれた鉄郎が思わず詰め寄ると、エメラルダスは老木を仰いだ眼裡まなうらに想いを馳せた。
 
 
   逢ふからもものはなほこそかなしけれ
       別れむことをかねて思へば
 
 
 鉄郎、あんなろくで無しのい女、然うは居無い。メーテルの事を頼むぞ。奴に止めを刺すのはクイーン・エメラルダス、積年の本懐。譬へ神の鉄槌で在らうと、水を差されて堪る物か。」
 病に伏した姿を見せまいと振る舞う気丈も事乍ことながら、肝胆相照らす仲で在るからこそ、交わす詞すら不粋の極みと云う無二の信服。しかして、此処に又一つ、新たなちかいのいとぐちり合わされて、血束する。
 「鉄郎、無限軌道を折り返し、必ず還つてこい。終着駅の地球へ向かう999の最後の停車駅が火星だ。鉄郎、火星で待つてゐるぞ。」
 折り返す。そんな明日の約束なんて出来やし無い。其れなのに、エメラルダスの詞は重かった。人の心には質量が存在する。其の因力が鉄郎を奮い立たせ、勢い、勝ち気に撥ね除けた。
 「エメラルダス、人の事より、精々、養生しやがれ。」
 鉄郎の悪態に、滴る汗を拭おうともせずエメラルダスは破顔一笑、キャビネットに拳を振り下ろし、
 「女王を呼び捨てにするとは無礼千萬。生かして帰すのは王国の名折れ。とは云へ、此程、明け透けに胸襟を解き、人心に紛れたのは久しからぬ快哉かいさい。大目に見て取らすぞ。鉄郎、御前の方こそ、達者でな。」
 火の鳥の隻翼が此の世の全てを焼き払う様に、稲光る御鏡みかがみに掌を翳すと、胡蝶が舞い上がる様に、打ち萎れていた老木が一気に咲き乱れ、薄紅を差した白磁の花吹雪が鉄郎を七重八重ななへやへに取り巻いて、揺れ惑う耳目を埋め尽くした。女王の失われた青春を巻き戻す様に目眩めくるめく、した花蜜にせ返る芳烈な坩堝るつぼ。透かし彫りのクイーンベッドは鱗幕の向こうに掻き消され、逆立つ襟足とVibramのクレープソールが人工重力から再び引き剥がされていく。おおらかな浮力に包まれてくぐ太母たいぼの胎内。身に余る常春とこはるの喝采を浴びて、花瓣はなびらの霞が晴れ渡ると、鉄郎は蛇腹のタラップに吐き出された、甲板の上に舞い戻っていた。
 陶然醒めやらぬ女王との謁見。迷い込んだ鏡の世界に心の断片を置き去りの儘、忘れ形見は穂の香に漂うアプリコットのみやびな薫陶。そんな余情に耽る小兵の緩んだケツの穴を、腰の得物が武者震い、後れを取るなと急き立てる。見上げれば、己の為す可き事を為せと鼓舞する、争天の帆柱。正面には、倉口の格子を間に挟んで決戦の船首楼。鉄郎は仕切り直しの鉄火場に、宙羽織りでBarbourに袖を通し乍ら、脇目も振らず駆け出した。出戻りの小舅こじゅうとは喰らった冷や飯を忘れ無い。のぼせ上がった鬼嫁のくろいのが二匹、其の泣き所に俺の鵲をち込んでやる。
 扉を蹴破り、星系図を敷き詰めた司令室に飛び込むと、壁面の多針メーターの一基が拡張した開口部の前で、ヘドロを被った水母の様なブルカの一団が、硝子張りの隣室を覗き込んでいる。金鸞きんらんの乱れ髪を鏤めた手術台の上で、ピンヒールと鎖骨の狭間に埋もれる翡翠ひすいのネックレス以外、身包みぐるみ剥がされた、眠れる謎の美女。令達の時を待つ伝送海馬のヘッドギアが其の安らかに取り澄ました寝顔を見下ろし、ポインターの緋照が頭部の起伏に沿って方眼の枡目を描き出し、引出線の矢印が顳顬こめかみや眉間を走査しながら脳波をスクロールしては、注釈を書き込んでいく。
 「様あねえな。こんな機塊のパチモンに舐められやがって。」
 天地を返した星の海を踏み躙り、大仰に殴り込んできた招かざる客にブルカの塊が一斉に振り返ると、其の中の一切れが有りもし無い鼻先で笑い飛ばした。
 「フン、何しに戻ってきた。チビゴリラ。」
 アーカイヴから引っ張り出してきただけで血の気の無い売り言葉。背番号くらい振っておけば良い物を、此では何れが本物の偽物なのかすら判ら無い。鉄郎は腰の霊銃に手を掛けて、勇を鼓す気焔万丈を確かめると、日陰干しの若布わかめ達に向かって最後通牒を叩き付けた。
 「俺の豚を返せ。」
 ホルスターの拘束から解かれ、獲物を目指すくちばしから攣り上がった尾翼へと波打つダマスカスの文様。鉄郎の五指を抱き込んで離さ無ぬグリップから黒耀の惴気ずいきが逆流し、流線型の銃身が星のやじりと為って千早振る。此の舟の女王が認めた戦士の誉れだ。臆する物等、何も無い。逸る心を抑える様に悠々と腰を沈めて諸手に構えると、
 「貴様、其の銃を何うして・・・・。」
 絶句する影武者もどきを袖にして、鉄郎は定めた狙いを怒耶躾どやしつけた。
 
 
   杏花飛簾散餘春  杏花きやうか れんに飛んで 餘春よしゆんを散ず
   明月入戶尋幽人  明月 戶に入りて 幽人いうじんを尋ぬ
 
 
 エメラルダスとの腐れ縁にケリを付けに来たんじゃねえのかよ。何時迄も暢気に狸寝入り何てしてんじゃねえよ、此の豚野郎。」
 絶頂に達した信義に兇鳴する一刀彫りの霊鳥。痺れを切らした銃爪ひきがねが決壊し、雷管を姦通する撃針に、発莢はっきょうした光励起結晶の反動が、鎖骨と頸椎を突き抜ける。羲暉晃曜ぎくゐかうえう嘴裂しれつつんざく光量子のスパイラル。眼界をろうす皇弾の雄叫びに、蜘蛛の子を散らすブルカの群像。鈷藍コバルトの閃条が手術室に面した硝壁を撃ちき、メーテルの胸元で添い臥すペンダントに命中すると、またの鳳雷を振り乱し翡翠の勾玉まがたまが覚変した。暴虐のアークを全反射する凄絶な珀劇はくげき。クランケを取り巻いていた遠隔ツールは薙ぎ払われ、フォーマットする領域を照合していた換装システムが散華する誘爆の連鎖。全く手の付けられぬ燎原嵐舞りょうげんらんぶの旋光に魅入られて、鉄郎は銃を構えたまま立ち尽くし、専聖不可侵の禁陵区を冒された神の臨界に、硝子張りの隔壁が断崖にぜる怒濤の如く砕け散った。
 猛烈な熱波と煤煙が膨発し、一張羅のブルカを吹き飛ばされまいと星系図に平伏ひれふしたワゴンセールのアンドロイドが、晶破した手術室の礫を安物のラメの様に被って震えている。露出したリジット基板で燻る焦電ノイズ。覆した鼎沸ていふつの焼きごてで鼻を突く、溶けたエナメルの臭素。垂れ込める、い辛っぽい靄の中で終熄しゅうそくしていく宝玉の乱心。鉄郎の膝と肩が砕けて銃の構えが氷解し、過ぎ去った暴威の爆心で、初めて命を吹き込まれたかの様に瓦礫のヴィーナスが眼を覚ました。
 片肘を突き、支度解甚しどけなく身を起こして、手術台から糖蜜の様に滑り降りる情絶な妖肢。野次馬の好奇を肥やしに、恥じらう事を知らぬ奔放な旺裸おうらが、 病に伏す女王に代わって、今、息を吹き返した。襟足から鎖骨へと滴る悪魔をもたらし込む背徳の官能。しとやかな乳房の頂で白浜の桜貝の様に微睡む小粒な乳首。人を跪かせては足蹴にする蠱惑こわくの痩脚に、小脇を伝う曲水の蜂腰が絡み合い、旬果桃質の愛尻まなじりともした仙骨のえくぼが不敵な微笑みを湛えて、切れ上がった幽谷に秘めやかな茂みがそよいでいる。目覚めて終った禁断の裸賊。其の凄貌せいぼう譫言うわごとの様に沸々と呟く三十一文字みそひともじ
 
 
    月もなく花も見ざりし冬の夜の
        心にしみて恋しきやなぞ
 
 
 んでいる。己れのかたきく者を。いざ、黄泉復よみがえれ、と喚んでいる。時空を超えてあざなう二人の女王。頬を掠めるアプリコットの芳香にいざなわれ、鉄郎は姿無き言の葉に唇を奪われた。
 
 
    冴えし夜の氷は袖にまだ解けで
       冬の夜ながらをこそは泣け
 
 
 遠離とほざかる意識の中で我知らずこたえた忽然の相聞そうもん。其の馥郁ふくいくとした甘美に痺れる鉄郎の蓬髪から零れた白い花瓣はなびらが、独片ひとひら舞って肩に止まった。崩壊した隔壁を跨ぎ、魂の片割れを探し求めて、歩を踏み出す赤裸々な生き霊。立ち籠めた焦煙に影露かげろう腰の据わった星眸が鉄郎を捉えて放さ無い。息を呑む小兵の前に生まれた儘の姿で立ちはだかり、コーデュロイの襟に寄り添う独片を人差し指で掬い取って唇に重ね、繊美な睫を伏し物思いに耽るメーテル。其の頬を一瞬掠めた微笑みが、撫で下ろした胸を掻き毟って豹変し、女王の屈辱を噛み締めて、黒エナメルのピンヒールが砕けた硝子を踏みしだく。御色直しは無しだ。金絲雀カナリア色の垂髪を掻き上げ、あでやかな襟足から取り出したアルマイトのスティックが煌めくと、迸る雷刃の切っ先が星系図に張り付いたブルカの一人を指名した。
 「剣をれ。油虫は御前だ。忘れたのなら今から思い出させてやる。」
 俎上そじょうに堕していた時とは眼の色が違う。蛇は蛙を眼で殺す。然う云えば此奴の喧嘩は一肌脱いでから。76のAカップは伊達じゃ無い。眺めが良いのは結構だが、斯う為ると小兵の出番は御預けだ。女王の名を借りた切れっ端を焼き尽くす、氷点下に決晶した眼差し。臣下のアンドロイドが難を逃れる様に星系図の縁に後退り、整った舞台にメーテルが皇然と君臨する。女王は裸だった。ようやく此の女の本領を拝む時が来たと許りに、固唾を呑む鉄郎。メーテルは顎を引き、左手を軽く結ぶと、おもむろに右のかいなと剣先を正面に手向けて静止した。序の舞い。否、そんな真逆まさか。小兵は声無き声を呑み込んだ。併し、水平に差し伸べた真一文字のごころで萌え盛る榊が。旭を浴びて盛り土の頂で漲る、言の葉のさきはふ誉れに浴した母の姿が。姿無き物を一点に見据える研ぎ澄まされた面差しがフラッシュバックする。天照らす玉緒たまを鈴生すずなり。吐胸とむねの高鳴りに踏み鳴らす大地。メーテルの膝が垂直に吊り上り、宙に遊離した黒妙くろたへのピンヒールが静止すると、
 
 
    振起鳳髮    鳳髮ほうはつを振り起て
    急握劒柄    劔柄たかひ急握とりしはりて
    蹈船庭而陷股  船庭ふなぞこみて、ももふみぬ
 
 
 其の一槌に艦内が激甚した。
  「何の故にか、おごり、かたり、おとしめる。」
 ただなじりて問ひたまうメーテルの頬を照らす、船外モニターに映し出されたクイーン・エメラルダス號の一斉砲撃。999の車列を掠め、全天、全方位を爆撃する天照アマテラスの絶唱。荒唐無稽な誤作動に色めき管制端末に獅噛憑しがみついて精査する配下のブルカ達。
 「エメラルダスを名乗るなら剣を操り、気高く咲き、美しく散れ。」
 紅蓮の怒号を撃ち貫き、再び振り下ろされたピンヒールの足拍子に艦底が傾ぎ、天地をかえした星系図の綺羅星がはじけて、艦砲射撃が暴発する。モニターから降り注ぐ、岩屋戸いはやとの闇に秘そめていた光圧に押し潰され、地震ないふる艦内。大日女おおひめいかひびき合うクイーン・エメラルダス號。女王は女王を知り、を信じてを信ぜず。胸乳むなぢを掛き出でし勾玉。ほとりき鳳髪。エメラルダスと合わせ鏡の皇傑が海賊船の汚名を炎浄する。
 「何うして斯う、一々遣る事が派手なのかねえ。人の舟を何だと思ってやがる。」
 鉄郎は活断層に呑まれた様な震駭に片膝を突いて堪え乍ら、老木の御影みかげに隠れし女王にり変わって一向ひたぶる、制御不能な鳳撃の畏怖と魅惑に浸っている己に喝を入れた。悔しいが此のストリップの極道こそがエメラルダスの宿敵に相応しい。抗う術の無い羨望と戦慄の眼福。既に雌雄は決した。機械は機械の持ち場に戻れば済む事だ。然し、虎にる者は勢い下りるを不得えず。浜辺に打ち上げられた褐藻類かっそうるいの様に萎びたブルカは、神にれた墓荒らしの様に雄叫びを上げると、光励起サーベルの絶尖を突き立てて飛び掛かった。
 立ち止まったら水底みなそこに呑まれる天津浪あまつなみを背負い、身を投げ出して剛腕を揮う、膂力りりょくに任せた馬車馬の突撃。相手の呼吸を読む事も無ければ、間合いを計る事も、構えも緩急も何も無い、一方的に発情し続ける暴かれた紛い物の狂乱が、己の非をこじらせて曝け出す。緒戦で見せた闇雲に精密な挙動と動体視力を超えた鈷藍コバルトの閃光を、判で押した様に再生する箱買いのアンドロイド。其のよこしまな兇刃がメーテルの喉頭を捉えた瞬間、鳳髪の残像を切っ先が突き抜け、ブルカの裳裾もすそが悲鳴を上げた。膝下を斬り裂かれ露わになった、人工皮膜でコーティングされてい無い剥き身の剛筋義肢。濫造された模造品の悲哀を、咄嗟とっさに片手で隠そうとする無駄な羞恥反射と、其の背後で炯炯けいけいと粗悪な擬人化を視姦するメーテルの実像。鉄郎の頬に張り付いて硬直した苦笑い諸共、時計の針が動か無い。波乱とは浅瀬に立つ物で、ふかい河はしずかに流れ、更に、ひろい外洋へとひらかれていく。川面の落ち葉に選ぶ道など有る訳が無い。其れでも、肩口で氷結している絶対零度の気配に、切りっ放しのポンチョが振り向きざまの盲刃もうじんで仕切り直すと、後はもう恥を塗り重ねるだけの消化試合に堕していく。
 ち込まれるのを優雅に待ち受け、幻覚の様に明滅するメーテルと、空を斬っては背後を取られ、止めを刺されずに切り刻まれては、星系図の銀河を曳き廻されるブルカの落人おちゅうど。悠然と翻っていたドレープは破れ被れの引き攣けを起こして見る影も無く、裸のプリマに花を持たせる引き立て役すら適わ無い。同じ疑似餌に何度も喰らい付く愚貪な外来種を嘲笑う、一太刀毎に弾ける乳房。高貴な毛並みを惜しげも無く振り撒く股神またがみ女鰭めびれ。唯一纏った文明の残滓ざんし、ピンヒールが硝子の星屑を蹴散らして鳳髪の金鱗と競い合い、メーテルは天景の独り舞台に酔い痴れている。つばを競り合う事すら許さ無い、剣劇にも組太刀くみだちにも為らぬ彼我の差に、襤褸ぼろを引っ掛けただけの落ち武者が苦し紛れに吠え立てた。
 「貴様、さっきは何故手加減をした。」
 「手加減とは手合わせの相手にする物。壊れた玩具なぞ其のらちにも無い。
 
 
     神代の昔の劍にならへども
       およばぬものはこころなりけり
 
 
 エメラルダスと差し向かうと為れば、こんな物では済ま無いわ。青海波せいがいはのパートナーも儘ならぬ8bitのアルゴリズムに、女王の留守が務まる物か。」
 汗を掻く事を知らぬ白け切った形相で成り済ましの鬼哭をなす、星辰一刀、飛燕を描く弔刃ちょうじん。踊る事無く、舞い、仕切る静的な動。流転する沈着不急の所作が粛粛と執行する私刑に、胸元まで斬り裂かれたまやかしの黒幕は、宙を舞う己の端布をメーテルと見誤って飛び退いた拍子に上体が泳ぎ、砕けた硝子に脚を取られて倒れ込んだ。
 「起て。技の巧拙も、生身も機械も関係無い。エメラルダスに成りたければ及ばぬ心を呼び覚ませ。
 
 
    うつ人もうたるる我ももろともに
       ただひとときの夢のたはぶれ
 
 
 勝ち負けなぞ僅かな差異ですら無い。此の舟を護りたければ、起て。起って其の務めを果たせ。」
 メーテルの詞は優しかった。独善、万難を破り、剣を揮えば、神在るが如し鳳髪の鬼女が、教え諭す様に打ち破れたブルカをみつめている。其処でようやく、鉄郎もメーテルが仕留めようとし無い深意に突き当たった。喚んでいる。鏡越しに見守っているであろうエメラルダスを喚んでいる。メーテルの熱い敬慕に鉄郎の心が傾いだ、将に其の時、星系図の銀河に紛れた硝子の破片に手を突いていた機械仕掛けの御薦おこもが、握り込んだ其の礫でメーテルを面罵し、形振り構わず斬り掛かった。声を上げる間もない一瞬の出来事。処が、メーテルは眼を見開いたまま其の姑息な芥子粒から顔を背けようともせず、渾身の足拍子を振り下ろすと、エメラルダス號の憤怒の砲撃にバランスを崩した、海賊版の海賊が振り上げる一太刀を肩の付け根から斬り飛ばした。全天を照射する光弾と反動で激昂する艦内と、光励起サーベルを握りしめたまま床を跳ねる剛筋義肢。絶頂に達した舞台とは対照的に魔刃を納め悄然と佇むメーテルに向かって、失った腕を振り乱し、断絶した入出力にはたと気付いて動顛した模造品は、壁に張り付いている配下のブルカを怒鳴り付けた。
 「何を為ている御前達。斬れ、此の女を斬れ。何を為ている早くしろ。此の舟の主は此の私だ。彼の死に損ないは、もう長く無い。其れを承知で生まれ故郷の火星に此の舟ごと骨を埋めるつもりだ。電劾重合体を討伐するなぞ出来る訳が無い。そんな酔狂に付き合っていられるか。死にたくなければ、私の言う事を聞け。さあ、斬れ、斬れ、此の女を斬り捨てろ。」
 残された隻腕でメーテルを指し、捲し立てるプライマリ設定の同機種に、ブルカの裾から雷刃を抜き出し星系図の縁に足を掛けるセカンダリの黒装束達。其のにじり寄る沈黙の陣形に、気が付くと鉄郎はメーテルを突き飛ばして立ちはだかっていた。もう此は雌猫のじゃれ合いでは済まされ無い。頸動脈を逆流する激情に網膜がレッドアウトし、横隔膜の痙攣が喉笛を突き上げる。
 「刺し違えるつもりで云えよ、此の豚泥棒。二束三文の錻力ブリキの分際で、生身の躰より腐り切ってるってのは何う言う了見だ。エメラルダスの名をけがすんじゃえ。」
 「何をしている、早くこの狼藉者を始末しろ。」
 「神輿から落ちて梯子を呼ぶなんざ、良い御身分だな。」
 鉄郎は斬り裂かれたブルカの上から壊れた案山子かかしの喉元を鷲掴むと、光励起サーベルを構える臣下の人垣を睨み付けた。
 「何だ、テメエ等も遣るってのか、上等だ良うく覚えとけ。たとへ御天道様が余所見をしてようと、此の星野鉄郎様が容赦しねえ。エメラルダスの名誉は俺が護る。エメラルダスを斬るのは誰だ。テメエ等みてえに護る物のねえ連中と一緒にすんな。エメラルダスを斬るんなら、先ず此の俺をササラモラサにしてみやがれ。」
 何もかもが許せなかった。此の舟で働ける誇りも、皇潔な主君に仕える喜びも知らぬ機塊の反乱と、其れを許したエメラルダスの病魔。星空を見上げて999や宇宙海賊の冒険譚に耽り、母の前で星野鉄郎と云う従順な息子を装う自分と、地球を後にした今も猶、時に揺れ惑う此の旅の覚悟。然して、更なる獲物を求め、手の中で身悶える霊銃迄もが其の逆鱗に触れ、鉄郎は勝ち馬に乗って燥ぐ鵲を満天の星系図に叩き付けた。
 「ひよっこは引っ込んでろ。」
 硝子の星屑が砕け散り、逆立てていた黒耀の尾羽を打ち枯らして喪神する戦士の銃。鉄郎は腹を曝して横臥した相棒に見向きもせず、丸腰に為っても魂の慟哭どうこくは治まら無い。
 「エメラルダスを斬るのは何処の何奴だ。貴様等の玩具でエメラルダスの誇りに傷を付けられるのなら遣ってみろ。さあ、俺が試し斬りに為ってやる。エメラルダスを斬るなら、先ず此の俺の躰で其の鈍らな剣の錆を落としてからにしやがれ。良いか、クイーン・エメラルダス號は天河無双の海賊船だ。狐鼠泥こそどろが潜り込んで、有漏滎うろちょろして良い舟じゃねえ。
 
 
     國家昏亂  國家昏亂こんらんして
     有忠臣   忠臣有り
     君辱臣死  君 はずかしめらるれば臣死す
 
 
 さあ、斬れ。エメラルダスの名を衊される位なら、なますにされた方が増しだ。」
 ことばが心を追い越して、人柱の恍惚が脊椎を駆け昇る。白想に散った鉄郎の大見得。其の僅かに緩んだ握力を振り解き、
 「何を為ている。早く此のチビを黙らせろ。」
 手負いの逆臣が喚き散らすと、背後を取り囲んでいたブルカの陣形が其の号令に殺到し、エメラルダスに其の身を献げた鉄郎の一心一点に、結襲した兇刃が突進する。一束に為った鈷藍の刀身を、一歩も引かぬ血意を楯に受けて起つ小兵の逆情。衝き貫ける蒼烈な迅雷と極限に迫った九死の雄叫び。けんを争う破竹の脅亂きょうらん。其の欺瞞と虚勢の斬っ先を、信義にあらざる道を断つ、無刀の光貴が包み込む。さかしらな漢意からごころは言の葉を覆すに不能あたわず。鉄郎の胸に溢れ、背中を押す、字義や字面で縛られる前の、何を口籠もっているのかすら聞き取れぬ呪能。肉体と感情を取り戻した八百万やおよろずことばがえり、命の在るが儘を謳歌する。鉄郎は過去や未来に逃げも隠れもせず、先鼻の虎口を忘れて、今、此の時を完全燃焼していた。炸裂する瞬間の連続は、今此の時が燃え尽きぬ限り次の瞬間は存在し得ず、渾然一体の白熱に新しい天体が励起する。
 
 
 
 蹴汰魂けたたましいアークの照撃が途絶え、真っ新に飛灰ひはいした無意識の眩暈めまいが薄れていく。愕然と頭上を仰ぐ無傷の鉄郎。意味が追い付かぬ状況の中で、宙に浮いた終止符が、脱力した剛筋義肢と共に揺れている。後頭部を串刺しにして、配下のブルカが掲げるサーベルの頂に高高と吊し上げられた偽りの女王。断末魔で死に際を飾る事すら許さぬ息を呑む絶鳴は、無理なキャスティングを押し付けられた無言の抗議か、其れとも未だ演戯を続けているのか。妄執の糸にもつれた、斬られ役のマリオネットが誇示する最期の美学。然して、一点の曇りも無い御鏡みかがみの如く張り詰めた静寂に、女王が其のごころを翳し、彼の威徳に満ちた声朗が、宙響発振モニターを介して艦内を征した。
 「999の乘客の諸君。私はスペースノイド解放戰線總裁、クイーン・エメラルダス。」
 偽りの女王を放棄してかしこむ臣下の低頭と、床に叩き付けられ、逆関節で朽ち果てた機塊に、玉音の慈雨が降り注ぐ。
 「此の度、諸君のかうむつた、クイーン・エメラルダス號乘員として有閒敷あるまじき、部下の不心得な振る舞ひ。當船たうせんおさちやうとして目過した緩怠、慚愧の極みで在る。總ては私の不德に因をす醜狀。萬謝をくして及ぶところでは無い。いては、運行再開に向けた手筈を整へ、萬難を排した。く云ふ當船も星系流轉せいけいるてんつねとする壹代いちだいの過客。海路と鐵路、道こそたがへど、賴み少なき旅懷りよくわいは相通じ、背負ふ旅裝に輕重けいぢゆうは無い。いざ、高らかに壯途の汽笛。仟夜せんやける光蔭におくれを取るなかれ。名を馳せよ無限軌道が誇る遼遼れうれうたる天望。諸君の壹路平安いちろへいあんいのる。」
 宙響発振の出力が途絶え、澄み渡る鶴声の余韻。神の物語へと飛び立った不死鳥の霏霺たなびく炎尾に鉄郎は胸を焦がし、其の幻影を見送る事しか出来無い。言葉を返す事すら恐れ多き伝説の女海賊。其れは声の去った虚空を仰ぎ、立ち尽くしているメーテルとても同じだった。鬼女の仮面から覗く、瞳の奥が揺れている。生温い友情に流されている輩には理解不能の、囚人の鎖の様な絆で絶望的な孤高と孤高をはげしく縛り上げる、黒妙くろたへの鳳凰と天庭の紅孔雀。両雄相並ぶ二曲一隻の天屏風に小兵の付け入る余地は無い。ブルカの下僕がうやうやしく抱えてきたフォックスコートに、促される儘、従順に袖を通し、鉄郎を見向きもせず、此の擦れ違いの一時を噛み締める様に退室するメーテル。其の痛ましさから眼を伏せると、別の臣下が鉄郎の脇にひざまづき、戦士の銃を頭上にささげていた。女王の偉勲をなぞらえる霊銃に無言でかしづく手が震え、鉄郎がホルスターに納めても、闇を被った低頭を控えた儘、気配を消している。何処に隠れていたのか、戦術情況演算のバイナリーと幾何ゴーストの蛍火が俄に立ち昇り、統合管制機構のアクセスランプとシーク音が息を吹き返す。鉄郎は燐舞するエレメントと星系図をうねる等航線をまたぎ、鋼壁に敷き詰められた多針メーターの複眼に見送られて艦内からデッキに出ると、雄々しき帆柱が突き上げる火星の酸化鉄で染め上げられた舶鯨の胸底むなそこが頭上から伸し掛かってくる。太母の血潮の如きからももあか天鵞絨ビロードのキルティングで着飾った狭丹塗さにぬりの飛行船と、ゴンドラ式のキャビンを踏み締めるメーテルの隻影。
 
 
     こととなくしのびてわたる天の橋
          爭ひけりな星の影のみ
 
 
 例え此の宇宙から追放されようと、たった一人でも認め合える存在が居るのなら、他に何を求めると言うのか。れ程多くの取り巻きに囲まれていようと、其の虚しさに気が付けぬ者は、己自身と出会う事すら敵わ無い。血の繋がりを超えて、人と人とがまつらう不滅の術なぞ無い物と高を括り、手に入らぬ物は要らぬと甘えて、己の殻を塗り固めていた。己独りが孤独なのだと、誰もが孤独に喘いでいるのを無視し続けていたのは何処の何奴だ。自分が孤独なら誰もが孤独だ。心を許した者に幻滅してからが本物の出会い。御互いの孤独を分かち合う事で人は初めて理解し合える。其れを二人の女王は知っていた。畢生ひっせいの孤高に身をやつす者同士にのみ許されたライバルと云う資格。絶望の度に深まる熱き宿盟。其れこそが果てし無き孤独の彼方に埋もれて待っている宇宙のたから。数百、数千光年と離ればなれに鏤められた無数のひとつ星を目指して、鉄郎の心を巡る旅が、今又、再起動する。
 
 
 
 「御帰りなさいませ、鉄郎様。良くぞ御無事で。」
 車掌の心を尽くした出迎えを、鉄郎は何時もの様に軽口を叩いて茶化す気に為れ無かった。女王との謁見を語る言葉が見当たらず、下手にひけらかしては総てが嘘に為り、夢から醒めて終いそうで、今は唯、微笑みを返して席に戻る事しか出来無い。扉を開けて見渡す、通路を挟んで整然と居並ぶ空席のボックスシート。顔を伏し、眼を合わせる事の無かった無人の葬列が、不図ふと、振り返った様な気がして、鉄郎は心を閉ざし見えていなかった乗客の存在に、気骨無く一礼した。己独りだと粋がっていた孤独の旅人。先客は不語かたらず。唯、其の背を丸めて、草臥くたびれた外套の襟に頬を埋める。せ返る様な姿無き旅情の鈴生すずなり。何事も無かったかの様に向かい合う縹色はなだいろのモケットに腰を下ろすと、何時もより少し座り心地が良かった。
 相席の麗人は何処の道草を辿っているのか、嬋才せんさいな妖肢を記憶したシートの窪みは滑らかに寛いでいる。地球を発ってから此処迄、御互いに未だ真面まともな口を利いた事が無い。一体何時迄、こんな意気地いきぢを続けるのか。エメラルダスも一目置く絶界の苦悩を分かち合える時なんて来るのか。其れとも、生温い馴れ合いに流されずいがみ合う無意識の底で、星と星が巡り会う心の旅は既に始まっているのか。自由なんて云う口先だけの物は意味を成さぬ、窓外の辰宿列張。小兵の肩をむ、運命のくびきに科せられた時の罪荷つみにが、母の強さと厳しさも孤独の裏返しだったのだと独りち、強化硝子に映るもう一人の鉄郎が虚ろな瞳で問い掛ける。
 
 
     誰知明鏡裏  誰が知らん明鏡めいきやううち
     形影自相憐  形影けいえい 自ら相憐あひあはれまんとは
 
 
 青春と呼べる物なぞ何も無かつた。振り返つた時に彼が然うだつたのだと気付くだけ。女王の言葉が弾劾する鉄郎の有り余る若さ。クイーン・エメラルダス號と云う鏡の中に、少年は孤立した自己を信じ続けた独りの少女を覗き見た。生まれ育った星を飛び発ち追い求めた限り無い自由。何の束縛も無い此処では無い何処かを目指し、嗚呼、玉杯に花受けて、羽搏はばたく夢航路。天河を朱に染める勝利と凱旋、入り乱れる悪名と名声、眼下に望む支配と尊崇。然して我に返ると、己の出自も現在の居場所も心の支えも破壊し尽くし、自分以外、何も存在し得無い闇に閉じ籠もり震えていた裸の女王。完璧な自由と云う名の完璧な孤独。其処で出会った、鳳髪の、己れにかざるにあらざる者。火星と地球、生まれ育った星は違えど、合わせ鏡の様に巡り会った彼の日の少女と無冠の少年。
 鉄郎はなまくらな己の眼差しを睨み返し、鏡映の彼方にひろがる星屑のうみへと衝き抜ける。赭き火の星で生まれた火の鳥が、其の母なる星で燃え尽きるなぞ有り得無い。女王の約束に証文は無用。アンドロメダを折り返し、俺はエメラルダスが待つ火の星に辿り着けるのか。鉄郎の吐胸とむねを貫く羅針の煽端。胆を決した其の眦をよぎる、怯懦に屈した亡匿の日々。其の虫酸むしずき散らす様にシリンダードレインがしわぶき、臨界に達したボイラーを抱えて黒鉄の鯨背が震騰しんとうする。除煙板に首をすくめていた鋼顔の哲人がかぶりの突管をもたげ、タイムテーブルを補正する機関室の合成義脳。前照灯のカクテル光線に、名にし負う「C62 48」のゴシックが煌めき、目視不能の因力に導かれ転轍てんてつる無限軌道。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。
 時は來たりて起動する貳佰萬コスモ馬力。メインロッドをからげて再び銀瀾の坩堝へ身を投じる追憶の拾壹輛編成。盟友を送り出す海賊旗が無氣圧無重力の宙空にはためき、髑髏をかたどる死の紋章が鉄郞には壹瞬、微笑んで見えた。ブラストの雄叫びに疾黑の爆煙霏霺たなび凱風晦星がいふうくわいせい車窗しやさうを限つた船嘴せんしの女神像が見る閒に遠離り、壹度ひとたび宙原に紛れて終えば、滂外ほうがいな巨幹を擁する狹丹塗さにぬりの舶鯨も夜風の芥子粒。寄る邊無き孤軍の暗鬪が凝らした瞳の彼方に潰えた。滿目の天景に遮られし玉響たまゆらの邂逅。れど、
 
 
     海内存知己  海内かいだい 知己 存す
     天蓋若比鄰  天蓋 比鄰ひりんごと
 
 
 少年よ旅を旅する事勿ことなかれ。モケットの座右に控へし女王の戒め。名も無き憧れは憧れを超え、あらたにした本懷、氣宇壯大にして天頂を凌ぐ。いざ、士志滿帆ししまんぱんたる鯨海彗航げいかいすいかうの長征。天の曆數れきすうなんじに有り。凶風を避ける不可べからず。無難はかへつて似たり、べて多難なるに。いざ、まどへ壹介の孤兵こひやう辿辿てんてんと。神の召す途無みちなみちを、つたふは鉄郞、不惜身命の見聞錄。果たして此の先、相成るや如何に。其れは復た次囘の講釋で。


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