2019-08-24-2
厩舎にプラグインしていた四頭立ての半磁動鹿駆を起動し、ジャイロブレードの起ち橇に乗り込んだ黒服の女は、アークを帯電した双角アンテナに鞭を飛ばすと、迸る火粒で頬を染め、管理区域外の定点を一気に暗唱した。
「$8q7XmQ86+9h=GPzLD,021438.299,3566.5978,n,
13976.1469,e,5,27,0.2,3.2,m,32.7,m,,,,000000*44」
此奴、電脳化しているのか?レーザーアサルトを小脇に抱えて、Pコートの釦を填めていた鉄郎は意表を突かれ、チームハーネスが弾け走り出した橇に慌てて掴まり、箱乗りの儘、屋敷を出発した。左手に見覚えのあるの湖影が横殴りの雪を呑み込んでいる。彼は確か窪地に漏出した重金属の泥沼だ。其の畔には犬小屋どころか草木一本生えていなかった筈だが、今更もう、そんな疑義の一つや二つ怪異の内に入らない。白瀑の彼方へ遠離っていく屋敷と、氷山の様に犇めく、機畜の隆起した脊梁を叩きのめす、正確無比な女の鞭捌き。先導機のサードアイから放たれるハイビームが照らし出す点景が、何の迷いもなく一直線に過去へと葬り去られていく。此の猛烈な速度の先に何が待っているのか何て見当も付かない。母を救い出す一縷の望みに縄を掛けられて身動きが取れず、女の奇矯なエゴに引き擦られ、連れ去られているだけで、鉄郎の意志は完全に取り残されていた。血糖が行き渡って火照る躰に、情け容赦ない暴風雪と蹄の蹴立てる雪煙が、沙漠を吹きすさぶ熱波の如く打ち付ける。
彼程の血の海に沈んだのだ。例え母を救い出せたとして、どんな手当が出来るというのか。機賊の突き付けたライフルの銃口に黄泉の洞穴を覗き見、血に塗れた母の外套を抱き竦めて白魔に屈し、際限のない苦しみと悲しみに疲れ果て、此の命を一度は自ら手放した。己の心の奥底にめり込んでいる卑しさと弱さを暴き出してしまった以上、もう何も元には戻らない。どんなに此の橇を飛ばしても、昨日までの自分には追い付けない。運命に引き裂かれた其の断絶を、強壮な機畜の嘶きが吹き抜ける。
ゆく先は雪の吹雪に閉じ込めて
雲に分けいる鹿の八十吠え
鉄郎は耳を疑った。母に生き写しの横顔が不意に吟じた三十一文字。血を分けた温もりとは違う醒めた息遣いが、燃え盛る流星の様に棚引く金髪に掻き乱され、白い闇に消えた。女は従卒扱いの鉄郎を一顧だにせず鞭を揮い続けている。長い睫に鏤められた雪の結晶。風を切る高貴な身のこなし。母の面影に息を呑む助手席の孤児。其の柔な鼻っ面を捨て鉢な舌尖が切り刻む。
「機の利かない男ね。哥の一つも禄に返せないの?御里が知れるわね。」
夢から叩き起こされた鉄郎は、本の一瞬でも心を解いた己を詰り、女の売り言葉を買い叩いた。
黑銀之果弄荒天 黑銀の果て 荒天を弄す
玉手探鞭舞影輕 玉手 鞭を探り舞影輕し
汗血鹿知焦春色 汗血鹿 春色を焦がれるを知り
四蹄總散落雪行 四蹄總べて 落雪を散らして行く
美人調馬の当て擦りを女は軽く鼻で笑った。母以外の人間が哥を詠むのを、鉄郎は生まれて初めて耳にした。清謐な容姿と言い、韻微な嗜みと言い、何から何まで紛らわしい女だ。眼に映る機族は皆殺しにしろと嗾けておいて、悠長に返歌がどうのとは、此の御公家気取りが所望する七色の気紛れで、次はどんな御手前を振られる事やら。血の池に屈し、遠退いていく意識の中で聞いた、
大口の眞神の原に降る雪は
いたくな降りそ家もあらなくに
彼の独片もどうやら空耳ではないらしい。いっそ古歌を卒塔婆に、そっと見過ごしてくれれば良い物を、此の吹雪の中、意趣返しを強いて連れ回すのだから、差し出がましいにも程がある。そうまでして、狼の住処に迷い込んだ窮鼠の散り華を拝みたいのなら、御望み通り派手な御眼汚しで、其の退屈が見えなくなるまで塗り潰してやる。精々、流れ弾には気を付けろ。鉄郎はカーボンファイバーに巻かれたラバーグリップを握り締め、人差し指に絡む銃爪の感触を確かめた。
女の鞭の跳ねっ返りが鉄郎の顳顬を掠める。本の数時間前、恐怖と寒さと衰弱でたった一歩を踏み出す事すらままならなかった吹雪の中を、ジャイロブレードの犀利な刃文は硝子の軌道を舐める様に駆け抜けていく。鉄郎の理解を超えた異相を加速する世界。砕け散った星屑の極点に突き落とされた錯覚。動体視力を振り切ってハイビームと氷沙が乱反射する、破局への失踪。突き立てたダブルフロントの襟に頬を埋め、鉄郎はちっぽけな運命を翻弄する得体の知れぬ潮力にしがみついた。
何物とも行き交う事のない、見当識が漂白する程の嵐の中を、どれ程走り続けたのか。先導機がレーザーポインターを進行方向の彼方に飛ばし、捕捉した座標までの距離をエアディスプレイでカウントし始める。新雪を駆る鹿脚は計数に倣って減速し、巌健な背躯から湯気を上げて機畜の隊列が停止すると、女は鞭を後部座席に投げ捨て、橇から飛び降りた。辺りは遮る物一つ無い雪原が広がっているだけで、衰えを知らぬ暴風雪が果て知れぬ闇を跳弄し続けている。鉄郎は金糸はためく萎竹の背中に怒鳴り散らした。
「オイ、此処は何処なんだ。こんな処に機械伯爵とか言う奴が居るのか。何もないじゃないか。」
スリープに切り替わった機畜が片耳を峙て、筋電義肢の接合部から一瞬カーボンの火花が弾ける。橇のキャビネット端末が自動でマップを起動し、疎らな等高線と海岸線以外何もない何処かが点滅している。女は鉄郎を見向きもせずに、黒革のパスケースを宙に翳した。発行銀河鉄道株式会社、地球⇔アンドロメダ、無期限と印字された乗車券に、隠し刷りされた三文字、999のホログラムが七色に浮かび上がる。
二の句を継ごうとした鉄郎は息を呑んだ。何かが稼働している。文明から見捨てられた不毛の雪原を潜行する重厚な気配。女の対峙する氷堝の宙空に何かが煌めいた。吹き荒れる茫漠に忽然と針を落とす実体のない燐点。其の微かな瞬きが一筋の破線となって垂直に屹立し、疑視驚目を限る。禁を解かれた秘蹟の囁き。重量鉄骨の軋む律動が地の底から這い上がり、身の丈を越えた光糸の輝裂から横溢する未知の現影が、女の足許を交わし雪原に伸びていく。凶門は暴かれた。
大理石の中央階段が傲然と聳える吹き抜けのエントランス。日輪のモザイクを冠した踊り場の壁時計。乳白と琥珀の輪舞するステンドグラス。ランプの彫金やエッチングを愛撫する唐草のレリーフ。礼容な意匠で構築された荘重典雅な館内が、果てしなく新雪を敷き詰めた絶界の虚空に刃物を入れて捲れた様に覗いている。
整合性のない実景に焦点が定まらず、鉄郎は失調した視覚と悟性の迷路に填り込んだ。姿無き殿堂の開館。錯視でもプロジェクターでもない。破断した時空の彼岸に垣間見る別次元。世界と世界が座礁した裂傷か、幽界仙窟への裏口か。光学迷彩なら建物の外郭に沿って雪が降り積もっている筈だが、観音開きの門扉の裏手を吹雪は駆け抜け、表を過ぎる旋雪は屋内に流れ込んでいく。
ワームホール?機族達の科学技術はそんな超絶的物理領域にまで達しているのか。幾らなんでも地球の平素な重力下で、そんな時空の継ぎ接ぎなんて出来るのか。抑も何故、彼の女は眼に見えぬ結界の封を解けるのか。鉄郎は仕組まれた絡繰りの中にいる事を覚悟した。洋館のエントランスの前に立つ黒い影が徐に振り返る。海割りを背に民を統べる、モーゼの如き皇然とした神色が激しく歪み、雪のベールを鏤めたフォックスコートが総毛立つ。
「何をしているの、ママを助けるんじゃなかったの。其れとも、私を銃で脅した時の威勢の良い言葉は只の出任せ?ママを愛しているのなら、今此処でそれを証明しなさい。さあ、奪い返すのよ。大切な宝物を。相手は生身の体じゃないわ。貴方も戦う機械に成りなさい。」
其れは命令ではなく踏み絵だった。此処が機械伯爵の屋敷なのか、本当に母は此処にいるのか。母の生き霊の如き此の黒服が何者なのか。今更、騒いだ処で始まらない。鉄郎は橇から飛び降りて、亜空間の裂け目に進み出る。額装された細密画の様に、嵐の直中を区画する異界の断層。至近距離で差し向かうと、二つの錯綜する宇宙に角膜が屈曲し、隣り合う凸面と凹面が遠近感を覆す。
こんな大袈裟な仕掛けを組んで獲物が鼠一匹では、間尺に合わなくて心苦しいが、趣味の悪い手品に付き合ってやるのだから、差し引きゼロだ。鉄郎は無人の館内に無理矢理視座を捻じ伏せ、レーザーアサルトを起動した。其れを見て黒い女狐が耳を掻き上げ、指に絡めた金髪を口元に添えてほくそ笑む。
「ま幸く有らば。」
こんな嫌味でも聞き納めかも知れないのだから、袖にするのも忍びない。
「磐女の呪いなら余所で遣れ。」
入場したが最後、戻ってこられるか判らない。そんな心配は帰る場所のある者がする事だ。鉄郎は鬼界の敷居を跨ぎ、輝度を抑えた照明に沈む、何者の気配もない館内に踏み込んだ。
人類が人類であった頃の尊厳を積み重ねた大理石の団塊。ナノ複合建材が可能にした無制限な構造設計が暴走する、自己顕示欲剥き出しのメガロポリス建築とは地金が違う。黙して時の重さを統べる堅牢な階段のスロープ。天倫と格式を掛け合わせた折上格天井。模造品では築き得ぬ気位の横溢。旧人類から接収したのだろう。今もこの戦利品は何者にも媚びず、自己完結している。鉄郎の存在など意に介さぬ半醒半睡。母の行方を仄めかす素振りすらなく、踊り場に昇坐した壁時計が唯、万理を刻むのみ。
虱潰しに探すしかない。正面階段に向かって歩を踏み出した鉄郎。その間接視野をドス黒い異物が掠めた。右手の開け放たれた扉の影に伏す黒鉄の巨漢。まさかと思い、レーザーアサルトを構えるのも忘れて歩み寄ると、幾層にも塗り重ねられたフタル酸錆止め塗料の黒光りする地肌に、山吹色で銘打たれた「C62 48」のプレートが、在りし日の熱狂を静かに物語っている。破格の大型ボイラーを誇る豪胆な缶胴を横たえた不惑のモニュメント。全長21,475 mm、全高3,980 mm、総重量145.17t、最大出力2,163 PS、最高運転速度100 km/h、国鉄C62形旅客用テンダー式蒸気機関車。
鋼顔の煙室ドアに冠した前照灯と補助灯、猪首型の煙突、鬣の如き除煙板の鋭角なエプロンの傾斜、鯨背を模した幅広で扁平な蒸気ドーム、ランボードの下で犇めく大直径動輪の隊列、迅雷の様に鍔迫り合うメインロッドとサイドロッド、躯体を駆け巡る放熱管、送油管、空気作用管の枝葉末節。堅実な鍛冶仕事の集積した圧巻の造形から滲む、車両限界を超克した満身創痍の矜持に館内は心酔し、息を潜めている。
鉄郎は唐突な展開が途切れる事のない世界に、心の中で張り詰めていた物を見失ってしまった。連結している炭水車の先にも、黒塗りの機影が続いている。時の流れを逆行する何者かに導かれ、未知の回廊に呑み込まれていく招かざる客。分解展示された鋳造の二軸従台車、機炭間を結ぶ自動給炭機、ボイラー内の煙管に、アセチレン瓦斯の圧接溶断機材を積載したトロッコが、其れ々々に区画され晦冥に耽っている。
鉄道博物館?
鉄郎は響き渡る跫音を止めて、先台車の板バネから眼路を上げた。宇宙開拓事業で財を成した銀河鉄道株式会社の筆頭株主。黒服の女が苦々しく吐き捨てた言葉が甦る。回廊の角部屋を埋め尽くす各路線歴代のヘッドマーク。其の先に続くギャラリーでは、投炭スコップ、機関士ゴーグル、旧式カンテラ、手持ちの標識灯、砲金製の製造銘板、換算銘板、対進駐軍用表示板、通行証が、古代陵墓の玄室に所狭しと納められた副葬明器の如き威彩を、硝子ケースの中に封じ込めている。人類の手放した伝世品。機械化人の発掘した人類の遺跡。一つ一つの展示品が寸刻を争う身である筈の鉄郎を、文明の傍観者から、たった独りの弔客へと誘い、会葬の順路へ送り出す。
馬車鉄道から鉄索、鉄索から牛車軌道、牛車軌道から蒸気軌道へと変遷していく年表。拡大の一途を辿る路線図。往時の賑わいと風俗を伝える鬼瓦の駅馬舎、泥だらけのゲートルで山を穿つ、敷設工事の褪色した画素の荒いスチール。タイルの欠片を土壁に鏤めたイスラムモザイクのラウンジを挟んで、創業の軌跡を綴る厖大な物量の展示室が、一筋の木漏れ陽すらない樹海の様に続いている。
時に埋もれた史料の堆積が放つ黎気に触れて、澄み渡る鉄郎の神性。怒りも焦りも迷いも放熱して、鍾滴一つ零れる事のない地底湖の様に鎮まり返っている。空襲で焼け落ちた駅舎の鉄骨、終戦後の復員・引き揚げ輸送、電気軌道への転換、驚異的経済復興、複合的都市開発のミニチュア模型。右肩上がりの沿革をなぞり、血と汗と涙が報われていた僅かな時代に眼を細める。山を越え谷を跨ぐ定尺の資材の束。人差し指から迸る作業員の点呼。瓦斯圧接による飴色に熔けた鉄と廃油の焦げた匂い。鳴り止まぬ発車のベルが胸に迫る、と言うより此はもう、漠然としたイメージではない。硝子ケース内の陳列物から想起され、押し寄せるのではなく、館内を浸す耳鳴りの内側で現に反響し、一方的に頭骨を攪拌し始める。
高速鉄道の列島縦断。様々な線形の車輌が最速を競い合う其の外れで徒を拾う、花飾りを纏った単線のワンマン列車。西日に染まる田園地帯に鈍行の長い影が伸びる。用水路の脇で見上げる鉄郎に車窓から身を乗り出して手を振る乗客の涙。花電車じゃない。これは廃線の最終列車。鉄郎は其の現場に臨場していた。知覚野をプロジェクターにして投影しているのか、其れとも伝送海馬か。機械伯爵の屋敷と言う現実を上書きして、別れを告げる警笛のドップラー効果が、木造車体から換装した燐寸箱の様な一両編成を追い掛けていく。
ヤバイ、呑み込まれる。背乗りする気か。手の込んだ細工をしやがって。鉄郎は見当識を固持する為、強制的な合成記憶の狭間から覗く、現実世界の片鱗に眼を凝らした。オーバーフローする前に抜け出さないと、器質的昏睡に滑落する。そう判ってはいても、神経伝達モデムのヘッドギヤすら介さずに、此程の実体感を無線で焼き付けてくるのだから、送信経路を断つ処か、今自分が展示室の何処を向いているのかすら藪の中だ。遠い追憶の彼方で水平線が煌めいている。小雪混じりの重苦しい曇天。何故、陽も射していないのに、と顰めた眉間を撃ち抜く衝撃波。管理区域外の蹂躙された更地が脳裏を過ぎり、押し寄せる地鳴りが脊椎に刻み込まれた暴威を呼び覚ます。津波・・・・と言う言葉を無意識の闇へと抑圧する薄弱な自我。メガロポリスから見捨てられた死の大地とは違う、罪なき人々の営みを殲滅する瓦礫の逆流。高台で放心した人垣の頭上を行き交う、地方整備局と報道機関のヘリ。潮の退いた荒野を埋め尽くす文明の残骸と削ぎ残された住宅の基礎。避難所から溢れ夜道を彷徨う人々。先を譲り合う炊き出しの列。唯、其処に居てくれるだけで心強い自衛隊員の背中。碁盤の目の様に整然と建ち並ぶプレハブに自宅を見失う仮設村。海岸線を子供達が駆けてくる。漁業組合の若い衆が押し寄せたホーム。紺碧の空の下、幾重にも打ち振られる大漁旗に迎えられて到着する復興電車。
生々流転の劇情に鉄郎は為す術もなく磔にされ、加速する怒濤の実録が頭頂に過積送信されていく。飽和した鉄道事業と自動運転輸送の台頭による私鉄各社の連鎖的統廃合。起死回生を狙い参入した宇宙開拓事業。度重なる事故の隠蔽。資源と領有の独占を優先し、大気圏外で飛び交う提携と条約の破棄。無人探査機のニアミスを合図に雪崩れ込む武力衝突。契約満了になった民間軍事会社の海賊化と、そんな破落戸達との更なる蜜月。其れは最早、社史や業積と呼べる様な代物ではなく、顧みる事を許さず切り替わる一場面一場面が、時軸が屈折する程の回転数で高調していく。
折り重なるシグナルが顳顬にめり込んでヘルニア化し、眼圧が悲鳴を上げる。片膝を突き髪の毛を掻き毟る鉄郎に殺到する、絶海の宇宙。小惑星に停泊した採掘船。扉という扉に真紅のスプレーで殴り書きにされたハザードマーク。防護テープでミイラの様にグルグル巻きにされた人体と思しき塊を、工作機械が通路の床に並べている。医療機器を脇へ押し退け、非破壊検査器が犇めく集中治療室。崩壊した皮膚から染み出す体液で浸水したベットの上に、スパゲッティ状態の小児患者。蚯蚓の様に蠕動する臍帯コード。強制的に胸郭を伸縮させている人工呼吸器の掠れた音漏れ。頻りに頭部をスキャンしている無脊椎アーム。遠隔操作で開頭した前頭葉。蛋白質溶接で皮質結合したケーブルの束に絡む金色の乱れ髪。
此は治療と呼べる代物なのか。幼気な肉塊に群がる解析装置の挙動不審な痙攣。脳細胞蛋白質の局在と動態状況をモデリングした断面画像を、半透明のレイヤーに出力されたバイナリの羅列がゲリラ豪雨の様に塗り潰している。鉄郎は偏頭痛に足許を取られながら、藤棚の様に垂れ下がっている無数のケーブルを掻き分けて少女のベッドに近付こうとした。すると、16進数の大瀑布が液晶のフレームから旺溢し、鉄郎の視界を埋め尽くして輪転し始める。過積送信の車輪の下で悶絶する三半規管。天地を見失った鉄郎が咄嗟に目の前のケーブルを掴んだ途端、駆け巡る数列が波を打ち、隣り合うゴシックのフォントが解けて連結し、一筋の曲線となって滑らかに蛇行しながら右から左へと走査しては改行していく。眼を凝らすと其れはアルファベットの筆記体。しかも、左右が反転した儘、先走っていく。
これは鏡越しのカルテ・・・と思う間もなく、握り込んだケーブルの端子が引き千切れ、前のめりに倒壊していく鉄郎の後を追う様に、鏡面文字の筆跡が傾ぎ、注ぎ落ちる様に流れて縦列し、硬質なペン先の屈曲が、毛筆の円やかな万葉仮名の草書体へと転調していく。花と散り掠れる墨痕。泡沫の微睡みに揺蕩ふ曲水。紐解かれし一幅の書画。圧迫した意識の中で、情報の下僕になる前の文字が、に苛文字まれる前の言葉が、言葉を弄する前の心が押し寄せてくる。
礫にも投げ越しつべき天の川
隔てればかもあまたすべなき
喚んでいる。過積送信の嵐が不意に止み、胸を突く大気の鼓動。此は伝送海馬でも、合成記憶でもない。時空を超えて魂振りの哥が聞こえる。色取り取りに閃く短冊の祈りが頬を掠め、天蓋に架かる銀河の渡しへと駆け昇っていく。星屑の岸辺に立つ隻影。笹舟を見送る遠い眼差し。鉄郎は応えた。雲母の河面を蹴立てて、其の幽かな吐息に手を差し伸べる。
天の川水蔭草の秋風に
靡かふ見れば時は來にけり
言の葉は研ぎ澄まされた夜気に屹立する笙の神韻。万物を生起する聖聾なる音連れ。鉄郎は人の世に降りた天つ領布の端に触れた気がした。焚きしめた名香に噎ぶ、白玉の五百つ集ひ。隔てた逢瀬に踵を浸し、水晶の琉冷に濡つ足荘厳。景と情が映発する二星会合の夕べ。綻んだ口元から零れる吟誦に、女の童、其の身を尽くす澪標。
機の蹋木持ち行きて天の河
打橋わたす君が來むため
神慮を仰ぎ天翔ける木霊返しの相聞。鉄郎の白想に降り注ぐ流星群。光の慈雨に包まれて、啓かれる約束の地。何時も胸に焦がれていた此処ではない何処か。の筈が、鉄郎は額に舞い降り、頬を伝う星の粒子に、身覚えのある陰湿な痒みを察し身構える。眼を落とした掌を刻々と穿つ斑点に塗り潰され、酸化していく世界。光明はドス黒い死の雨となって暗転し、後退った一歩が落盤した銀河の底に呑まれて空を切り、見失った重力を道連れに鉄郎は不帰の奈落に叩き付けられた。
ほと ほと ほと
磐肌を絞って滴る雫の音が射干玉の闇の緘黙行を浸している。自ずと開かれていく瞼と瞼。磐床に臥した頬を上げると、壁一面を埋め尽くす多針メーターが鉄郎を見下ろしている。インデックスを照らす蒼白なバックライトに浮かび上がる磐室。古墳の中で甦った様な錯覚。夥しい計器の集積したモザイクに立ち篭める霊徴と感応する鉄郎。何と言う事だ。少女は此の壁の中にいる。
俺を喚んだのは君か?
言葉を発する必要はない。鉄郎は唯、幽閉された現し身の息吹に心を澄ました。随分と旧式で大掛かりなストレージだ。全脳器質をエミュレーションした汎用人工知能の様なマネキンとは物が違う。まさか此が帯域核醒自我、ZONEとか言う奴なのか。だとしても、超絶的知性の活動は外から観察出来るだけで、意図の理解出来る交信に成功した事例は未だに無いと言われている。爆弾低気圧の様に破砕データを巻き上げて何者も寄せ付けぬストームや、データベース内に擬態化したまま昏睡しているデッドリーフ、占有している物理回路を熱暴走して基板ごと溶解してしまうレミングス。其の何れもが人智を超えたフォーマットで蠢き、結晶化したブラックボックスだ。此の壁の中に身を窶しているのは、そんな混信した超工学現象なんかじゃない。自ら人柱を乞い投坑した斎女の崇高なる沈痛で、此の石櫃の様な磐室は満たされている。
どうして君はそんな処に、否、そんな躰に。君は一体・・・
鉄郎は己の中に彼女へ通じる心の扉を探した。立ちはだかるバックライトのマトリクスが波打ち、磐壁を掻き毟る様にシーク音が連鎖する。鉄郎は気付いた。未だ嘗て母以外、誰にも心を許した事がなかった事を。神撼する玄室。磐戸の隙間から零れる薄光。
七重八重花は咲けども山吹の
實のひとつだになきぞ悲しき
私は雪の・・・や・・・・・
仄かに点った少女の幼気な恥じらいが途切れ、鉄郎は身を乗り出した。思わず喉笛に込み上げる、待ってくれの一言。浄域の禁に背いたとでも言うのか、甲骨を走る凶示の様に多針メーターの風防硝子に亀裂が入り、啓き掛けた心が氷結して、石火光中の幻影を劈き、鈍器の様な怒号が後頭部に打ち下ろされた。
「貴様、何処から入ってきた。」
鉄郎が振り返ると、其処は集団肖像画を展示した博物館の絵廊で、歴代の社長、事業部長、運輸長、械関庫長、械関士が肩を連ねて、招かざる客を睨み付けている。全く悟性が追い付かない。館内に反響する恫喝。油彩の刷毛目が身悶えて隆起し、500号のキャンバスの中から公安服を着た漢が、額縁の中から手脚を掛けて、ブロックノイズを放電しながら大理石の床に飛び降りた。
「此の御屋敷の哲人君主を何方と心得る。」
色相と輪郭の末尾が崩壊と再生を繰り返す烈丈頑夫の肖像。何処迄が現実で、何処迄が伝送で背乗りした欺覚の残滓なのか見分けが付かない。公安服の後を追って、額縁の中から鉄郎の間接視野に雪崩れ込む、ナッパ服、車掌服、アノラックを羽織った職員達。ブロックノイズが切り刻む形相の狭間から覗くチタン合金の筐体。
「此処は貴様の如き棒振の湧いて這いずる場所ではないわ。」
「狼藉者だ。出合え、出合え。」
鬨の声を挙げ押し寄せる虚実争爛の万華鏡。其の放逸したレンズの焦点が集束し、鉄郎が眼を凝らす覗き穴の旋恍が、吹雪の中で突き付けられた銃口のライフリングに豹変する。魔法は解けた。ブロックノイズの砂嵐は去り、伯爵の下僕を従えて、鉄郎を撃ち殺そうとした複眼レンズの機賊が其処に居た。フラッシュバックする闇を裂く母の断末魔、血の池に染まる襤褸外套、幼児返りをして母の庇護を求め、暴風雪に屈した絶望。其の元凶が、人工被膜を暴いた機界の亡者が、今再び鉄郎の網膜に抉り込む。創造主の意に反したダイカスト削り出しの頭蓋。黒光りした背徳の美学に、弥勃つ身の毛が逆鱗となって戦慄を突き破る。
電脳化による知の集積によって、人は世界を知り、己を知り、崇高なる人格を、其の心髄を磨き上げていくのではなかったのか。こんな合金の鹿威しが、最後の審判をパスした新世紀の精選華族だと?肌に墨を入れる様に、腕から足へ、義肢からオールインワンへと衣替え、身を持ち崩していった分際で、何が天涯到智の霊超類だ。虚栄の移り気に感ける、こんな聖賢面した二石三文の大名気取りに額ずいている位なら、棒振の浮いた泥水を啜っていた方が増しだ。
燃え盛る血糖が頸動脈を掻き毟り、空腹と寒さで衰弱していた彼の時とは同名異人の鉄郎が、白瀑に没した鉄郎を押し退け、指先に絡む銃爪の冷利な感触が甦る。鉄郎は雄叫びを挙げ、虚を突かれ足の止まった鋼漢の左胸が、瞬いた蒼烈な残像の彼方に消滅した。過去と未来が転倒する駿速。動体視力を置き去りにして姦通した鈷藍の光弾。老竹色のカーボンファイバーを纏う、ショートスケールの銃身が仄かに余熱を帯びている。情事の後の一服に耽るが如く、オートレンジの銃口を舐める昇煙。息を呑む緩慢な時の流れの中で、両肘を交差し頭部を庇う無防備な下腹部に、リアサイトで浮遊するエアディスプレイが緋彗のポインターを飛ばし捕測する。ゆっくりと腰を落とした鉄郎の十指を伝導する光励起結晶の臨界。脳髄にめり込む雷管を官能が撃針し、整錬された強靱な波長の光源が標的を爆撃する。吹き飛ばされた胴体の空漠に、コマ送りで落下していくダイカスト製の頭部。圧倒的な火力に鉄郎の意識は漂白し、眠っていた嗜虐本能が腐蝕した鎖縛を引き千切る。
踵を返す機賊の群れを追撃する発兇したアークの咆哮。恍惚の浄火と瀑布が館内を盲爆し、フルオートの弾幕に烟り頽れる機影の団塊が宙を爆ぜる。泥人形の様に溶解した繊維強化樹脂。其の帰すべきを異にした首躰末節から迸る油圧のオイル。鉄とグリスの類焼した喉を突く臭素。屑鉄の墓場を幾重にも掃射する弾圧から逃れようと、片腕一本で這いずる右半身。失った脊椎を見捨てて彷徨う下半身。生首と化した電脳ユニット同士が額を小突き合って転げ回り、股関節からもげた片足が蜥蜴の尻尾の様に飛び跳ねて、バラバラになったパズルを掻き集めようとする者なぞ独りもない。鉄片の飛沫を喰らって盲いた間接照明。闇に聾した館内を刻む、跳ね馬の如き小兵の心拍。
「母さんは何処だ。」
舞い落ちる粉塵を被りながら、鉄郎は慙肢が絡み合い、畝り狂う画廊を踏み分け、仰向けの儘、懸命に蠕動している惨骸の一つを見下ろした。
「貴様は、彼の時の小僧。生身の分際で善くも・・・・・、こんな事をして只で済むと思っているのか。」
未だ辛うじて息が有るのを良い事に、現世の階位を問い質す霊超類の虚栄。鉄郎は肩で息をしながら、投棄されたデッサンの胸像の様に、足許で朽ち果てている機賊に銃口を突き付ける。
「俺はなあ流れ星なんだよ。瞬きなんかしてんじゃねえぞ。」
遊機発光素子を波打たせて複眼レンズの輝度を絞り込む、血の気の失せたクリムゾンレッド。露出したデバイスの制御基板をフィラメントが明滅するばかりで、出力経路の断絶している敗残兵は、寝返りを打つ事すら儘なら無い。
「まっ、待ってくれ、頭だけは、頭だけは撃たないでくれ。」
口を開けば石榴の腸を晒すが如しか。生身の人間なら即死の処を、暢々と命乞いが出来るだから良い御身分だ。こんな奴等に怯えて、時には汚水の中に身を潜め、地の果てに幽居していたのか。鉄郎は植毛が焼け焦げて煤まみれの顳顬を蹴散らして、俯せになった其の後頭部に誅告した。
「お前の頭の話しなら、母さんが無事に戻ってくれば、幾らでも聞いてやる。母さんの身に若しもの事があったら、其の時は最終処分場で代わりの頭を探すんだな。母さんは何処だ。寝惚けた事を言うなら、地獄で目覚める事になるぞ。」
威嚇射撃が床を爆ぜ、灼けた大理石の礫に頬を張られて身悶える傷痍の猿芝居。鉄郎が銃爪に掛けた指の力を発射寸前の位置で溜め、昂調する光励起結晶のチャージ音を聞き付けると、
「判った。話す。何でも話すから、兎に角、銃を仕舞ってくれ。頼む。彼の女の事なら、伯爵が・・・」
其処まで言い掛けた処で、銃を構えて躙り寄る鉄郎の背後から、無明の迅雷が砲落し、複眼レンズの頭蓋を撃ち抜いた。朽ちて傾ぐ卒塔婆の様に突き刺さった諸刃の直劍。工学反応を滅した電脳ボードから飛沫するアーク。雷撃の余韻に浚われ、氷変する館内の騒乱。
唔左治天河令作此百鍊利刀
武骨な剣身の棟に刻まれた金象嵌の銘文が、海嶺の亀裂から覗く岩漿の様に揺らめいている。電解合金とは毛並みが違う、剥落した皮鉄から覗く、炒鋼精鍛、古の心金。蓋石を断ち甦った副葬品の如き其の瘴気に鉄郎の脊髄は疼き、身に覚えのある絶望的な因果の磁力に引き擦り込まれる。
「全く、見苦しいにも程が有る。死は案の内の事。生は存の外の事也。看過道断、流星一衰の矜持。斬華倒弾に殉じてこそ男子の本懐。味噌も糞も無い似非忠義に、哲人君主と担がれる覚えなぞ無いわ。」
地の底から轟く音素の荒い恫喝に鉄郎が振り返ると、執務室を描いた額装の中から、機賊を束ねる鋳物の死神が生乾きの瘡蓋を剥ぎ取る様に身を乗り出し、瓦礫の白洲に降り立った。緑青の酸化被膜に蝕まれた頭蓋を穿つ爆心の如き隻眼。双肩から迸る夥しき猟奇。此の卦体な見世物小屋の真打ちに鉄郎は眼を見張った。機械仕掛けの下僕を睛圧する超常的な幽渾も然る事乍ら、無惨に破れ果てた其の変容。確かに此の漢は人間狩りを指揮して母を襲った機械伯爵に相違ないが、一体、此の奸賊の身に何が起こったと言うのか。華麗なる軍装は爆撃を掻い潜ったかの如く焼け落ち、右腕は肩口から切り落とされ、左脇腹の裂傷は脊椎にまで達し、背後のキャンバスが覗いている。事故や過失とは到底思えぬ、鋭利な切り口に残留する凄絶な殺意。而も、此程の致命傷を負っていながら、露出した患部は淫らな愉悦に煌めき、寧ろ生き生きと駆動している。此の死神は本物だ。死神は機物だった。己の身の破滅すら命の水か、地の塩か。メガロポリスの貧民窟で目の当たりにしてきた有りと有らゆる亡者も、鉄郎の凶弾を浴び、大理石の床の節目を舐めている義肢累々も、此の漢と較べたら気質の様な物だ。
鉄郎はゆっくりと銃を構え、リアサイトに浮遊するレイヤーに視認カーソルを走らせると、左右の瞬きでモードを切り替え、機械伯爵の隻眼に緋照を合わせた。アイスピックの如き一瞥で心の臓を鷲掴みにされた彼の時とは、此の身を巡る血の灼度が違う。
「男子の本懐だか、団子と善哉だか知らないが。お前達の仲が良いのは其れ位にして、今夜の大切なゲストに挨拶の一つもしたらどうだい。ええっ、機械伯爵さんよお。まさか、そんな糞みたいな口封じで、手打ちにしよう何て思ってないだろうな。此以上俺の用件を後回にされちゃあ、肩慣らしが済んで漸く調子の出てきた此奴が冷めちまうぜ。」
やさぐれた啖呵で口火を切る銃爪。インジェクターによる補正を解除した激甚する憎悪が銃口から決壊し、鈷藍の閃条が爆ぜる。例え此の一撃で奴の息の根を止めても構わない。其れがせめてもの弔いになるのなら。母の安否を度外視して迸る光弾のスパイラルが、仁王立ちで待ち構える標的を捉えて鬼道を馳せる。道楽が過ぎた報いだ。地獄の釜で身も心も鋳れ還ろ。嵩に罹った鉄郎の讐念。光芒が絶頂に達した其の時、火眼金睛、機械伯爵のモノアイが血走り、紅蓮の鋭気を発すると、面前の空間が膨脹して歪み、頭蓋に直撃すべき光弾は軌道を屈して、逸れた閃条が油彩の執務室を撃ち砕いた。
爆風を背に鉄郎の突き付けるアサルトのポインターを傲然と睨み返す狂爛のカドミウムレッド。常軌を逸するとは此の漢の為にあるのか。今迄も斯うして、何程の条理を捻子曲げて来たのか。鉄郎は一瞬氷血した熱狂の継ぎ目から、強かな随喜が込み上げてくるのを覚えた。理学の寸尺を虚仮にして、果ては電呪の誉れ有りか。怪相の輩も此処まで来ると神憑ってやがる。超常的な暴威に鉄郎は半ば見惚れ、梟雄への憧れが其の根を降ろしていく快痒に身を拒む術もない。此の香具師を前にしては正邪の詮議なぞ些末な言い掛かり。弱者の僻みこそ強者万能の証。神と悪魔の両性具有に、こんな玩具を振り回した処で、花に水を差す様な物。そうと判っていても、伯爵の放つ人の闇に問い掛ける磁力が、鉄郎の銃爪に息吐く事を許さない。
何が戦う機械になれだ。とぼけた事ぬかしやがって彼の女狐。此の物の怪が重機の膂力でどうにかなるタマかよ。鉄郎は綯い交ぜの鬼胎と官能を振り払い、蛮勇に飢えた銃口が再び光子の波動を慟哭する。悪への糾弾とも、神への冒涜とも知れぬ相剋に挑む鈷藍の閃条。併し、撃ち放たれた渾身の虚勢も、居丈高に建立する鋳物の化身には大旱雲霓。其の肩口の煤を払う事すら及ばず、モノアイの虹彩から迸る結界に屈して弾道は変節し、残像が減衰する間を与えずに銃撃し続けても、左右に逸れた流弾がキャンバス諸共、屋敷の躯体を誤爆するばかり。定格を超えて悲鳴を上げるアサルトの発振器。警戒色でレッドアウトするエアディスプレイ。層射重弾の感極まった其の時、
「喝ッ。」
伯爵の鼓した気焔雷魄の叱責が鈷藍の弾雨を一掃し、鉄郎を宙に吹き飛ばした。徒手空拳を一指も労せぬ怒濤の迫撃。一体、何がどうやって、こんな崇高なる悪徳を八つ裂きにしたのか。星を掴む様な気の遠くなる彼我の差を目の当たりにして、鉄郎は叩き付けられた大理石の床を馳せる衝撃波の残響に痺れる事しか出来ない。降り注ぐ瓦礫と湧き返る塵埃を透かして揺らめく隻影。砂型の禁を断ち息を吹き返したかの如く、昇煙を纏い歩を踏み出した伯爵の形相が、鉄郎の網膜に焼き付いた。
昔、夏之方有德也、遠方圖物、
貢金九牧、鑄鼎象物、
百物而爲之備、使民知神姦。
昔、夏の方に德有るや、遠方には物を圖き、
金を九牧に貢せしめ、鼎を鑄て物を象り、
百物にして之が備へを爲し、民をして神姦を知らしむ。
緑青の疥癬に犯された酸化被膜を走る無数の皺襞が、飽熱した集積回路の様に身悶え渦巻き、古代の文様を呼び覚ます。伯爵の削ぎ落ちた顴骨に浮かぶ貪婪なる獣神の綾並み。鉄郎は今、漸く得心した。此奴は何処ぞの僧侶が酔いに任せて被った悪巫山戯でもなければ、ビックテックの成れの果てでもない。饕餮の魔性に問鼎軽重を吹っ掛けるなぞ、血迷うにしても烏滸がましい。義肢の甲冑を打ち鳴らして歩む朽ちた砲金の魁偉。息の根の絶えた館内に噎ぶ、上顎に組み込まれたメタルフィルター。怯懦粉飾を射抜くカドミウムレッドの眼精。鉄郎は完全に此の漢の毒にやられていた。
「如何した鉄郎、其処迄か。其の若さで何を失ふ物が有る。死を賭して己の魂を満たさずに、何の立つ瀬が在ると言ふのか。
早歲那知世事艱 早歲 那ぞ知らん世事の艱きを
中原北望氣如山 中原 北望して氣 山の如し
起て、星野鉄郎。未だ何も始まつてはゐ無い。」
不意に己の名を暴かれて、鉄郎は原名調伏の鎖術に組み敷かれた。何故、伯爵が行きずりの孤児の素性を掌握しているのか。問い質す言葉すら支えて、其の緋き千里眼の睥睨に、畏怖とも神奇とも知れぬ眼差しを返す事しか出来ない。伯爵は朽ち果てた部下の前まで歩み寄り、象嵌の刻印から滴る火の粉を振り払って直劍を抜き取ると、メタルフィルターのカートリッジで濾した、解像度の粗い音源を舌鋒に、鉄郎を烈々と痛罵した。
「偉大なる母の血に泥を塗りたく無ければ起て。」
怒号が背に負う厳格な仁慈と悲哀の翳り。偉大な母と断言する其の真意。鉄郎が置き去りにされた吹雪の彼方で何が起こったのか。一生飼い慣らす事の出来ぬ慙愧の念が、断腸の牙を剥く。
「母さんを撃ったのはお前か。」
打ちのめされた不甲斐ない節々を詰りながら起き上がる鉄郎に、伯爵は高調したローファイのPCMを一旦低域に引き絞った。
「だとしたら?」
「巫山戯るな。そんな蒟蒻問答に一々味噌を付けてる暇なんてねえんだよ。」
白漠に散った血飛沫の泥濘に藻掻きながら、鉄郎がアサルトを構えると、伯爵は其の荒ぶる銃口に向かって一刀懲伐、振り翳した直劍を突き付けた。老竹色のカーボンファイバーを握り込んだ掌に走る石火の電撃。酸鼻な刺激臭を巻き上げて飴色に熔け落ちる銃身。五指に灼き付くグリップパネルを鉄郎が咄嗟に振り払うと、斬り裂かれた脇腹から絞り出す様に、伯爵は言の葉を継いだ。
「鉄郎、母に会ひたければ時間城に来い。氏と名を賜る漢に大人も子供も無い。貴様の旅は此処からだ。」
出会った事の無い、実の父親が託す訓戒の如き響きに、戸惑う鉄郎。
「時間城?本当に其処に行けば母さんに・・・。」
「漢の約束に証文なぞ無用。」
伯爵はそう言い放つと、片腕で大仰に直劍を納め、唯一弾雨を逃れた無人の油彩の前に歩み寄る。
嘉會難再遇 嘉會 再び遇ひ難く
歡樂殊未央 歡樂 殊に未だ央きず
「名残惜しいが、出発の時が迫つてゐる。然らばだ、鉄郎。」
饕餮の文身に彩られた屈強な背中が額装の中に身を乗り出すと、赤錆に暮れる在りし日の検査場に降り立ち、残酷な角度で追憶を画する光と陰の狭間に紛れていく。
「オイ、時間城って何だ。其れは何処に在るんだ。オイ、ちょと待て、此の野郎。」
物憂げな油彩の刷毛目に揺らめく、隻腕肋裂に傾いだ益荒男の後を追って駆け出す鉄郎。タブローの彼方に塗り込められていく伯爵の背中だけじゃない。額縁のレリーフが、剥落した壁を走る鉄筋が、折り重なる機賊の屍が、色を失い、輪郭も掠れ、合金と合成樹脂の灼け焦げた臭素と、立ち籠める粉塵諸共、其処に在る筈の実体の総てが稀薄になっていく。鉄郎の頬を張る一陣の白烈。ピアノ線の様に張り詰めた寒気が逆巻き、キャンバスに向かって振り上げた拳が空を切る。大理石と鉄筋コンクリートの厖大なる堆積が、松濤に微睡む砂絵の様に、驟雨を待っていた山鳴りの様に、漂白していく。胡蝶の夢に舞う鉄郎の小智。忽然と時空を割いて現れた伯爵の居城が、今再び忽然と無に帰していった。
憑依の去った巫者の様に白墨の渦を瞠め続ける鉄郎と、四辺不覚の雪原。最早、何を見失ったのか、何処が振り出しだったのかすら判らない。入り乱れていた憎悪と戦慄は胸骨を吹き抜け、身も心も絶界に塗した一粒の点描となって解脱した。誰かに何かを命じられた様な気がする。併し、それを思い出せた処で何をどうしろと言うのか。置き去りにされた荒漠一景。地吹雪が巻き上がるだけの総てが欠落した地の果ての果て。其の右も左もない無窮の圏外に、獲物を付け狙う猛禽の窃かな跫音が新雪を食む。
振り返ると、旋雪を鏤めた黒服の女が押し付けがましい微笑みを燻らせている。未だこんな処に居たのか。鉄郎は妖艶に揺らめく黒変種の蜻蛉に、屋敷が消えたのも此の傾城の為せる業であるやも知れぬ、と奇想して鼻を鳴らした。瞬き一つで反転し続けた虚実の取りを務めるのか、将又、更なる迷宮への露払いか。黒服の女は頬を棚引く豊髪を掻き上げた指先を口元に添えて呟いた。
「五体満足で戻ってこられるなんて、磐女の呪いが利いたようね。」
白魔を従え、冷やかしに来たとしか思えぬ悦に入った其の態度。一体今度は何を嗾けるつもりなのか。本来、帰る場所も身寄りもなく、こんな天涯の死地に見捨てられているのだ。唯一つ残された頼みの綱に怪事を付けている場合じゃない。そうと判ってはいても、こんな怨害の化身の様な黒猫に尻尾を振ってまで、澆薄の末世に縋って何になる。今此処で雪棺に臥したからとて土竜の生き埋め。誰に断る義理がある。鉄郎は女の挑発を袖にして、雪煙の舞う無明の彼方に意を凝らした。すると、
「時間城はトレーダー分岐点の排他的帝層帯域、ファクトヘイブンを漂流している銀河鉄道財団の電影要塞よ。最短距離で往ける星間特急を選んでいる時間は無いわ。
近江の海 波恐みと風守り
年はや經なむ漕ぐとはなしに
名前さえ書き込めば此は貴方の物よ。まさか、機械伯爵に逃げられましたで、引き下がるつもりじゃないでしょうね。」
鉄郎の鼻先に突き付けられた、黒革のパスケースが縁取る無限軌道の乗車券。記名欄の空白を透かして虹色に浮かび上がる999のホログラムから顔を上げると、女の賢しらな賤瞥が冷や水を浴びせ掛ける。野良犬にお手を強要する幻のチケット。鉄郎の胸倉を嗚咽とも嘔吐とも知れぬ異物が蠕動し、喉笛を衝いて零れ落ちた。
「お前は・・・・・・誰だ。」
足の踏み場もなく収拾不能で止め処なき夢魔の繚爛。一夜にして乱高下する運命の気紛れ。此は何かの罠だと罵る事でしか正気を保つ事が出来ない。
「私はメーテル。」
母に生き写しの女が子供をあやす様に蛾眉を解き、淑やかな口元から皓歯が綻ぶ。弥増す地吹雪に蹌踉めきながら鉄郎は吼えた。倒壊する世界の御柱、其の石据えに獅噛附き、声の限りに激昂した。
「名前なんか聞いてない。お前は一体何なんだ。」
重力から解放され、頂を競い合うナノ複合建材の摩天楼。癌細胞の様に増殖し続ける、規制無き都市開発の厖大な物量の氾濫を回遊する、プロジェクションマッピングの蹴汰魂しい街宣。統制と共有により最適化した交通システムを無視して、幹線道路を錯走するステルスモービルのドッグレース。管理区域外の荒天とは無縁な、完璧に気象征御された商用空域を蝗害の如く埋め尽くすドローン。軒を連ねる旗艦店舗のショーウィンドウで輪舞するアンドロイドのマネキン。昼夜を問わず遊歩道で絶世を謳歌する機族達の放埒な群像。
貧民窟の酒場に張り巡らされたオッズモニターが中継する燦然たる栄華の断片は、入場する術のない鉄郎の垣間見る事の出来たメトロポリスの総て。其れが今、心停止した状態で先入観から現実へと視界を擦過していく。弾丸道路の全車線を独占する孤高のジャイロブレード。メーテルが鞭を揮う半磁動鹿駆が、皓々と照らし出されているだけの死後硬直した構造物の峡谷をアークを飛ばし滑走する。綺羅星が犇めく機族達の絢爛たる雑踏は、999と思しき光源が舞い降りた宵闇の空を哨戒していたサーチライトは何処へ消え失せたのか。人の気配処かシグナルの瞬き一つ無い、永久凍土に封印された都市機能。鉄郎の憧れと憎悪を掻き立ててきたメガロポリスに一体何が起こったのか。
普段なら検問待ちの夥しい車列で塞がれた、選民と棄民を分別する入管ゲートを、メーテルとか言う女は無言で一顧だにせず突破して終った。にも拘わらず、自警団の装甲車輌が追撃に出動する様子もなければ、警報システムが反応した形跡すらない。こんな状況で本当に999は発車出来るのか。鉄郎は肩鋼骨を鞭で打ちのめされている機畜の放つポインターが、カーブ一つ無い真一文字の弾丸道路を射抜いて目的地を捕捉している事に気が付いた。入管ゲートからメガロポリス東京中央駅まで一直線に縦断する都市の動線。此の機人街の設計思想の中核が銀河鉄道株式会社だとでも。そんな、まさか。
神聖文字を刻む太古の碑石を模した天を衝く駅ビル。貪婪な機賊を睥睨する機械伯爵の如く、奔放な躯体のメガロポリス建築の中に在って一線を画す、皇然たる其の偉容が鉄郎の疑念に伸し掛かる。虚栄と乱脈を戒めるバベルの廃墟か、将又、幽霊列車を弔う御影石か。喪に服した摩天楼の葬列に機畜の蹄鉄と鞭の電撃が木霊する。凍結した時の流れを逆走する錯覚。左手で立ち橇の手摺りを掴んだ儘、鉄郎はPコートのポケットに右手を突っ込んだ。滑らかに指先を舐める黒革の磨き込まれたコバ。夢を掴んだ実感とは程遠い、拾った財布を懐に隠した様な危うさに、機畜の嘶きが突き刺さる。
駅前のロータリーに到着すると、メーテルはアタッシュケースを手に取り橇を乗り捨た。傷一つ、継ぎ目一つ無い、一枚床の広大な自動復元セラミックタイルを蹴立てるピンヒール。白亜の躯体が聳える列柱構造のエントランスホールに、在って然るべき発着のアナウンスも運休遅延のプロジェクションもなく、旅客も職員も消え失せた忘却の緘黙行に、中央改札を見下ろす吊り時計までもが、午後十一時五十九分で公務を失し硬直している。構内で乗車券を翳せば運行状況や乗車ホームと現在地の位置が面前に空間表示される筈だが、メーテルはパスケースを一瞥する処か、アンテナパネルに提示すらせずゲートを通過した。華美な装飾を廃し、洗練された機能美が整然と空洞化している各路線への階層。見上げれば首が痛くなる高さの吹き抜けに、何の準備も出来ていない宇宙へ旅立つ覚悟が呑み込まれていく。勝手知ったるとばかりに人を突き放した足取りで、99番線の表示を過ぎるメーテルの痩貌。後を付いていた鉄郎はふと立ち止まり、無人の構内を振り返った。
引き留める者も、思い残す事もない分際で何を戸惑う事が在る。彼の女狐の正体なんてどうでも良い。道は前にしかない。本当に己の求めている物が何なのかは、行き詰まってから考えろ。空転する立志のリフレインと、白磁の柱廊を爆ぜ、遠離るピンヒールの爪音。其れ等を不意に、野太い咆哮が掻き消し、鉄郎の粗骨な胸郭に轟いた。眼路を返すと、霞みがかった暗がりに黒装束と金髪の艶やかなコントラストが紛れていく。今の号放はまさか。鉄郎は鮮烈な直感に衝き動かされて、メーテルの滅した厚く垂れ込める仙娥の帳に駆け込んだ。清冽な涼気かと思いきや、熱気と煤燼で噎せ返る妖霧。炭と鉄の灼ける匂いで弥増す予断に誘われ、閉ざされた視界を突き抜けると、其処は、フィラメントの柔和な白熱に追憶の終着駅が照らし出されていた。
アングルとリベットで組み上げた軟鋼鉄骨の緻密なアーチが駆け巡る天蓋。凝灰岩と採光硝子のモザイクが奏でる重厚なアルペジオ。ロールアップした鋼帯が蔦う手摺と架台の葉脈。午前零時零分にのみ発車表記のある楷書の時刻表。頭端式プラットホームを縁取る白線のタイル。出立の巖頭に爪先を揃え、望郷と惜別の幻影が、溢れ返る水蒸気の噴塊を背負い立ち尽くす。一過星霜の大伽藍に再び感極まった号放が轟いた。夢の中で頬を張られた様な震駭。鉄郎は雄叫びの主を見据え、雲の上に揺蕩ふが如き99番線ホームを踏み締める。
伯爵の屋敷で遭遇した車輌と寸分違わぬ黒鉄の魔神、国鉄C62形旅客用テンダー式蒸気機関車。世紀を跨ぎ復活した車籍に鎮座するヘッドマークの“999”。何故こんな旧式の、と奇しく訝るより寧ろ、崇高な敬意が自然と湧き上がる。年に一度、宵闇の空に見上げる事しか出来ぬ、選民にのみ許された天空の方舟。無限軌道を統べる伝説の超特急に相応しい豪壮な機影が、今、眼の前で待機している。圧倒的な造形から迸る地獄の釜の如き熱量と磁力。柵の中に安置され火種を断たれた展示物とは訳が違う、器物を超えた気概に鉄郎は引き寄せられていく。
タールの水底から浮上した座頭鯨の如き、黒濁した兇躯のボイラーが暴発寸前の張力で漲り、猪首の突管から天を衝く煤煙と、開放された安全弁の放出する積乱雲の如き蒸気瘤の鬩ぎ合いに、ランボード下の空気圧縮機とシリンダードレンの呻吟が連鎖する。生きて帰れぬ旅路の予感と感傷を焼き尽くす、血起に逸る灼熱の息吹。構外に直立した腕木式信号機の遙か彼方を瞠活する前照灯。除煙板で遮られた煙室に翳る哲人の横顔。其の肌理の粗いフタル酸のタッチアップが、機械伯爵の超然とした鋳造の鋼顔と交差する。数百万光年を走破する無限軌道。果てしなき宇宙が啓示する存在と無の迷宮を、馬車馬の様に蹴散らす疾黒の弾丸。銀河を巡る未知の狭間で、此の熱暴走の隕鉄は一体どんな真理と遭遇したのか。到徹した悟性を秘めた傲岸な風格に、鉄郎は過酷な宇宙の片鱗を垣間見た気がした。
眦を上げると、ホームの支柱に設置された時計の針が、改札口の吊り時計同様、五十九分を指した儘、年に一度しかない列車の出発を、否、彼の女が乗車するのを待って静態している。99番線ホームのもう一人の主役が、荒ぶる蒸気を切り裂いて柳麗な妖姿を紐解いた。メーテルの嫋やかな足取りが向かう、客車のプレス製手動扉の前に独りの男が立っている。金釦と山吹のパイピングが映える紺碧のダブルに、車掌長の腕章と巡査章を配した寸胴短躯を深々と折り曲げ、最敬礼した帽章の桐紋と動輪。
「御待ちしておりました。メーテル様。処で、此方の方は?」
「新しいボディーガードよ。噛み殺されない様に気を付けてね。」
招かざる客の紹介に、制帽の鍔から覗く暗黒瓦斯状の頭部に点る二つの黄芒が、怪訝な相を帯びて萎縮し、ハアと一言、溜息の様な生返事を漏らしてから鉄郎に一礼した。
「乗車券を拝借します。」
車掌は慇懃にパスケースを受け取ると、
「星野鉄郎様・・・・。」
と呟いた切り黙り込み、乗車券に記名された持ち主の顔を取り調べる様に覗き込んだ。鉄郎が思わず車掌の視線から眼を逸らすと、客車の窓硝子に凍傷で爛れ炭を吹いた己の顔が映っている。
「後で角質蘇生シートを持ってきて。こんなコソ泥みたいな顔で車内を彷徨かれたら、折角の旅が台無しだわ。」
半ば叱責に近い指示を飛ばしメーテルは車内に消えた。開け放たれた儘の手動式扉に向かって、車掌が再び深々と頭を垂れる。
「畏まりました。」
疑う余地はない。彼の女は此の列車の主賓ではなく主人。誰も同乗する事のない御忍びの独り旅。そんな星間鉄道の聖域に迷い込んだ弧鼠の鉄郎は、整然と連なる十一輌編成の最後尾に随従する、巨大な見えざる影の隊列に胸が騒いだ。水泡で腫れ上がった凍傷の手に戻ってきた乗車券が謳うアンドロメダ巡礼。機械伯爵が待つと言うトレーダー分岐点の時間城。今更、何を迷ったら良いのかすら判らない。鉄郎は煮え切らぬ己が惰弱を衝き飛ばし、乗降デッキに踏み込んだ。
乳白色の張り上げ屋根に配した、二列の白熱灯が飴色に照らし出す、磨き込まれたニス塗りの木肌。仄かに湛えた液体ワックスの匂いが小鼻を擽り、板張りの通路が名の在る旧家に招かれた様な心地良い軋みを上げる。踏み締めただけで合板でないと判る此の感触。縹色のモケットを張ったボックスシートの背摺の木枠も、車窓を巡る壁板も、節のない単材を贅沢に使って仕上げられている。添えた手を、そっと握り返す古木の穏やかで厳かな風合い。世紀を超えて息吐く質実な作り手の想い。そんな旅愁を誘う意匠に服して、弔客の居ない葬列の如く通路を挟んで連なる、誰も座る事のない空席の陰から、棘の数しか取り柄のない例の耳障りな声が飛んできた。
「何時までそんな処に立っているつもりなの。」
モケットの木枠から覗く露西亜帽と、網で編まれた本物の網棚に置かれた馬革のアタッシュケース。欠席の会葬者達は喪主のヒステリーを完全に黙殺している。不承々々、誰を悼うのかも知れぬ告別式に罷り出る鉄郎。彼の黒いのに此以上ガヤを入れられたのでは、浮かばれる物も浮かばれまい。車窓の上部に振られた律儀な座席番号。何処に座ろうと自由な筈だが、鉄郎は敢えてメーテルの正面に対席した。挑む様に窓外を睨み付けた儘、腰を下ろす優待席。乗車券の恩義を蹴り返す様に足を組んで、ハイ、其れ迄。御悔やみの言葉なんて無い。額を押し付けた強化硝子に映える喪服に身を窶した深窓の佳人。黙ってさえいれば花も恥じらい星も消え入る、此の女にのみ許された固有形容詞の如き美しさに息が詰まる。況してや、母と見紛う其の面影。合わせ鏡の罪と罰に、思わず声を張り上げて燃え尽きてしまいそうな慙愧の岩漿を、蹴汰魂しい電鈴の連打が掻き消した。過電流を吹き込まれてデッキ扉のスピーカーが激白する低域の割れたアナウンス。
「午前零時発、99番乗り場、アンドロメダ行き急行999号発車します。」
旅が始まる。否、始まってしまう。此れは人生の出発なのか脱線なのか。無人のプラットホームを劈くホイッスルの舌鋒を合図に、緩解するブレーキシリンダーの慨嘆。満を持して雄叫びを上げる野太い二声の長緩汽笛に、ドームの屋根が順風を孕む帆布の如く張り詰め、アングルで編み上げられた鉄骨の枝葉末節が共鳴する。塞き止められていた時の流れが溢れ返る新しい年の幕開け。今更、待ってくれと切り出した処でどうにもならぬ震駭と熱波の奔流。高圧水蒸気で漲る鋼鉄の鯨背が隆起し、豪快なドラフトの鼓動を轟かせながら、直径1,750 mmを連ねた大動輪の繰り出す不貞々々しい巨人の一歩が鉄路を掘削する。座骨を衝き上げる力強いトルクに粛然と押し流されていく鉄郎の運命。最早立ち止まって振り返る事も許されず、乗客という当事者としての自覚をも置き去りにして加速するメインロッド。
自分は一体何処へ連れ去られようとしているのか。未知の世界で待っている新しい出会い。夢と希望に満ちた無限の宇宙。そんな御花畑のピクニックとは程遠い、護送車輌の殺伐とした遽動。漸く此の文明に呪われた死の星から御然らば出来るというのに、時めきの一欠片すらなく、彼程、想い焦がれていた筈の瞬間に愕然としている。現実以上の現実に追い付けない意志と、逆方向に拘引されていく肉体。鉄郎の虚ろな表情を映した窓硝子を限るプラットホーム諸共、押し付けられた唐突な未来が強制スクロールしていく。
本当に此で良いのか。自分に此の星から旅立つ資格はあるのか。血の海に消えた母を救い出せると心の底から信じているのか。鉄郎、抑もお前は人に胸を張って誇れる何かを成し遂げた事があるのか。今の今迄、母の背中越しに人生を傍観し続けてきた落ち穂拾いの分際で、一体何を乗り越えられると言うのか。そんな拾い物の乗車券で何処に辿り着けると言うのか。出世払いで払える程、無賃乗車する冒険のツケは甘くない。
集煙装置を廃した剥き身の突管から怒髪天を衝く煤煙が、鋼殻で擬した天蓋を埋め尽くして棚引き、シリンダーから迸る憤怒の激蒸がランボードを掻き上げて、赤腕の斜傾した信号機を振り切ると、煙室ドアの頂く前照灯が瞬き、一気に啓けた視界を輻輳するメガロポリスの摩天楼に、鈾硝子を透過したカクテル光線の日輪が降り注ぐ。鉄筋コンクリート・ラーメン高架橋が迫り上がり、陸路から空路へと巨大竜脚類の如き鎌首を擡げる無限軌道。成層圏を仰いで聳え建つ急勾配の橋脚に導かれて、黒鉄の魔神が重力を逆送する。
地上から引き剥がされていく未曾有のパノラマに、鉄郎は矢も盾も堪らず窓を押上げ其の身を乗り出した。目眩く虚栄の限りを尽くした機族趣味の建築群。眼下を見渡すと、999が発車するのを待っていたとでも言うのか、自警団の自律装甲車が巡回に繰り出し、幹線道路の車線流動システムと無段連結ジャンクションが復帰して、戒厳令を解かれたかの様に都市が起動し始める。此の眼に焼き付ける最後の景色が、見え透いた小細工の種明かしとは、気の利かない奴等だ。そんなにも此の御料車輌が恐れ多いのか。巨人の肩を借りて見下ろす機族達の牙城。ブートメニューを曝した儘、ナノ複合建材の峡谷をプロジェクションマッピングが彩り、夜降ちの行幸を崇め仰ぐ素振りさえ見せずに、鋼僕は地辺汰を這い擦り回っている。
煤煙を蒸し返して翻る窓外に鼻膜を突かれ、鉄郎は充血した目頭に不覚にも込み上げてくる熱い物を、加速し続ける戸惑いと結びつける事が出来ない。不意の汽笛に凍傷で黒変した頬を張られて振り向くと、サーチライトが再び哨戒し始めた虚空に忽然と鉄路が途切れている。アッと声を上げる間もなく、万有引力の圏外に飛び発つ銀河の方舟。軌条を駆る動輪の鼓動が弛緩し、気圧と音圧の大瀑布が擦過して風塵に帰した。
一直線に天頂を目指すの十一輌編成の車列。メガロポリスの蕩尽に飽かせた燦爛たる光源が、緻密な点描となって遠離り、禍々しさの薄れていく其の栄華を、管理区域外の暗黙が見渡す限り取り囲んでいる。絶望的な闇の何処かに埋もれている、母と過ごした一間の記憶。此の星の中で唯一別れを告げておきたかった愛惜の我が家に鉄郎が眼を凝らすと、無限軌道は気象征御網を突破して暴風雪の弾幕に呑み込まれ、手を翳し顔を背けようとした迫間に雲海を抜けて、十三夜に満たぬ孤航の寒月が新世界の宗主の如く現れた。粒子状物質の呪縛から解かれ澄み渡る大気。初めて眼にした天体の宝庫が宣告する地表との決別。鉄郎の原風景も祓い清められた芥子粒となって、本の束の間の追憶すら叶わない。廃材を寄せ集めた折り紙が、酸性雪を転がして積み重ねた雪達磨が、笹の葉を模して灌木に吊す短冊が、数千億の煌めきを湛える銀河の水脈に没し、塵想を断つ絶天の超望。壮大な時空を超え到達した光矢を反射して、弐百萬コスモ馬力を誇る黒耀の駆体が徐に旋回する。
太古黎星爛盡尽 太古の黎星 爛として無盡
長天一月滅後煤 長天の一月 後煤に滅す
鉄郎の番を逸した頤から零れる歎舌。眼下を反転し弓形に乾坤を分かつ漆黒の水平線に一縷の輝裂が走り、此の星系を司る天津日の来光が無穀の大地を染め上げる。海原との見境無き灰褐色の堆積と沈澱。死灰に塗れた巻雲と気流。蒼い星と呼ばれていた頃の面影など何処にも無い。五大陸の各地に点在している筈のメガロポリスすら、枯葉に埋もれた独片の紅葉。落魄した其の様を太陽に暴かれる儘に暴かれて絶息している。悪趣味な天体ショーを破格の出力で遊覧する20世紀の精霊列車。スペースデブリの銃撃を蹴散らしながら周回軌道を越え、人類を堕胎した母なる星の全貌が視界に納まる距離まで瞬く間に翔破して、重力の追随を許さない。
窓外に身を乗り出していた筈の鉄郎は、何時しか絶海に打ち捨てられた漂流者の様に窓枠にしがみついていた。永遠の輪廻を巡り巡っても測り知る事の出来ない無量無辺の宇宙に灯された一抹の太陽系第三惑星。其れは余りにも卑小で、砂が地球の欠片だとしても、地球は宇宙の欠片ですらない。地表からは窺い知る事の出来なかった厖大な銀河の雲塊は、廃屋から掘り起こした図鑑で観た絵葉書の様なスナップとは訳が違った。余りにも底知れぬ不気味な実体に、鉄郎は悪寒と吐き気を堪える事しか出来ない。其れは存在の皮を被った不条理に対する知覚過敏なぞと言う御上品な代物ではなかった。グロテスクと一口に言っても、行き倒れの腸を貪る蛆虫の群像ですら、快活な精力に溢れている物だ。なのに此の途方もない星々の世界は、人の心を全く寄せ付けぬ瘴気を湛え、昏々とギラ付いている。天を大公無私にして聡明神智なる物と崇めた先人達の錯誤。創造主の厳格な啓示も、慈愛に満ちた眼差しも、救済も断罪も無い。天界の一里塚に刻まれた解読不能な完黙の洗礼。得体の知れぬ茫漠に呑まれていく地球を目の当たりにした鉄郎は、初めて其の尊さを思い知らされた。
シールドされた無限軌道の外へ一歩踏み出せば、物の十数秒で永遠に意識が飛ぶ、微生物でもない限り生存不能な彼劫滅却の世界。星々を股に掛ける冒険と浪漫を謳うのは、地球に帰れる当てのある好事家達の御惚気でしかない。文明の老廃物と決め付け罵り続けた死の星が、今、引き離されるほど胸に迫り愛おしい。在りし日の輝きを失い、汚辱の限りを尽くしても、水と大気を宿した地球が生命の奇蹟で在る事に一片の翳りも無く、其の健気な姿は理不尽な迫害と苦難から身を挺して鉄郎を護った、気高き母と重なり合う。地球を脱出すれば自由になれると夢想していた。此の宇宙が突き付ける無限の自由には錨を降ろす場所も、錘鉛を吊して測る上下も、命を繋ぎ止める何物もないとも知らずに、限られた境遇の中で人事を尽くし、掛け替えのない今、此の時を全うする事から眼を逸らしていた。
999渾身のドラフトがシリンダードレンの放咳を蹴立てて母なる星を後にする。不可解な隕力に引き擦り込まれていくだけの、銀幕に投影された他人事の様な疾走感。不吉な威容を誇示する人智を超克した銀河の奔流。慙愧にまみれた地球への恋慕が交錯し、虚けの如く昇魄した鉄郎を、旅の狂言師を気取った連れ合いが半笑いで囃し立てる。
見渡せば神も岩戶もなかりけり
高天原の虛の彌果
背摺の木枠に露西亜帽を傾け、淫らに吊るし上げた眦が愛でる窓外の天玄洪荒。其の輝ける闇に毛足の艶やかなフォックスコートが溶け出して、滝津瀬の如き琥珀色の垂髪が雪崩れ落ちる。客室の慇懃なる調度に和して、美しく瓦解した比倫を絶する不埒な気品。永遠の夢路に封じ込められた時の旅人か、将又、心の羅針を惑わすセイレーンか。鉄郎にはメーテルと言う女の存在が、宇宙の謎、其の物に見えた。
鯨背に煤煙を棚引かせ吼え立てる鋼顔の銀河超特急。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。無法無窮の大海原へと脫輪した運命の轍。晦冥を畫す車窗の閃きは走馬燈の如くして、既視轉生の錯誤に目眩く。
墜入天網 幾銀河
航航歲歲 星又星
光脚を凌ぎ、緘默を貫く無限軌道。絕望から産み落とされた遙かなる旅の始まり。稀望の缺片を數へる事すら儘ならず、唯、黑耀の女神が手向ける魔性の微笑みを睨み返す。限りある命に瞬く泡沫の靑春。數畸を究める鉄郞の行く末、果たして相成るや如何に。其れは復た次囘の講釋で。
2019-08-24 09:57
nice!(0)
コメント(0)
コメント 0