SSブログ

2018-01-01-5

 「じゃあ、俺達は帰るから。」
 滋味じみまぶした嗄れた声がない譫妄せんもう希釈きしゃくし、汚泥の様な原液の中から俺を引き擦り出した。見当識が混線して、自分と世界を統合出来ない。短絡した座標軸と時系列を揉みほぐしながら掻き集める五感。ズッシリと全身を覆う汗が気化して、膠着した躰の節々をジメジメと解晶していく。
 甦った光の片隅で、ゴール裏に挨拶を終えた選手達がクールダウンをしている。電光掲示板に幽閉された1:1のスコア。ゴール裏はキビキビと横断幕の片付けを、控えの選手達はピッチサイドのボトルを集めている。ホームチームの今後のスケジュールをアナウンスする事務的な場内放送。夢路を漂うチームフラッグと、こうべを垂れるセンターポール。真っ更に放心したゴールマウスの白磁。兵達つわものたちが走り去った穢れ無き西が丘の夏芝。
 塩爺が患いのある腰を労りながら立ち上がると、陽に焼けた倒木の様な腕を俺の前にそっと伸ばした。立ち上がって広く厚い掌を握り締めると、塩爺は力強く握り返し、ゴツゴツと節くれた野太い指の、皹割れ逆剥さかむけた肌がチクチクと痛い。
 「来週、頑張ってこいよ。」
 俺は疚しい胸の内を鷲摑みにされ、ズッシリと低く唸る塩爺の声に肩が竦むのを必死で堪えた。
 「お前の頑張れは、他の奴が言う頑張れとは違うだろ。」
 と言っていた張本人の「頑張れ。」が一番身に堪える。廻りのゴミを拾い身支度を終えたママが俺の背中にそっと手を添え、鼻先にズラしたグラサンから覗く上目遣いが、ココマークを舐める様に煌めいた。
 「気を付けて行ってらっしゃいね。お土産とか良いのよ。特に高い物とか。無理なんてしないで。気を遣わなくて良いから。特に高い物とかね。そうでなくても宇和島って言うとアレじゃない。アコヤガイに核を植え付けて養殖する、何って言ったかしら、人魚の涙とか何とか、炭酸カルシウムが主成分の。ええっと、ホラ。」
 「モンローの愛した誕生石だろ。」
 「そう、それそれ、ディマジオが銀座のミキモトでプレゼントしたのよ。襟足から胸元に掛けて0.5ミリずつ大きくなっていくグラデーションの。何って言ったかしら。クレオパトラがその美貌を保つ為にお酢に溶かして飲んでた・・・・、月の雫とも呼ばれてて、万葉集でも詠われているの。もう、此処まで出てるのに。どうして思い出せないの。日本で過ごしたハネムーン、二人の幸せだった日々は思い出せるのに。嗚呼、ディマジオ、優しかったディマジオ。全部私が悪いの。私の我が儘が。」
 感極まって星空を仰ぐママ。完全にモンローと自分の区別が付かなくなってる。俺はグラサンを直してやりながら、奥方の御乱心をで、たしなめる。
 「この前、代表がアメリカに遠征した時も、オードリーのティファニーがニューヨークでどうのこうのとか騒いでたんじゃねえのかよ。まあ、雀の涙なら適当に見繕ってやっから、三つ指付いて待ってろよ。」
 固唾を呑んでいたスタンドの気圧が、甘い吐息の様にほどけていく。痛み分けのドローと言う軽く痼りのある余韻が、澄み渡る夜気に頬を寄せ、一抹の寂しさに艶を添える。ナイトゲームの終演。一夜限りの小宇宙が誘うエントロピーの清流。席を立ち一時の別れを惜しむ人々の足取りと眼差しが、途切れ途切れの輪郭線で絡み合う。
 式典を終えた王族の様に、悠々とコンコースへの階段を上る塩澤夫妻と入れ違いに、エレーラのゴール裏を早々に引き上げてきた岩井さんが、湶さんとサッコちゃんを引き連れて現れた。
 「どうするの?この後行くの?」
 口元で手酌を呷る真似をする岩井さんに、
 「レイズの方でしょ?まあ、河瀬君とか今日は叩けなかった分、呑まないと気が済まないだろうから、沈没しない程度には付き合おうかなあとは思ってますけど、湶さんどうするの。」
 「今日はどうしようかなあ・・・・・と思って。出来れば真っ直ぐ帰りたいけど・・・・」
 「へっ、真っ直ぐって、出待ちしないの?夏木に声掛けないで帰っちゃうの?」
 「うん、何て声掛けて良いか判らないし。」
 「そんなモン、ベンチで水ばッか飲んでないで、早く私を飲み干してとか言えば良いじゃん。」
 心の声を代弁され痛し痒しの湶さんから、しっとりと睨まれて心がほぐれた。こんな特効薬他にはない。
 「岩井さんどうするんですか?」
 「俺は良いよ、だって彼奴らと呑んでも金払わないじゃん。金なんて持ってる奴が払えば良い位にしか考えてねえからさあ。」
 岩井さんのボヤキが直球過ぎて、心がファンブルしてしまう。
 「じゃあ、岩井さん、湶さんとサッコちゃん送って上げて下さいよ。レイズの連中には俺が上手く言っておきますから。湶さん気分が悪くなったとか、サッコちゃん門限があるから、ソッコーで送って帰らなきゃ行けないとか。」
 「えっ、良いの?本当に?」
 湶さんの愁眉に色を添えていた邪気が弾けると、瞳孔が垂直にスリットし、牝豹の閃きがコンコースの手摺りを駆け抜けた。
 「だって、オマエ等と呑んでも疲れるだけだから先に帰りますとか、言えないッしょ。無論、差し出がましい口を挟まれる筋合ひ等い、と被仰付候者々おほせつけられさうらはば、其れ迄の事。所詮、足輕あしがる生兵法なまびやうはうすべては姬の御氣にままに。」
 夜烏よがらす下賎げせんな口三味線。叶わぬ恋の幕引きに、サポーターと人妻、二つの仮面の狭間から覗くしとやかな悲哀を擽られ、湶さんは妖しく微笑んだ。
 「うふふ、きにはからへ。」
 「かしこまつてさうらう。」
 主無き個別シートの点描がスタンドをまばらに塗り潰していく。真夏の夜の夢から剥離した観客の引き潮が、穏やかに合流するコンコース。天高く聳え、星と語らう照明塔の陰で夜が深化し、開いた本をそっと閉じる様に、西が丘が天然芝を囲む鉄筋コンクリートの塊へと、心地良く還元していく。放送ブース脇の貴賓席と関係者席を見上げると、代表監督と麻木の姿はもう無く、白茶けた雛壇に清楚で伏し眼がちな面影がひらめいて、眼路を惹き留める。
 「奈央子ちゃんなら下に行って、用具の後片付けとかしてるんじゃないの。手伝って上げたら。男の子でしょ。」
 耳の裏を掠めるブリザード。湶さんに後ろから撃たれて弾けた心の欠片が、巻き戻しの出来ない今この刹那に突き刺さり、束の間の永遠に火を点す。
 「姫、御口おくちが過ぎますぞ。」
 「奈央子ちゃんの事、気にならないの?」
 「左様。」
 「でも、さっき、ずっと見てたじゃない。コンコースで囲まれてる時に。助けて上げれば良いのに。」
 「へっ、あっしの、事ですかい?」
 「そうよ。」
 「ケッ、コソコソ嗅ぎ廻りやがって、テメエ、ただの鼠じゃねえな。」
 「そんな口叩いてると、余所の鼠に奈央子ちゃん囓られちゃうわよ。」
 「試合に出れねえから、あんな処で変なのに摑まんだよ。まあ、俺が監督だったらあんな奴、足が三本生えてても使わねえけどな。湶さんの方こそ、御贔屓の赤い狐が余所の女狐めぎつねを摘み食いしてないか、チームバスの前で見張ってなくて良いのかよ。」
 「御構い無く。尻尾の数だけ気がある狐なら、那須のいわおに封じてやるわ。」
 掻き上げた湶さんの黒髪が夜風に流離さすらい、秀峰渓涙しゅうほうけいるいを奏でる。マリッジリングを外した紅差しから零れるたまの調べ。主観と文学の境界を解体して、世紀末を華麗に切り取ったプルーストなら、この冷淡な小夜曲さよきょく瑠璃色るりいろに採譜してみせるのだろうが、狐狩りのお供すら敵わぬ紐付きの番犬風情に、そんな小癪なスキルなぞ望むべくもない。エレーラのゴール裏を抜け、他愛もない軽口を叩き合いながらホームゲートの前まで来ると、湶さんは軽く小首を逸らし、流し眼でうっすらなじる様に囁いた。
 「それじゃ後の事は宜しく。御達者で。」
 狡智に長けた俊敏な眦が、踏み絵を顎で指す様に、俺の肩口から鎖骨を斜行する。折り重なる赤と緑の人の波に紛れていくマキシワンピの揺らめき。サッコちゃんは日野さんの本を頭上に掲げて大袈裟に両手を振り、岩井さんは相変わらずコロコロとして憎めない。後何回、スタジアムで湶さんに「さよなら。」を言う事が出来るのだろう。ホームゲートを跨いで粗挽きにされた観衆が群衆へ、群衆から衆人へと粒状化し、本蓮沼の駅や赤羽行きのバス停で濾過され、道なりに沿って続くそれぞれの日常へ拡散し、浸透していく。
 湶さんが行ってしまうと、後はもう何をしたら良いのか判らない。試合後の見送りは何時も、さなぎの殻に置き去りにされた様な錯覚に陥る。これと言って帰りたい場所もなく、後ろから追い越して遠離とおざかる、目的のある足取りを嫉む事すら出来ない。躰を張って応援した訳でもないのに、重力に負けて肩から腰へと撓垂しなだれる、だらしない疲労感。サッカーやクラブと言う偶像をあがめ立てるのも、サポーターと言う一本気な益荒男ますらおを演じるのも、辛い歳になってきたと言う事か。今日も塩爺とママの優しさに応えるので必死だった。俺も女学館も二人が期待している様な代物しろものとは程遠い。ダイヤを模したガラスの球を幾ら磨いても、いたづらに擦り傷が増えるだけ。こんな事、長くは続かない。ガキの頃、作っては壊しを繰り返していたプラモデルの様に、週末のスタジアムライフも復た、何時しかこの手に掛け、潰えてしまうのだ。飽きた玩具を甚振いたぶ佚楽しつらくに疼く食指。自ら乞い求め手塩に掛けた宝物を、同じ手の中で切り刻む、糖蜜の様な眼差し。馬鹿の一つ覚えで繰り返す自咬自得じごうじとく。そりゃあ、手元に何も残らない訳だ。
 毒を抜かれた水母くらげの様に活きる術もなく、後ろから押し流されてホーム側ゲートを潜り抜けると、選手の出待ちをする人垣で関係者専用の駐車スペースは既に賑わっていた。スタジアムのエントランス前では背広組のスタッフ達が、開門前の騒ぎ等まるで無かったかのごとく談笑している。連中にとってはもう済んだ事なのだろう。事前告知の改竄をホームページで謝罪なんてする訳がない。こんなぬるい連中でも、女学館の壊滅的な運営より全然増しなんだから、この宇宙は巫山戯ふざけている。お天道様が賽の目を世のことわりとしてるのなら、いっそ牛が馬を産む様に、女学館をF1のチームにでもして欲しい。どうせ何を遣っても無駄なんだから、鈴鹿のシケインをドリブルして、立体交差にヘディングしていた方が痛快でスッキリするだろう。
 スタンドの照明塔が背を向ける駐車場の薄暗がりを、鮮烈な深紅のラッピングが席巻している。10mクラスの巨漢を我が物顔で横付けにしたレイズのチームバス。大容量のトランクルームを全開にして、荷を積む控えの選手達をはべらせている。ライトバンとワゴン車が一台ずつ待機しているだけのエレーラとは全く比較にならない。何時もの見慣れた光景だが、このJのトップチームと遜色のない豪奢な厚遇が、今は不振に喘ぐ選手達の肩身を却って狭くしていた。麻木もその中に混じって雑務に追われている筈だが、
 「手伝って上げたら、男の子でしょ。」
 爽玲そうれいにリフレインする女狐の皮肉に眼がくらむ。こんな処でブラブラしてるのを、見たくもないし、見られたくもない。
 俺は足を止めずに、テニスコート脇の自販機へ飲み物を買いに向かった。安い酎ハイを呷って走り回ったツケが喉に来ている。レイズのゴール裏が片付けを終えて出てくるまでもう暫く掛かるだろう。束の間の休息は執行猶予の証。今夜はここからが本番だ。肝細胞の不良在庫を分解処分しておかないと、呑み交わしているのか殴り合っているのか分別不能な、ノーガードの酒盛りが待っている。岩井さんが帰ったからエレーラサポで合流する物好きは居ないだろう。先ずは何時も通り赤羽の中華屋で大テーブルを囲み、飲みホでガチャガチャやった後、出口のない二次会にダイブする。一番街の中に治まって、OK横丁の辺りをウロウロしている内は良いが、一昨年、プラザホテルの向かいに出来た立呑み屋に足を伸ばしたら、本当に無傷では済まない。二十四時間営業で、杯数無制限、泥酔客も断らぬ、赤提灯を並べただけのサファリパークだ。殊に鯨海酔候げいかいすいこうを地で行く河瀬君は、サバンナのど真ん中でエンストした様なこの手の店が主戦場で、心中しんじゅう出来る道連れのリクルートに余念がなく、巻き込まれたら地平線を目指して飲み明かす事になる。
 アセトアルデヒドが垂れ込める時間の概念が崩壊したカウンターで、クラブ愛とゴール裏の総括を迫られる、負のPDCAサイクル。遠征先でどんだけ馬鹿騒ぎしたのかを競い、手前味噌なサポーター論と、呂律ろれつの回らない説教で袋叩きにする亜空間。曖昧あいまいな記憶と夢魔がゲル状に絡み合い、獅嚙憑しがみついた便座に散華する革命的敗北。想像しただけで胃液が喉で脈を打つ。復た、京浜東北線の始発に揺られて出社するのか。霞目に染み入る東雲しののめの優しさ。車窓と二日酔いの頭を駆け巡る週明けの業務。
 駄目だ。俺はもう既にあの沈没船に呑まれている。余計な事は考えず、一番街のゲートを出たら、レイズサポの裏を狙って駅の東口を突破するしかない。そうだ、今の内にコンビニでスイカをチャージしておかないと。改札の前でまごついたら終わりだ。ついでにウコンも補充しよう。神は細部に宿る。俺は前頭葉に広げたエスケープマップに、一つ一つチェックを入れていこうとした。そこへ、
 「何で頭一つ下げられないんだよ。謝る気ゼロかよ。自分が何したか判ってんのかよ。」
 腰の座ってない罵声が、明後日の方角から、ぎこちなく割り込んできた。振り返ると、スポーツ科学センターとスタジアムを仕切る植え込みの脇で、エレーラのレプリカユニがゴシックのサポーターナンバーから不穏な気配を立ち昇らせて硬直している。どう見ても別れ話のもつれとか、そんな艶っぽい類の物じゃない。物々しき仁王立ちで、腰から膝裏に提げたタオマフまでもが大仰おおぎょうに見得を切っている。
 とんだアディショナルタイムだ。ショートケーキに梅干しを載せた馬鹿の面を拝みに繰り出すと、何時もイックンとつるんでいる学生サポが一点を睨み付けている。日頃挨拶を交わす程度で名前も良くは知らないが、騒ぎを起こす様なタイプじゃない。罵声の主は他にいた。セーガクの背中に隠れて見えなかった男が、ネチネチと何事かなじっている。試合中スタッフに連行されていったカメラ小僧だ。御自慢の一眼レフをセーガクの鼻先に突き付けている。レンズの保護フィルターを縦横に走る亀裂が暗がりに閃いた。
 「どうするの、これ?プロテクターの枠も曲がってて外れないし。マジで中のレンズまで逝っちゃってんじゃないの。幾らすると思ってんだよ。オイ、何とか言えよ。何時もの偉そうな態度はどうした。」
 釈放されたばかりで気が立っているのか。日頃から現場で煙たがられている事もあり、ここぞとばかりに紅潮して捲し立てるカメラ小僧に、セーガクの方は反撃の糸口が摑めない。恐らく、控えかユースの選手の写真を不躾ぶしつけに撮っているのをセーガクが注意して、揉み合った挙げ句の果ての果て。良くある話とは言え、初期消火を舐めてかかると後で高く付く。これは未だ手に負える、勝負の出来る火事だ。開門前の騒ぎと違って、内輪で揉み消せる。こんな棒振ぼうふらつつくしか能のない雑魚の遠吠えで消えていった奴を、何人も知っている。余計な物を巻き込む前に、種火の内にケリを付けるのが鉄則だ。開門前の焼け木杭ぼっくいに飛び火でもしたら、眼も当てられない。
 「大体、俺が何したって言うの。ねえ、そんなに写真撮るのって悪いの?ねえ、ねえ、そんなに悪いの?試合終わってるし、スタジアムの中でもないし。ねえ、ねえ、俺が誰かのスカートの中でも盗み撮りしたとかって言うのかよ?だったら今日撮った写真、全部確認してみろよ。ホラ、見てみろよ。」
 徒党を組んで行動する事の多いサイン厨と違い、このカメラ小僧は単独犯で、腹が据わってると言うか、変な処に芯がある。勝つまで喧嘩を止めない奴も面倒だが、カメラ小僧の様に喧嘩慣れしてないと、土鳩が縄張りを巡って殺し合う様に、相手が負けを認めても止めようとしない。狼の痛みを知らぬ飛べない鳥に捕まって、若手はもう限界だ。手が出たら、そこから後は止まらないだろう。試合後のスタジアムの外とは言え、人の眼も有れば警備の奴等も無駄に揃ってる。俺は二人の間に進み出て、若手の鼻先に突き付けられた一眼レフを取り上げると、カメラ小僧は一瞬怯んだもののスイッチを入れ直して吼え立てた。
 「何だよお前は、返せよ。器物損壊の証拠なんだよ。見ろよそれ、此奴が遣ったんだよ。器物損壊だ器物損壊。その証拠なんだよ。返せよ。オイ。」
 スタジアムに巣くってる者同士、向こうも俺の顔を知らない訳じゃない。面倒なのが来たと思っているのだろうが、お互い後の祭りだ。カメラ小僧とは呼んでいるが、近くで見るともう良い歳だ。こんなオッさんになってまで少女写真に没頭し、血道を上げるのも因果なら、それを黙って見過ごせぬ俺も因果のとりこ。魂の営為とは懸け離れた、ゴキブリ以上、カナブン以下がいさかう、最底辺の修羅の荒野に気が遠くなる。声を荒げて感情を募らせると言うサポーターの習性が、カメラ小僧には身に付いていない。日頃からへその下から声を出していないと、出る物は出ない。感情に追い付かぬ咆哮が、開門前の警備のトラメガの様に、単語から音素へと寸断し、蒸留された沈黙の激情が、ビッグマックや雪駄の断末魔にオーバーラップする。何時もの事だ。チャッチャと行くぜ。最悪俺が全部被れば良い。それが消えていった奴等のとむらいにもなるだろう。
 俺は軽く息を吐いて躰の力を抜いた。一発でピンのゾロ目が出せなきゃハイそれまでだ。南無三なむさん。カメラ小僧の足許あしもとに一眼レフを叩き付けた。周囲の視線がアスファルトをぜる衝撃の一点に集中し、お目当ての選手を待ち焦がれる、華やいだ空気が一瞬で静まり返った。根本から折れて集積回路が剥き出しになった望遠レンズと、マグネシウム合金の塊に堕した本体を蹴散らして一歩前に踏み出すと、生き肝を抜かれて顎の根の合わぬカメラ小僧が、何言か発しようと震える横隔膜で息を吸ったその瞬間に、
 「テメエ、差し違えるつもりで言えよ。」
 奥歯で怒気を噛み殺しながら、カメラ小僧以外には聞こえぬ様、その鼻先に吐き捨てた。たったそれだけの事で、小賢こざかしく跳梁ちょうりょうしていたカメラ小僧の表情筋は垂直に落下した。赤銅しゃくどうから蒼白に反転したまだらな血色。後退あとずさった靴底で散らばった破片が更に砕け、焦点を失った瞳は明後日を彷徨い、糸の切れた性根が震える唇から零れ落ちた。
 「すっ、済みません、でした。」
 こんな奴を相手に一瞬でも痺れた自分に腹が立つ。指一つ触れてないのに、茹で過ぎたアスパラみたいにフニャフニャ折れやがって。俺は安堵の色をおくびにも出さぬ様、アスファルトを煌びやかに飾り立てるアルミニウムとガラスの星屑を、下顎でしゃくり上げた。
 「片付けろ。」
 カメラ小僧は望遠レンズと本体だった二つの残骸を摑んで駆け出すと、人垣の途切れた先に広がる闇に同化して、正体を滅した。上擦っていた胸の鼓動が緩やかに治まっていく。くるぶしに漂うカメラの砕け散った余韻と、植え込みから微かに聞こえる秋の虫の声。一応ケリは付いた。それなのに、嵐が去った後の寂寥せきりょうとは程遠い、この残尿感。
 「アザーッス。」
 脇で見守っていたセーガクが屈託のない笑顔を炸裂させ、首を前に突き出す様にして小さく頭を下げる。悪い手本に焦がれる、汚れを知らぬ若さが俺の罪の数を指を折って数え上げる。
 「あんなのに手こずってんじゃねえよ。」
 セーガクがこれ以上俺の虚行に感染しない様、俺は踵を返した。処が、一歩踏み出したその先に、エレーラのジャージにバックパックを背負ったユースの選手が、母親とおぼしき女性と並んで立っていた。まさかと思う間もなく、両手を膝の前に合わせて母親が深々と頭を下げ、ユースの子もぎこちなくペコリと頭を下げた。カメラ小僧が追い廻していたのはこの子か。パッと見、中学一、二年。エレーラが選ぶ子らしく小柄で線が細く、筋金入りのスポーツエリートにはとても思えない。ビードロ細工の様に潤んだ瞳は母親譲りだ。微かに八重歯が覗く、はにかんだ口元から溢れる幼気いたいけな笑み。両親の手塩で清められ、真っ直ぐに育った気立てを証す、胸元まで伸びた飾る事を知らぬ無垢な黒髪は、宵闇に紛れてもなおすこやかな光貴を宿している。この子も麻木の様に美しくなるのだろう。順調に行けば、二、三年の内にトップチームで西が丘のピッチに立ち、天の配剤にかなえば、エリートの中の一人で終わらずに、日の丸を背負う事にもなるだろう。そして、容姿と実力を兼ね備えた、星のお姫様として商品化され、世間に骨の髄までシャブられてしまうのかもしれない。その手の嗅覚に秀でた元カメラ小僧が入れ込む位なのだから、初めて麻木を見た時、「旋毛が立ってるなあ。」位にしか思わなかった俺には察し得ぬ、非凡にして楚々そそたる萌香ほうががあるのだろう。バックパックの肩ひもを弄りながら、上目遣いにチラチラと俺を見ている娘とは対照的に、母親は深々と下げた頭を上げようとしない。カメラ小僧と共喰いにも等しい泥仕合を演じた、何処の馬の骨とも知れぬ男に、甲斐甲斐しく礼を尽くしている。これじゃあ誰だって勘違いしてしまう。貴賤の天地が逆転し、絞り立ての蜜の様な優越が背筋に滴り、腰の窪みを伝ってケツの穴を舐める。疲れている所為もあるのだろう。俺の括約筋は震撼していた。足許に広がるカメラの残骸が一斉に粟立あわだち、躙り寄って爪先から踝へと這い上がってくる。此奴は相当にヤバイ。 故事の英傑にでもなったかのごとき陶酔に、膝のつがいが外れそうになる。
  しっかりしやがれ。これは罠だ。躓きの石だ。こんな霞を喰らって何になる。今更、人から認められ、必要とされ、感謝された位でとろけてんじゃねえ。狼藉者が情に溺れた処で、血の臭いを嗅ぎ付けた鮫の餌食になるだけだ。自分が何者でも無くて何が悪い。瘋癲ふうてんの気概を見せやがれ。俺は込み上げる破廉恥な承認欲求を撲殺し、軽く会釈だけして親子の前を通り過ぎた。すると今度は、闇雲に舵を切ったその先で、赤いジャージが待ち構えていた。眼を奪う胸のエンブレム。麻木か?腰が砕け堕ちそうになるのを堪え、踏み止まると、チームバスの脇でジムバックを両肩に二つずつ抱えて、確か竹村とか言うレイズのSBが、俺を見詰めて立っていた。早合点したバツの悪さ。紛らわしい処に居やがって。紅い影が過ぎっただけで、麻木恋しさでそう見えたか。控えの分際で、片付けの途中に人の悶着を物見遊山ものみゆさんとは良い御身分だ。鞄持ちが気に入ってるなら、ホペイロにでもコンバートしてもらえ。俺は猛り合う内なる声を突き飛ばして睨み返した。それなのに、竹村は臆する事無く微かに頭を下げた。声は聞き取れず、ただ綻んだ口元が、
 「お疲れ様です。」
 と発していた。
 糞が。赤の他人を労うお人好しに、試合で務まるポジションなんてねえんだよ。後から来た連中に出し抜かれて、使いっ走りに廻される位なら、ペットボトルに下剤を盛ってでもスタメンを奪い返せ。俺は挫けそうな虚勢に額を何度も撃ち付けた。そうでもしないと、このベンチ外の聖母にひざまづき、改悛かいしゅんの情を自白して終いそうだ。
 気が付くと、選手の出待ちをしている人垣の連なる視線で、俺は野次馬の被写体に、衆望の編み上げる歪な虫籠の囚人に成り下がっていた。し、他人が地獄と言うのなら、野次馬とは地獄のテーマパークだ。何奴どいつ此奴こいつも、スタンドにはべるその他大勢の癖しやがって。勝手に俺を品定すんじゃねえ。御前等のお眼鏡なんかに適ってたまるか。俺は誰にも限定されない。羞恥の楔で俺を磔にして、俺から俺を剥ぎ取れる物ならやってみろ。言語化されていない未整理の煩悶はんもんが、突き当たった単語を片っ端から毟り取って口に運ぶ。辻褄なんて二の次、三の次。奴等の好奇な眼差しは俺の自意識が乱反射した、疑心のブーメランだ。それを弾き返せるのなら何でも良い。俺には嘘が必要だ。人の痛みが麻痺する程の、もっとデカい嘘が。女学館、サッカー、サポーター、そんな物よりもっと派手で巧妙な嘘は、まやかしはねえのか。親譲りの人類アレルギーをテカテカに酸洗さんあらい出来る劇薬。どんな耐性も免疫も駆逐する似非化学の抗生物質。その副作用で最後の望みまで失明出来る呪いのタブレット。処方箋なんて要らない。真実が其処に在る限り、嘘っぱちに適量なんて無い。
 破戒の落下速度に俺は昏酔していた。開幕戦で移籍を発表する村里の号泣が、病院の洗面所で髪を洗っていた雪駄の背中の面皰にきびが、曲がった膝を引き擦りながら階段を上ってきた横田の乱れ髪が、瑞々しいレベスタの蒼い空が、自転車操業のカンクローの焦燥が、前半だけで逃げ出した初めての単独応援が、硬直した麻木の瞳が、コーナーフラッグの脇で行き倒れた結城の背番号が、現場灼けしたビッグマックの逆モヒカンが、ドラムを抱えて歩き続けたスタジアムの外周が、捨吉が持ってきた歌詞カードの薄弱な文字が、塩澤ママのお茶と御握りが、湯元ママの大らかな関西弁が、ワシントンへの転勤話をする湶さんのサバサバとした語り口が、尾形さんと塩爺の厚い包容力が、飛行機の窓外を旋回する福岡の夜景が、コマ送りで輪転する。そして次第に、雑餉隈ざっしょのくまの映画館街、日活ロマンポルノの立て看板、筑紫通りの一心亭、駄菓子屋の梯子、アサヒビールの工場見学、鹿鳴春のかた焼きそば、インベーダーゲームで埋め尽くされた喫茶店と、目眩めくるめくラッシュは時をさかのぼり、スライドショーのコマが欠け、途切れ途切れになって、立ち並ぶ鉄筋コンクリートのベランダと窓に木霊こだまするジェット機の爆音が、総てを掻き消した。
 
 
 突き落とされた追憶の井戸の底で、誰かが声を潜めて泣いている。足下に置いたランドセル。日の暮れた団地の片隅に立つ小さな影。土手の小道が夕闇に呑まれている。あれは諸岡川だ。ロイヤルの工場と浄水場の間にある、見える筈のない彼方の下原橋を見詰めて泣いている。団地の鍵を無くして部屋に入れず、土手の小道を自転車に乗り帰ってくる母を待って泣いている。湯飲み茶碗一つ割っても、鬼の様に殴り飛ばす親だ。鍵を無くしたと知れば、闇夜であろうが「探してこんや。」とがなり倒され、ブチのめされる。殴り疲れるまで殴られる。こんな目に遭うのは一度や二度の話しではない。「鍵を拾われたら、家のモンば全部盗まれて、そげん事になったら、どうすッとヤ。」何かに取り憑かれたあの眼の色。その理由が判らずに何時も怯えていた。空腹と肌寒さで震えている。叱られるのが恐くて、そして何より寂しくて泣いている。何時も待っていた。何時か本当の母親が、優しい両親が帰ってくるのではないかと。土手の彼方に灯りが点った。近付いてくる。母の乗った自転車か。大きくなる光に身を固くする。叱られるのが恐くて、でも、嬉しくて、涙が再び溢れてくる。光が大きくなる。赭い光だ。見た事のある赭だ。眼を凝らすと、赭い光がうねり、波となって押し寄せる。あの赭は確か、
 
 
 「あっ、先生、居た、居た。」
 テニスコートの脇を抜けて、ゴール裏の片付けを終えたレイズのコアサポが団体で現れた。駐車場の暗がりが原色の玉突き衝突で噎せ返る。あかあかが憚る鍔迫り合い。弾き出された彼の日の土手を辿る一点の燐火が、皮肉な笑みと擦れ違い、小鼻を抜ける微かな溜息に紛れた。こうなるともう斜に構えて感傷に耽る処の話しじゃない。ドラムを縛ったキャリーを牽きながら河瀬君が、口元で手酌を呷る真似をしながら、大股で近付いてくる。
 「先生、赤羽集合ね。」
 開門前の騒ぎは何処吹く風だ。瞬く間に緋いレプリカユニの渦に呑まれ、レイズサポの高カロリーな基礎体温に炙り立てられる。攻め落とした城の本丸に集結する隊列の様に、旗竿や横断幕を詰めたキャリーバッグ、有りと有らゆる紅い物量が駐車スペースを取り囲み、レイズサポの本陣と化していく。藤井君が飲み会に参加する人数を確認し、番頭格の山ピーが後輩のサポに弄られてキレている。始まった。サポ活の延長戦に開始のホイッスルや、ルールブックなんて無い。裁いてくれるのは何となく流れているその場の空気だけで、後は野となれ山となれだ。
 野次馬の眼も、サッカーと女学館に対する慚愧ざんきも、我が半生を彩る自虐史観も、土足で踏み荒らされて形無しだ。オイルの固着した歯車と歯車がぎこちなく噛み合い、錆を吹いたクランクシャフトが俺の中で軋みを上げ、脳血管に詰まった余計な考えを押し出し、何時もの粗野でムサ苦しい喧噪を、汗でふやけた肌が深呼吸し始める。背後から山ピーが俺の頸に腕を巻き、膝でケツを小突き上げた。
 「これはこれは、長浜の夜は女を替え玉、ラーメンは細麺、彼処あそこは太麺のブリキ先生じゃありませんか。奇遇ですなあ。先生も行くッしょ。一緒に行くッしょ、赤羽。多分、何時もの中華屋だから、中華屋。」
 相変わらず下ネタ全開で、ベトナムから来たIT実習生みたいな面を擦り寄せ、ギロギロと俺を睨み付ける。何処も彼処もアドレナリンがアイドリング状態で、レイズと交われば、否が応でも緋くなる。
 「俺は良いけど、河瀬君とかどうなの?給料日前でしょ。持ち合わせとかあるの?」
 掌底しょうていで山ピーの顎を下から抉り込む様に押し退けながら尋ねると、河瀬君は眼を細めて夜空を仰ぎ、明後日の星を指を折って数え始めた。リフレインする岩井さんのボヤキ。脱力した俺は、山ピーに掌底を後ろ手に捻り上げられ、再び余った片腕で頸をロックされた。
 「そんなモン、先生は最後のマハラジャと呼ばれた漢じゃないの。マハラジャが歩くと足跡が小判になるんだろ。持ち合わせならここにあるよ、ここに。」
 俺がケツに挿しているカイマンの長財布に膝蹴りを入れる山ピーは、これでもそこそこな会社のSEで、歴とした背広組だ。職場での胃酸が鳩尾みぞおちを突き破る程の重圧から解放されて、現場では圧力容器を突き破った中性子の様に弾けている。俺はスタンドでフル稼働しても、未だ騒ぎ足りない山ピーを振り解き、御仏の涙をしゃくすくって、慈悲の翠玉すいぎょくを振り撒いた。
 「まっ、出所祝いに、河瀬君の分くらいは俺が出すよ。山ピーは便所の蛇口でもくわえてろ。」
 「ヨッ、流石、玄界灘の沈まぬ太陽。漢一匹。大明神。」
 星を数えていた指を止め、涙目で柏手を打つ河瀬君と、差別だ、ヘイトだ、オスプレイだとパヨクる山ピー。そこに、千葉の八千代さんからスマホに着信が入った。確か今日の試合は津山の筈だ。スピーカーの向こう側で、八千代さんのコールリードと酒灼けで潰れた声が爆ぜる。
 「先生、今何処どこにいるの西が丘?俺ら今、中国道突っ切って、伊丹に着いた処なんだよ。これから羽田に飛んで、十時には上野に着くからさあ、ちょっと呑もうぜ。赤いヤクザの太鼓持ちもそこに居んだろ。」
 ちょっと呑もうぜとか言ってるが、レンタカーのハンドルから解放されて、プレミアムモルツを片手に、出発ロビーで既に寬ぐ、ジャージとサンダルが眼に浮かぶ。混じりっ気無しの麦芽100%なら、点滴に混ぜても御機嫌な人だ。死に神も避けて通る千葉のヤクザが、人の事をヤクザ呼ばわりして呑みに誘うのだから、この人の言う事は、メチャクチャか、ハチャメチャか、デタラメだ。
 「ったく、ヤクザは独りで十分なんだけどなあ。」
 フライングする腹の内に、黄色い方のヤクザが吼え、思わずスマホのスピーカーから耳を逸らすと、
 「若しかして、ヤクザから?」
 太鼓を叩いてる赤い方が同族臭に小鼻をった。
 「そっ、羽田から上野に向かうって言ってるから、大統領で呑んでてもらえば良いでしょ。」
 「ンッ、大統領の盃で今夜は手打ちだ。」
 河瀬君のお墨付きで、赤羽経由、大統領行きが開通し、スピーカーの中で騒いでいる土建屋の社長にその旨を伝えた。五月蠅いのが増える度に、今夜のピースが埋まっていく。アルコールの引力に較べたら、太陽系の引力なんてパンツのゴムだ。未だ一滴も呑んでないのに山ピーはしつこく絡んでくる。
 「処で、中洲川端の毒蝮さんよお、例の綺麗所はどうしたよ。エエ、オイ、湶さん何処だよ、湶さん。サッサと出せよ。オイ。」
 「出せよって何だよ。大人しくポケットに入っててくれるんなら、とっくの昔に持って帰ってるよ。」
 「良いから出せ。俺のマラドーナはカテナチオなんだよ。」
 「知らねえよ。テメエのジュニオールくらい、テメエでナデシコしてやがれ。それが厭なら、婆ァのマンUか、犬のアーセナルにでも突っ込んでろ。兎に角、湶さんなら朝霞ナンバーのUFOで月に帰ったッつの。サッコちゃんとか門限あっから送ってかなきゃいけねえし。」
 「馬鹿野郎、そんなUFO、ササラモサラにしちゃれい。帰ったとか言って、本当はイタ飯屋で待ち合わせとかしてんじゃねえのか。それでその後は、ホテルで彼処あそこをペペロンチーノかよ。それとも夜食は俺の棒ラーメンか?アン、どうなんだよ、博多スターレーンの黄色いブッチャーさんよお。」
 言い負かそうとした俺が馬鹿だった。この男の下ネタに限界はない。これ以上素面しらふで付き合うのは無理がある。そう思っていた処に、千葉サポのミキさんにフラれたショックで、名古屋からレイズに移籍した駆け出しの雄大ゆうだいが、コンビニの袋を提げて現れた。何時の間に買い出しに行ったのか、こんな事だけは手際が良い。うっすらと結露を吹いた半透明のビーニールから、レイズのコアサポに配られるスーパードライ。雄大は俺の前に来ると、少し涙眼で最後の一本と一緒にレシートを差し出した。
 「ブリキさん、一応これ、俺、立て替えてるんですけど・・・宜しくお願いします。」
 出口のない留年生活を続けているとは言え、曲がりなりにも角帽かくぼう低頭平伏ていとうへいふく。邪険に出来ないのも計算ずくだ。
 「湿気しけた面しやがって。ぬるくなる前に、さっさと寄越しやがれ。」
 缶とレシートを奪い取り、タブに指を掛けると、河瀬君が俺を背中から突き飛ばし車座のど真ん中にネジ込んだ。
 「先生、一言、頼んます。」
 藤井君は未だ向こうで飲み会の参加者の確認を取っているのに、河瀬君と山ピーはお構いなしに彌次を飛ばして、俺を急き立てる。酔えば忠臣、覚めれば移籍。この愛すべき魔物の球遊びには、壊れた人間の本能を修復出来る何かが在るのかもしれない。己の人生のエキストラにすらなれない俺には、おあつらえ向きの幕間狂言まくあいきょうげんだ。灼け糞でスーパードライを掲げると、麦芽の泡沫が輝ける闇に破裂する。
 「それでは僭越せんえつでは御座いますが、日本女子サッカー界の更なる発展と、連日の殺人的猛暑の中スタジアムに駆け付けて下さいました皆様の御健勝を祈念して、乾杯の音頭とさせて頂きます。それでは皆さん、絶世を極める、この薔薇色の人生に、乾杯。」

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:スポーツ

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。