SSブログ

2023-03-06-2

 
 
 かはづの嘲笑も茶臼山の笹やきも消え失せ、大気制御と人工重力で整備された、支配区域の高圧的な管理モニターの視線が、鉄郎の第六感に降り注いでいる。舞ひ上がつた砂礫を被り、何かに獅噛憑しがみつかうとした指の腹に喰ひ込む、チェッカープレートの冷徹な縞目かうもく。板の継ぎ目をなぞると、適当なピッチで仮止めしただけのタップ溶接に、フタル酸の錆止めで一刷けしただけの手荒なタッチアップが、杜撰な施工を曝け出してゐる。と云ふ事は、此処はアングルとチャンネルで組まれた仮設のプラットホーム。紛ふ事無き、無限軌道の執着駅。鉄郎は舞ひ戻つてゐた。元の時代に。何もかも無かつたかの様に引き戻されてゐた。光を置き去りにして。
 鉄郎の瞳に再び視神経の息吹が吹き込まれる事は無かつた。黒鉄の魔神が発散する絶倫の旺羅わうらが直ぐ其処で蠢いてゐると云ふのに、闇には一切のくぎりが無く、怒張したボイラーの気配に耳を傾ける事しか出来無い。鉄郎は認めるしか無かつた。もう二度と、元の自分には戻れ無い。併し、其れも又、しかり。
 
 
     夢とこそいふべかりけれ世の中に
        うつつある物と思ひけるかな
 
 
 一度此の瞳をぢて終へば、夢もうつつも、時間も空間も、心も躰も分け隔ての無い絵空事。時刻や日付で切り刻む事の出来ぬ、季節の営みと、日月の満ち欠け。梢の笹やき、洗い立ての衣擦れ、潭潭たんたんとした井水ゐすいの静謐と過ごした棚機たなばたゆふべ。世界は、此の指先ででる肌触りと温もり、にほひとかをり、大らかで実り豊かな言の葉の響きで溢れ、立錐の余地も無かつた。合理化の津波に破壊される前の神神のことばと戯れた奇跡の夜。心の襞にそよぐ言の葉の鈴生すずなりが短冊を彩り、枕詞の手触りが形作る人人の心と心。其れに引き換へ、
 尻切れ蜻蛉の無限軌道が独りちる無様な云ひ訳が、呑み棄てられた缶コーヒーの様に無人のプラットホームを転がつてゐる。此処には大地の鼓動も産声も無ければ、手と手を合はせて祈りを献げる願ひの欠片すら無い。瞑れた瞳であふいだ七夕の空に、こんな食ひ散らした産廃が紛れる事になるとは。宙域共同開発、テラフォーミングと云ふ看板倒れの言葉で、徒に資源を愚弄した星の成れの果て、人の成れの果てに、鉄郎は耳を澄ました。不離一体のことばを破壊されて、打ち砕かれていく人人の心。己の心を語ることばが破壊された事すら理解出来ず、破壊を逃れた古語をあしき因習と踏み躙り、人人は自ら滅んでいつた。ことばの復興無くして心の復興は有り得無い。此の旅はことばの欠片と心の欠片を集め、繋ぎ止める巡礼の旅だ。聞こえる。999の汽笛が。んでゐる。999が俺を喚んでゐる。助けを喚んでゐる。合成義脳の言語モデルでは無い血の通つた魂の咆哮。999の汽笛が何を狂ほしく叫んでゐるのか鉄郎は今初めて聞こえてきた。迎へに行かう、皆を。此の追憶の列車で。
 鉄郎は熱きシリンダードレインのしわぶきを頼りに歩き出した。4.5mmの安価な縞鋼板に鳴り響く辿辿たどたどしい跫音。シャークソールの刃がホームの縁をみ、指先がフタル酸錆止め塗膜の鋼体にれると、スハ43系の客車に抱き付きいて、ボイラーの漲る機関車の方向へと這つていく。窓硝子に擦り寄せた頬に伝わる朴訥とした車体のフォルム。母の胸で甘える様に、今は唯、何もかもが愛おしい。乗降口から車内に潜り込んだ鉄郎は、手探りで貫通扉を開け、人の手でシットリと磨き込まれた、ボックスシートの木枠の角を独つ独つ慈しみ乍ら進んでいく。モケットの滑らかな起毛の温もりで満席の二等客車。覚束ぬ伝ひ歩きを励ます様に、床板の柾目まさめが声を忍ばせて寄り添ひ、我等も旅の道連れと許りに、先へ先へと導いていく。気兼ねの要らぬ旧知の交情。相和して共に歩んだ日日の随想に、却つて膝が砕けさうになる。併し、其の些些ささやかな介添へも束の間、炭水車を潜り抜けると、混濁した熱気が鉄郎の頬を張り飛ばした。配管とバルブの其処彼処そこかしこから漏出するたぎり立つた水蒸気。限界圧力に達して運転席が飴の様に歪曲してゐる。動力が復活したのは良いが只事では無い。恐る恐る爪先でフットペダルを探り踏み込むと、半割の焚口戸たきぐちどから逆巻く火柱が鉄郎の前髪を焦がし、咄嗟とつさに二度踏みして切り替わる躙り口。鉄郎は足許に空いた、猫の額程の洞穴から一転して吹き抜ける不穏な玲気に苦笑ひを噛み締め、乾坤一擲、頭から滑り込んだ。
 無限軌道の宙域情況を網羅し、黙黙と統合管制機構を差配する、999の胎内に宿した小宇宙。其の銀河鉄道株式会社の社外秘で集積化した走る聖域が、猛烈な過積解析の躁乱に呑まれてプラズマの茨に覆はれてゐる。
 「螳吝沺髢狗匱繝励Ο繧ー繝ゥ繝?繧貞?闊医○繧医?」
 完全に自律制御を逸した機関室の合成義脳。
 「螳吝沺髢狗匱繝励Ο繧ー繝ゥ繝?繧貞?闊医○繧医?」
 演算処理のシーク音が騒霊ラップ化して鉄郎の耳骨を掻き毟り、天地を埋め尽くす多針メーターのアラームが方位無法に飛び交つてゐる。
 「螳吝沺髢狗匱繝励Ο繧ー繝ゥ繝?繧貞?闊医○繧医?」
 何が起こつてゐるのか、何から手を付けて良いのか判らず、殺到する欺態信号に猛烈な拒絶反応で応戦してゐる、合成義脳の核種コアへと吸い寄せられていく鉄郎。すると、心神喪失の機関室が唐突なアナウンスを連呼した。
 「列車防護無線解除。列車防護無線解除。0番乗リ場、折返シ、メガロポリス東京中央駅行キ、999号、発車シマス。列車防護無線解除。列車防護無線解除。0番乗リ場、折返シ、メガロポリス東京中央駅行キ、999号、発車シマス。」
 テキストデータの字面をなぞつただけの平坦な算譜厘求サンプリングボイス。鉄郎を靴底から突き飛ばす様にブレーキシリンダーが連動し、メインロッドをからげて繰り出す巨人の一歩が廃線同然の鉄路を踏みしだく。連結器の鉤爪が軋みを上げ、鋼顔の十一輌編成が傲然と匍匐ほふくし始めた。臨界に達して震騰するボイラーの激蒸。プラットホームをつんざ指差喚呼しさかんこのホイッスルも無く、串刺しの儘のアルカディア號を横目に、ドラフトの鼓動が銀瀾の坩堝へ突進し、行程外の運行スケジュールへと加速していく。行かせてはいけ無い。999の意思では無い何物かに取り憑かれて雪崩れ込む強行軍が暗示する死屍累累ししるいるいわだち。兇変した疾黒の弾丸特急が目指すのは終末の欠路だ。鉄郎には聞こえた、絶息寸前の999の声が。何故、乗車券を失効した無銭乗者を此処へ喚んだのか。999から託されたことばちいさく頷き、盲目の代弁者は決然と振り返つた。
 「フッ、相変わらず仕事熱心だこと。」
 暴走する出力に必死の抵抗を続ける機関室に吐き捨てられた不貞不貞しい雅語。主任とりを務める華客くわかくは既に出番を待つてゐた。花道を渡つた気配も無く、忽然と舞い降りた白檀のヴェールをプラズマの茨が焚き染め、ピンヒールの剣先が地に堕ちた聖域を踏み躙る。
 「封印を解かれた途端、職務に復帰為るのだから将に社畜の鑑ね。システムと同化してまで戦略核因子クラスターの侵攻を防いだ挙げ句、其の儘、戦略核因子と交配して帯域覚醒自我のアダムに生つた、我が社の英雄が、公務と称して彼の子を雁字搦がんじがらめに縛り上げた、基地局のプロテクトを破壊して、帯域制限の人柱から解除してくれるなんて。其れがめてもの罪滅ぼしのつもりなの。財源の穴埋めや、赤字の補填ぢや在るまいし。血を分けた家族は欠員を補充する様にはいか無いのよ。さあ、何処に居るのメーテルは。還るのよ、地球に。私達の地球に。私のメーテルを何処に遣つたの。」
 鉄郎の瞑れた眼裡まなうらに浮かび上がる闇黒の死装束と金絲雀カナリヤ色の乱れ髪。汚泥の様に混濁した殺気にまみれ、悲劇に酔ひ痴れる語り部に、愛娘の絶叫が錯綜する。
 「御母様、私は此処に居るわ。聞こえて、御母様。私は何処にも行か無いわ。御母様、御気を確かに。」
 メーテルの意識が復活し、鉄郎の母の躰に我が子と相乗りして彷徨さまよ女物狂おんなものぐるひあづまくだり。正気に戻る事も涅槃に至る事も出来ずに擦れ違ふ母子の愛惜と、上書きされて分裂した自我が、寿命を迎へた洋燈らんぷの様に明滅してゐる。素人狂言にしても質の悪い、独り芝居の奇想な修羅場。其の足許で何かが転がり、粒の粗い途切れ途切れのPCM音源が最後の力を振り絞つた。
 「鉄郎、撃て、プロメシュームを撃て。迷ふな。見定めろ。真の正鵠せいこくを。」
 討ち棄てられた伯爵の生首が、頭を下げる事すら儘ならぬ其の身を挺して訴へる魂の介錯。およそ、親の仇が頼み込む類ひの事では無い。鉄郎は戦士の銃に手を掛けた儘、翼を捥がれた瀕死の宿敵に息を呑んだ。私憤を晴らし、遺恨に終止符を打つのは容易いが、此の漢が鋳造の饕餮たうてつに身をやつしてまで護ろうとする信義には何のとがも無い。
 「999も最早、黙示録に綴られた悪魔の刻印だ。此の列車は天地を逆しらに走つてゐる。鉄郎、此の女を母と思ふな。撃て。然して、999を・・・・・。」
 宙域の覇権を征した益荒男ますらをは朽ちてなほ、傑出してゐた。尽きる事を知らぬ、かなへの湧くが如き決死の勇渾。伯爵は此の母子を巡る銀河鉄道の罪荷つみにを一身に背負い込んでゐる。其れをプロメシュームのピンヒールは渾身の足拍子で打ち砕いた。一瞬で闇の彼方に滅した伯爵の電脳周波。此の漢も走る黙示録から迷へる子羊を救う為、余りにも険しい神の道を諦めた大審問官の独りだったのかもしれ無い。父の顔を見た事が無く、母の優しさと父の厳しさ、権威と権力の両輪を知らずに育つた鉄郎に取つて、伯爵は行き摺りの凶漢を超え、星の海を自力で渡る先達として何時しか其の影を追つてゐた。何故もつと早く気付かなかつたのか。カドミウムレッドの眼差しに何時も背中を押されていゐた事を。ピンヒールになじられ床の上を爆ぜる斬首の破片。伯爵が此の終末列車の乗客に鉄郎を選んだ遺志が、小兵こひやう吐胸とむねに突き刺さる。
 独り、復た独りと退場し、シテとワキの二人が残つた制御不能な激動の舞台。天の河原の早瀬を渡り、水入らずの再会を庶幾こひねがふ母子に、破綻した筋書きが乱筆を揮ふ。
 「地球に残れば良かつた。然う気付いた時にはもう遅かつた。此の男は壊れてゐる。否、此の機械は壊れてゐる。然う気付いた時には、彼の子も壊れてゐた。」
 感極まつた鬼子母の更なる足拍子に、無限軌道から脱輪する程の激甚で波打つ機関室。譫妄せんまう状態のプロメシュームは合成義脳に背乗りした亡夫と鉄郎を混同し、見境無しに吼え立てる。総ての分別が崩壊し、原型を失つた我が子への執着。鉄郎の母が高潔な求道心ぐだうしんで押し殺してゐた女のさがが口寄せる狐憑のヒステリー。
 「クルーへの感染をおそれて焼却処分したメーテルは何処。スペアノイドに換装しては破棄した私のメーテルは何処。地球に戻る事も、生身の体に戻る事も出来ずに、名前も記憶も書き換えられた彼の子を何処に遣ったの。貴方がメーテルを殺したのよ。其れも、一度ならず二度迄も。」
 「違うわ、御母様。御願ひだから私の話を聞いて。御父様は最善を尽くしたのよ。焼却処分されたのは私だけぢや無いわ。ああ為るしか無かつたのよ。システムに身を投げて人柱になつたのも、コロニーと残存帯域を護る為ぢやない。何故、判つてくれ無いの。」
 賽の目の様に反転する自我が、噛み合わぬおもひを焦がしてあざなひ、傷付け合ふ骨肉の相克。母と娘のモンタージュを掻き混ぜたパズルに答へは無い。機関室を埋め尽くす多針メーターの風防硝子が次次と破裂し、増殖する怪周波。帯域制限の治外法権と化した此の暴走列車に、電脳中枢を蚕食さんしよくする魑魅魍魎ちみまうりようが続続と集結してゐる。富士壺の様に寄生した幽機化合物に悲鳴を上げる999。此の儘、基地局を破壊し乍ら地球に突入するつもりか。無限軌道のプロテクトを護り抜くにはメーテルのちからが必要だ。併し、満身創痍の筐体に、聞く耳を持たぬ女物狂の足拍子が、怒濤の追ひ打ちを叩き込む。プロメシュームの愛憎に泥濘ぬかるんだエクスタシー。
 
 
     もとよりもちぎりのかりなる一つ世と
           物狂ほしく舞ひて弔へ
 
 
 プロメシュームの愛憎に泥濘ぬかるむエクスタシーが暴発した汽笛とシンクロし、恍惚の禹歩うほで輪舞する弱竹なよたけの蜂腰。プラズマの茨に帯電し逆立つ鳳髪。我が子の為に、面白う狂うて見せさうらふ、人事不省で咲き乱れる夢芝居。混じはる血潮が濃い程に、何故なにゆゑ、人は傷付け合ひ、苦しまねばならぬのか。真綿の様に締め上げる親と子の絆。妄執と官能が寄せては返す曲舞くせまいの緩急に、何処いづこかで囃子はやしの声す耳のやみ
 「鉄郎、私を撃つて。御母様は正気ぢや無いわ。撃つて。然して、999を・・・・・。」
 プロメシュームの酩酊した意識を縫つて泣き叫ぶメーテル。鉄郎は腰のホルスターから霊銃を抜き取ると、踊り狂ひ乍ら躙り寄る、演目を忘れたシテに向かつて諸手に構へた。無論、本人の意思では無い。鵲が伯爵の遺志を継ぎ、降魔の本性を現した。鉄郎をあまねく神経の梢に降り立ち、黒耀の翼を広げ千早振ちはやぶ魍禽まうきん。躰の自由を奪はれ、光弾の反動に備へ腰を下ろし、銃爪ひきがねを甘噛みする人差し指。調伏に逸る呪能が手首から肘へ電導し、顔を背ける事すら許さ無い。鬼界の淵を徘徊する憑き物を、情理に惑う主君に代はつて撃ち滅ぼす、出過ぎた忠義。確かに、血迷ふ鬼子母をさとことばに心当たりなぞ有る訳も無く、此以上、物狂ひに母の躰を蹂躙される位なら、此の手で死に水を取るのが何よりの孝養。総てが遅きに失した今、此の地獄絵図から手厚い回向ゑかうに導くのが子の務めだ。併し、
 だからと云つて、ハイ、然うですかと煮えた鉛を呑み干せるものか。何が母と思ふな、迷はず撃てだ。何が御母様は正気ぢや無いだ。其処に居るのは御前等の母親でも無ければ、悪の元凶でも標的でも無い。俺の母さんだ。身内の喧嘩なら家で遣れ。何故、母さんがこんな糞塗れの尻拭ひをしなければならぬのか。銃を構へたまま藻掻き苦しむ鉄郎の正面に、足拍子の恫喝で立ち開かるピンヒール。忿怒の震撼にフォックスコートの毛足が騒めき、はらわたから煮え滾る過呼吸が鉄郎の頬を面罵する。星の鏃と謳はれて、嘴烈しれつを極める銃口を塞いで圧し返すプロメシュームの凄絶な鬼魄。最早、一刻の猶予も無い。業を煮やした銃爪が、思考停止した主の人差し指を待たず、先手を打つて発莢はつけふした。何もかもが心を失ひ、盲爆する負の連鎖。鉄郎は咄嗟に鵲の首を鷲掴み、心の臓に爪を立てる一刀彫りの銃身諸共、足許に叩き付けた。床の上を爆ぜ、皇弾を喚き散らして垈打のたうつ黒耀の彗翼。プロメシュームを逸れて撃ち抜かれた機関室が無限軌道を乱高下し、雷火を散らす合成義脳。阿鼻叫喚の終列車は緊急停止信号を振り切つて、破滅への臨界曲線を駆けのぼる。
 誰も収拾する者の居無い、嗜虐と暴戻ぼうれいの解放区。其の潰乱を微動だにせぬ、プロメシュームの手の中で光励起サーベルが起動し、伯爵をなますにした雷刃を大上段に振り翳した。鉄郎の頭上で唸る虹周波こうしうはの発振音。プロメシュームが何事か喚いてゐるが、鉄郎は既に耳を貸す気は無かつた。何故、此程の苦しみを独りで背負い込んだ母さんが罰せられねばならぬのか。母さんをこんな目に遭はせたのは誰だ。吹雪の中で怖ぢ気付き、母さんを見捨てたのは誰だ。総ての罪は己に有ると云ふのに、此の手で母さんを手に掛ける等、有り得無い。罰せられるべきは此の俺だ。母さんの手で此の罪を罰して貰へるのなら正しく本望。狂つた儘で良い。メーテルの姿の儘で良い。生きてゐてくれさえすれば其れで良い。此で総ての罪を償へる。ようやく追い付いた。己の罪に。今の自分は彼の時の自分とはもう違ふ。星野鉄郎は此の宇宙で唯独り、伝世の純血を引き継ぐ母さんの息子だ。無様に命を乞ふ位なら、こんな血筋の一本や二本、途絶えて終つて構は無い。鉄郎は伯爵の云ふ通り迷ひを棄てた。
 
 
    しぬるは案のないの事。いきるは存のほかの事。
 
 
 彼の鋳物の糞爺も洒落た事を云ひやがる。然う、北叟笑ほくそゑんだ鉄郎の前髪と鼻筋を、振り降ろされた光量子の斬つ先が掠め、氷血した心の臓を、プロメシュームの断末魔が貫いた。漂白した時の狭間に放置された鉄郎の覚悟。生きているのか、死んでいるのか。此の世の物とも、彼の世の物とも付かぬ闇の中に、切れ切れの母心がくずをれた。
 「メーテル・・・・・・・、何故、何故、私を・・・・・・私は御前をこんなにも・・・・・・・。」
 鉄郎に向かつて崩れ落ちる失意の鳳髪。其の喪身を抱へ込んだ鉄郎の手に、プロメシュームの握り込んだサーベルから伝ふ、熱い血潮が滴り落ちる。
 「帯域制限の突破口を見出して、999に電劾重合体が集結しているわ。此が最後のチャンスよ。鉄郎、御願い、999を、999を破壊して・・・・・・。」
 自ら胸を貫いたメーテルの喘ぐ吐息が鉄郎を包み込み、闇の中で唇にれた冷たくふるへる白檀と口紅の苦りに、潺潺せんせんと頬を伝ふメーテルの紅涙が入り交じる。
 
 
     ちる花をなにかうらみむ世の中に
        わが身もともにあらむ物かは
 
 
  「左様なら、鉄郎。」
 メーテルが身悶え、宙を舞う鳳髪。黒耀の魔女が初めて垣間見せた、擬造される前の少女の素顔。無限軌道と少年の唇を駆け抜けた青春の幻影。其の薄れていく白檀のヴェールの向こふから、懐かしい匂ひと温もりが息を吹き返してくる。握り締めた生糸の様なメーテルの掌が、角質化して逆剥けた優しいごころへと移り変はり、真逆まさかと思つた、将に其の時、
 「鉄郎。」
 忽然と原名で喚び起こされ、眼を覚ました少年の驚愕。たとへ此の眼はつぶれても、聞きたがえる訳の無い母の声が闇を斬り裂いた。討ち果てたメーテルの呪縛からき放たれ、復元した母の実体。全く予期せぬ僥倖げうかうに虚を衝かれ、理解の追ひ付かぬ鉄郎。裏切られる事が恐ろしく、俄に信じる事が出来無い。其の可憐いぢらしい戸惑ひを突き破つて、
 「母さん。」
 ことばを度した無上の激語に胸が張り裂け、何物にも負けまいと必死で奮ひ立たせてゐた血意が一気に解晶し、瀧の様に心があらひ流されていく。つひに辿り着いた旅の本懐。生きてゐた。母以外の何者でも無い母が、直ぐ其処に居る。証文は無用だつた。伯爵と交わした漢の約束は今果たされた。何もかもが報われた天与の再会。幼児返りした少年が、念ひに任せて抱き締めやうとした其の刹那、堰き止められてゐた砂時計の底が、鉄郎の腕の中で音も無く砕け散つた。星から星へと駆け巡つた時計の針が逆転し、血の海から母を黄泉復よみがへらせた最後の魔法が解けてゐく。一瞬の奇跡に堪へられず、果敢無はかなく弾けた残酷な歓喜。息を呑む事すら許されぬ真実の裁決に、鉄郎はひざまづく事しか出来無い。粉粉に為つた硝子の面影が、暴走する999の剛脚に突き崩され、とき真砂まさごが鉄郎の指の間を擦り抜けていく。昔日のプラットフォームを通過する、車窓に額装された母の遺影。滑落していく実体を掻き集めやうとした鉄郎の手が空を切り、たつた一握りの白宙夢は母の愛した砂絵の様に吹き消された。
 鉄郎の瞑れた瞳は復たしてもすくひ無き闇の中に居た。形有る物を追ひ求める泡沫うたかたの無常。云はではみ難き物の哀れとは程遠い断絶。運命が地獄に投げたさいを拾ふ処か、犯した罪を償ふ事すら叶はず、旅装に窶やつれた客人まらうどは独り。魂のうつろに坐した寂滅を、機関室を蝕む怪周波が掻き乱す。何故、己独りだけが、のうのうと生き残つて終ふのか。大切な物を護れぬ非力と、無用なるが故に其の芽を摘まれぬ、恥塗ちまみれの命拾ひ。肉体の流刑地に置き去りにされた鉄郞は、銀河の旅路が鼓吹する偽りの自由からしずかに眼を覚ました。少年は今も白魔に散つた彼の夜の、酸性雪に埋もれてゐた。此処では無い何処か等、何処にも無い。在るのは唯、みづからをよしとする為に、今、此処で何を為す可きかを言問こととふ内なる天彦あまびこ。鉄郎は身命しんみやうを燃やし尽くした母の、幽かに温もりの残る死灰の中から戦士の銃を拾ひ上げ、戦略的因子クラスターの爆弾低気圧に陥落した999の空蝉に諸手を定めて、巡り会へた総ての亡魂を弔ふ様に、心を賤眼しづめて中段に構へると、天道の是非を問ひ質すむごい仕打ちにも、述べて作らず、信じていにしへを好んだ瞼の母に、己の使命を相襲あひかさねた。合成義脳の核種コアに点る緋彗の照星。迷ふ道すら無ければこそ、直き事、矢の如く切れ上がつた紅顔の眦。エンコードの破綻したアナウンスを喚き散らし乍ら、無限軌道は神の物語へと転轍をる。岩塊再集積体の小惑星を旋回して霏霺たなびく惜別の十一輛編成。猪首いくびの突管を怒髪する瀑煙が天頂を焦がし、鉄郎の吐胸とむねを狂打するシリンダーヘッドの慟哭。遙かなる憧れをちりばめ、数百万光年を一針で刻む天文時計の電鈴でんれいが、辰宿列張を網羅する時のすみか木霊こだました。魂極たまきはる轢火の剛脚が後塵を蹴立て、見果てぬ夢を一進に、少年の此処路こころを馳せた、名にし負ふC62形旅客用テンダー式蒸気機関車。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。
 晦日つごもりの吹雪に散つた母を追ひ、まさきくあらば復たかへり見むとて、雲居なす宇宙そらへと飛びつた、天離あまざかひな未知みち玉響たまゆらの露にも滿たぬその身空、明日をも知れず。およ益荒男ますらをの手振りなりたたへし、よろづの言の葉も散り果てて、星の宿りを虛ろふ哥枕、その心あまりてことば足らず。永らへて何方いづちかもせむ少年が、有終の銃爪ひきがねを手向けひとりごつ。
 
 
   然らば、靑春の日日
 
   然らば、銀河鐵道999
 
 
 
 


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。