2022-10-20-2
雪と闇、たった二枚のセル画が折り重なっただけで、一コマも進む事の無い白墨の世界。鉄郎が其の壊れた映写機の投射レンズを横切り、何が引っ掛かっているのかとリールに手を添えた瞬間、モノクロフィルムに焼き付けられた記憶の扉が不意に開け放たれ、死灰の如き地吹雪が一気に決壊した。
霙混じりの狂嵐に面罵されて叩き起こされた鉄郎は、真っ白な頭の中を横殴りで霏霺く銀幕のオープニングと、寸分の狂いも無い肉眼の眺望に、情景と現実の二重露光に、見当識の焦点が合わず、語尾を見失った感嘆符の様に立ち尽くしていた。生命の気配が全く無い見渡す限りの雪原。猛烈な寒気が渦巻く情け容赦無い白瀑。頬を刺し、睫から滲み入る酸性雪の礫。骨の髄まで刻み込まれた苛烈な汚染環境に、鼻腔を突き上げる甘酸っぱい充血。もう二度と帰る事は無いと心の底では諦めていた。芥を漁って生き延びる以外、徒労と絶望が無限に繰り返されるだけの無慈悲な管理区域外。薔薇色の夢から醒めて其処が荒野の荒ら屋と気付く度に愕然とした、生き地獄の続きを照らす不吉な旭。此処が自分の掛け替えの無い故郷だ等と、本の一瞬でも頭を過る事の無かった忌まわしき地の果ての果て。其れが今、愛おしく、狂おしく胸に迫り、星々を巡る旅の中で独り気丈に振る舞っていた硝子の少年は、抱えきれぬ郷愁に膝から砕け落ちそうになる。帰ってきた。地球に。人類の母なる星に。生まれ育った母なる大地に。例え積雪に埋もれていようと、見間違える訳が無い。酸性雪と綯い交ぜに潤む熱き涙腺。喉元を締め上げて込み上げる怒濤の嗚咽。併し、現状は鉄郎が感傷に浸る事を許さ無かった。
新雪の上に寄り添う二組の足跡が、見覚えの有る方角を目指し、闇夜の彼方に呑み込まれている。欲目に眩んでいるのでは無い。足跡は確かに住み慣れた荒ら屋へと向かっている。彼の日、彼の夜、置き去りにされた雪原が広がっている。脳裏を過る翡翠の光弾と母の断末魔、ドス黒い血の池に浮かぶ焼け焦げた外套。鉄郎は震える手でBarbourのフロントジップを引き上げ、欹てたコーデュロイの襟をフラップで留めた。空調ファンの温風が裏地のタータンチェックを対流し、頬を吹き抜けて前髪から襟足を掻き上げる。併し、其れでも震えが止まら無い。肺の腑から胆の臓まで迸る狂喜に顳顬の毛細血管が弾け飛ぶ。未だ足跡は新しい。今なら間に合う。
レーザーライフルの銃口から覗いた死神の洞穴に怯え、酸性雪の冷鋲に痺れ、悴んだ手足で藻掻き乍ら匍匐した絶望の坩堝を、鉄郎は復讐の火の玉となって駆け出した。新雪を食むシャークソールが、北極圏を攻略する砕氷船の如く、鉄郎の劇情に牙を立てる。空調服にダックパンツ、サイドの3190に一刀彫りの霊銃を握り締め、胸には士魂の金剛石。暴風雪に跪き、自ら其の命を手放した御薦の孤児が、氷獄の鎖を蹴散らして巻き戻された時計の針を飛び越え、沙漠の熱波となって頬を撃つ暴風雪に雄叫びを上げる。遂に追い付いた。彼の日の夜、乗り遅れた列車に。運命の列車は999じゃ無かった。此処が本当の俺の終着駅だ。敵は伯爵、唯、独り。残りは試し打ちにもなら無い、雁首を並べただけの頭数。刺し違るつもりは無い。必ず生きて助け出す。血の海に独り取り残される彼の地獄に、母さんを突き落とす訳にはいか無い。此以上、母さんを悲しませる訳にはいか無い。もう直ぐだよ、母さん。家はもう眼と鼻の先だ。奴等を全員片付けて、帰ろう。母さん、一緒に家に帰ろう。鉄郎は此の時間軸で重複している、もう一人の鉄郎の存在や、タイムパラドク等と云う些末な理窟は何うでも良かった。舞い降りた過去と思しき世界が、例え本の束の間の幻で在ったとしても構わ無い。二度と巡り会う事の無い、此の一瞬こそが総てなのだと、鉄郎は一点に見据えた男子の本懐を、唯、我武者羅に突き進む。
吹き荒ぶ白魔の轟音を押し退け、蹄鉄を蹴立てて殺到する剛性軍馬の嘶きと、機賊達の怒号が聞こえてきた。雑魚は後回しで良い。伯爵の不意を突いて至近距離から一発で仕留める。鉄郎は鵲に気配を消せと命じてホルスターから抜き取ると、ヴァイオレットの閃光が旋雪を貫き人間狩りが始まった。時計の針を先回りして血の池の在った場所に急ぐ鉄郎。意に違わぬ展開に完爾として犬歯を逆剥き、雪煙を上げて皚然と燃え盛る。漢の約束に証文なぞ無用。確かに奴の云った通りだ。彼の鋳物の屑鉄、少し回り諄いが、味な真似をしやがる。折角の御膳立てを台無しにして為る物か。タップリ礼を返さなければ気が済ま無い。
必誅を期す鉄郎の後を追う様に、禍々しい彼の喧噪が押し寄せてきた。緋彗の光弾の束を背負い暴風雪を逆走する独片の影。土嚢袋を継いで接いだ外套が繙く決死の逃亡。生きている。母さんが。唯、其れだけで崩壊しそうな涙腺を堪え、ライフルの光源に眼を凝らす。落ち着け。未だ何も成就してはい無い。伯爵は何処だ。奴の目玉を後ろから撃ち抜いてやる。手段なんて何うでも良い。美しい勝利も、誇り高き敗北も要ら無い。伯爵を始末してから、皆殺しだ。今度は奴等が狩られる番だ。冷徹と暴虐の入り乱れる悶雪の坩堝。血の池の在った其の場所へ、運命の因力に導かれ駆け込む鉄郎の母。退路を断ち、徐に振り返る襤褸を纏った賤女が、一瞬、雪の女王に氷変して見えた。母にして母に非ず。人にして人に非ず。超然とした異能を誇る稀人の鬼概に、感応する大気。何処を目指しても刃向かってくる逆風が其の息を潜め、鉄郎の母の足許から放射状に敷き詰められた新雪が舞い上がると、剛性軍馬の鉄脚が先を争って雪崩れ込んできた。
「褐を被て玉を懐く、とは此の事か。」
蹴汰魂しい機畜の蛮勇を制して響き渡る雅量に富む放咳。地の底から湧き上がる、相も変わらぬ大仰な言い草が、標的を探す手間を省いた。闇夜を囲う白幕を利して突進する時を超えた刺客。己の獲物に感けて、奴は未だ鵲の気配に気付いてい無い。
「星野加奈江、否、旧姓、雪野加奈江だな。」
下僕達が道を開けて、馬群の中から進み出た騎乗の鋳将はポインターの照点を鉄郎の母の額に飛ばすと、鉄郎も諸手に構えた霊銃を頭上から徐かに振り降ろした。
「間違ひ無い。真逆、此程の優良種が伝世されてゐたとは。」
望外の釣果に身を乗り出し、思わず鞍壺から腰の浮く伯爵。鉄郎は睫の先を斜めに限る旋雪に、肺の腑で張り裂けそうな英気を皓皓と吐き乍ら、不純物の無い澄み切った殺意を銃爪に掛ける。水平に構えた銃口に背を向けて、機畜から悠然と降りてくる軍装の仇敵。今しか無い。爰を先途と、天の手向けた畢生の攻機。襟髪の霏霺く伯爵の後頭部に照星を定め、鵲の呪能に騎り移る。彗翼よ目覚め、調伏しろ。化生は無明の星と就れ。光励起の誘発電位に羽搏く鉄郎の逆髪。霊鳥の鉤爪が心の臓を鷲掴み、嘴裂を極めた、其の刹那、鉄郎は背後から飛び掛かってきた電撃に手足を絡み取られ、白銀の奈落に引き倒された。
「其処迄よ鉄郎、貴方は此の時代に干渉出来る資格を持ち合わせてい無いわ。」
新雪に没した頭上を、地吹雪と共に駆け抜ける生気の掠れた諫告。其の聞き覚えの有る声に、
「竜頭、何しやがる。放せ。邪魔すんじゃねえよ、此の機水母。」
口角雪を食み怒耶躾ける鉄郎を、白け切った追撃が餓狼の如き頤諸共、茨の轡で締め上げる。
「乗り遅れた列車に例え追い付けたと思っても、其れはもう、彼の時の列車とは違うのよ。」
光の失せたオーロラを巻き上げて現れた伯爵の女官が、闇に溶けた海松色のドレープから目元だけを覗かせて、磁戒の捕縄に身悶える鉄郎を、其の手綱を緩めずに窘めた。
「伯爵には伯爵の考えが有る筈だわ。私達は此処で見守るしか無いのよ。」
時を駆ける苛つ女の三白眼は主君の御手並みに撮像感度を拡張し、鉄郎の運命に息を潜めて立会う影に身を窶す。鉄郎の追い越した筈の時計の針が、再び何事も無かったかの様に新雪に埋もれた鉄郎を跨いだ。竜頭の胎内に宿した時の歯車は弛まず、唯、鎖に繋がれた輪廻の周回を刻み続ける。
「調べは付いてゐる。手荒な真似をするつもりは無い。我々の指示に従つてもらはう。服を脱げ。力尽くで剥ぎ取るのは容易いが、時間が惜しい。早くしろ。」
騎乗を辞して猶、居丈高でドスの利いた伯爵の最後通告。襷掛けのライフルを手に取ろうとすらせず、取って付けただけの鷹揚な物腰に秘めた破滅的な猟奇。其の壱視萬征の炯眼に鉄郎の母は一切怯まず、天を衝く饕餮の威容を皇然と侮瞥して、烈火の如く斬り捨てた。
「貴方達に指圖を受ける謂 はれは在りません。力と數に賴って何を仕留め、何を得ると云うのか。機械仕掛けの傀儡に隷落した、誇りの缺片も無い者達の虛勢に屈する私では無い。其れ以上近寄ると云うのなら、其の身を滅ぼすだけでは濟まぬと覺悟しろ。さあ、立ち去るが良い。己の還るべき場所に還れ。機械にも心が有ると云うのなら、魂の還るべき場所に還れ。」
「己の分限を弁へろ。得物も持たぬ生身の躰で、何をどう刺し違へると云ふのか。」
「貴方は裸の王樣だ。得物を持たずに熱り立つてゐるのは貴方の方だ。そんな造り物の裸體を曝して、其れが私に取つて何だと云ふのか。眞實を以て爲れば、積み重ねた虛僞と欺瞞を倒す事なぞ、指で觸れる必要すら無い。」
邪な凶威に敢然と相対峙する鉄郎の母を中心にして地吹雪が逆巻き、伯爵の実像に向かって猛然と打ち付ける。倒木に一輪の花を咲かせ、沙漠に潮騒を呼び寄せる奇蹟の所業。神代の調べが聞こえる。太古の眠りを言祝ぎ、陰陽を御して穢魔を祓う、選ばれし呪能。襤褸を纏う窶れた躰が、有りと有らゆる天変地異を予覚し、見えぬ物が見え、聞こえぬ物が聞こえ、形亡き物に狂れる一柱の触媒と鳴って、巫と蠱う。
拾有參春秋
逝者已如水 逝く者は已に水の如し
天地無始終 天地に始終無く
人生有生死 人生に生死有り
安得類古人 安んぞ古人に類して
仟載列靑史 仟載 靑史に列するを得ん
飾る可き心の錦を見失ひ、徒に時を弄した流れ者こそ、棄て去つた故鄕に投降す可きでは無いのか。紅顏に赫く熱き志は何處へ行つた。恥を知れ。」
荒天に神薙ぐ、クリムゾンレッドの隻眼を凌駕する千里眼。人の皮を剥ぎ、憑変した物狂いに、鼎の渋面が其の皺襞を歪め、伯爵は御飾りの筈だった得物に手を掛ける。
「知つた様な口を叩きおつて。其れも又、伝世された血の為せる業と云ふ奴か。卦体な能よ。併し、其れでこそ玉体の務めを果たせると云ふ物。良いか、御前達は下がつてゐろ。雑兵の手に負へる相手では無い。」
擠している。機賊を束ねる鋳造の権化を、徒手空拳の母が圧倒している。足掻けば足掻くほど締め上げる磁縛の電撃に垈打ち回っていた鉄郎は息を呑み、頭に被った新雪の隙間から眼を見張った。
「臆病者は眼を閉ぢて矢を射る。卑怯者は心を閉ぢて矢を射る。見定めよ。眞の正鵠を。其の矢、人へ向かひしは天に到らず。力に感け、禍を招き、矢を浪するは、射手の誉れに匪ず。」
諭す者の居無くなった、たった一筋の天の理を楯に立ち向かう、枯れ枝の如き無双の手弱女。其の肉体を超克した太母の巨いなる矜恃に、半死半生に臥した此の星の魂緒の鈴生りが戦き、管理区域外と云う誹りを受けた、実り無き大地が慟哭する。招かざる客を指弾し、鉄郎の母を庇護する氷刃の斬っ先。知らぬ間に迷い込み、取り囲まれた文明の治外法権に、一兵卒の機賊達は浮き足立ち、伯爵が落ち着けと許りに声を荒げた。
「地獄へ落ちる前に舌を抜かれたくなければ、余計な説教は其処迄にしろ。」
恐怖を掻き消す一喝が暴風雪に虚しく掻き消され、微動だにせぬ鉄郎の母が其の左拳を軽く握り込み、眼には見えぬ何かを執り上げた右手を水平に手向け、伯爵を無言で指名した。鉄郎の鳩尾を穿つ吐胸の高鳴り。垂直に持ち上がった母の踵が宙に留まって漲り、息の詰まった肺の腑が、一拍置いて踏み降ろされた鉄鎚に撃ち貫かれ、地の底が木霊した。此の星の鼓動を呼び覚ます天の授けた足拍子。其の雄々しき激甚に片膝を挫き、雪原に屈した伯爵を、鉄郎の母が畳み掛ける。
徑萬里兮度沙幕 萬里を徑ぎ沙幕を度る
爲君將兮奮匈奴 君が將と爲りて匈奴に奮ふ
路窮絕兮矢刃摧 路 窮り絕えて矢刃摧け
士衆滅兮名已隤 士衆滅び名已に隤つ
老母已死 老母已に死せり
雖欲報恩將安歸 恩に報ひんと欲すると雖も
將た安くにか歸せん
鉄郎の蒼心を吹き抜け、其の節義を問い質す生生流転の風雪。星々を巡る旅の果てに待つ凄絶な寂寥が、999の紮げる剛脚を醒め醒めと見送り、哀惜に噎ぶ汽笛が抉れた頬を叩いて擦れ違う。
伯爵を討ち伏せて猶、身動ぎ一つせぬ母の隻影。其の凜然とした品格が身命を賭して伝える謹厳皇潔な家学。鉄郎は今、総てを悟った。反対方向に走れと云われた彼の時に、何を託されたのか。誰しも何時かは訪れる其の瞬間。併し、余りにも過酷な通過儀式に鉄郎は玉と砕けた。
少年の頭を飾る初冠となって、降り積もる新雪。元服を迎えた我が子への、決別こそが人生の餞。其の旅に大義が有るのなら、孤独すら懼れはし無い筈。孤独が旅の糧ならば、母をも路傍の石となせ。時を越え懸命に此処まで辿り着いた我が子を突き放す、一度見限った己の命を顧みる等、心の迷いでしか無いと道破する、神神しき教え。鉄郎の救いの手の及ばぬ処に、母は既に召されていた。
而して、少年は立志に式る冠雪に没して漂白し、外道を規す明鏡にのみ留まらぬ鬼子母の威光が、もう独りの鉄の郎を焼き尽くす。
「黙れ、黙れ。」
伯爵の耳を聾する唱導と、氷塵の銀幕に灼き付く在りし日の幻影。積み重ねてきた自責と自重に耐え切れず、溺れる鋳型の少年が自傷の凶弾に縋り付く。機族の栄華を掻殴り捨て、怯懦に屈した益荒男が、拝む様に構えたレーザーライフル。吹き荒れる旋雪にポインターの緋照が乱れ飛び、総てを肯う恩赦の眼差しで、突き付けられた銃口に微笑む鉄郎の母。伯爵は見透かされた己の過ちに向かって、リアサイトに顔を伏せたまま銃爪を引き、胸骨を突き破る程に張り詰めた鉄郎の心搏を、彼の断末魔が再び撃ち貫いた。
翡翠の弾道で串刺しにされた母の幽姿が宙を舞い、漠然とした瞬間を切り取って並べた、無限に連続する静止画のストロボを緩慢に横切っていく。肉眼で捉えた事実を頑として弾き返す認識の壁。絶望が感情で在る事を放棄して立ち尽くし、地吹雪の咆哮が他人事の様に遠離っていく。絶叫の余韻に引っ掛かったまま小刻みに痙攣している時計の針。鉄郎は乗り遅れた列車に再び追い越され、擦過する車窓から投げ出された、誰も受け取る者の無い襤褸外套に包まれた赫い花束が、真っ更な雪原に舞い降りた。
意識の緒が完全に途切れた、か細い四肢が黄泉の底で波打ち、巻き上がった粉雪が暴風に浚われると、継いで接いだ土嚢袋の裾が此の場から脱け出そうと繙くだけで、闇夜に向かって見開かれた瞳孔に雪のレースが掛けられ、清閑な死に化粧に昏昏と埋もれていく。荒れ狂う白瀑以外の何もかもが息絶えた滅景。何んなに時空の輪列を巻き戻しても逃れる事の出来ぬ沙汰女を前にして、鉄郎は白紙に打たれた一抹の句読点でしか無かった。其処に母の亡骸が在ると云うのに、駆け寄って其の死を確かめる勇気も無く、此は何かの間違いだと、有りっ丈の詐術を濫造して覆い隠す事も出来ずに、唯、醒める事の無い悪夢が白暮に呑まれていくのを眺めている。此が伯爵の会わせてやると云った意味なのか。こんな惨劇を繰り返す為に必死で999に獅噛憑いてきたのか。事の次第を見届けた竜頭が手綱を緩め、磁戒の拘束から解かれても、鉄郎は輪廻の鎖縛に囚われて其の身を捩る事すら敵わ無い。真綿の様に一息で絞め殺さぬ、因果の軛。其の非情な仕打ちに、もう独りの鉄の郎も新雪に片手を突き、屈疆な胸郭と脊椎を竦ませて、喘ぎに喘いでいた。
「私事に溺れ、職責を見失ふとは、一生の不覚。」
頬を這う苦悶の皺襞が更なる険相を刻み、緑青を吹いて捲れ上がる酸化皮膜。何方が撃ち取られたのか見分けの付かぬ、打ち拉がれた饕餮の文身に、硝煙の勲を誇る余勢は無い。伯爵はライフルを払い除けて、満身創痍の躯体に鞭を打ち、揺らめき乍ら仕留めた獲物に歩み寄り、荼毘を乞う襤褸外套を引き剥がすと、振り落とされた母の亡骸が血壊し、彼の漆黒の泥濘が撲ち撒かれた。血の海に浮かぶ母の背を貫通して、燻り続ける破滅的な銃痕。追い剥ぎの如く死に様を暴く其の所業が、鉄郎の想像を絶して追い打ちを掛ける。
「何うした、トランクだ。何を呆けてゐる。伝送トランクを用意しろ。」
吐血の如き苦患を咳く算譜厘求の掠れた嘆息。剛性軍馬から降りた部下の一人が見覚えの有るアタッシュケースを丁重に差し出すと、伯爵は打ち上げられた人魚の様に血溜まりに浸かる遺体の脇へ、粗無際に放り投げた。ロックが外れ頤を解く革張りの二枚貝。開け放たれた殻壁の真珠層が虹虹と耀き、銀泥を塗り潰して猶、湯気を立てる鮮血が闇夜に燃え盛る。アタッシュケースから溢れ返り、紅蓮の氷沫を上げる浄火の漣。鏤められた光燐に血塗れの裸婦が陶然と包み込まれていく。鉄郎は最早、認めざるを得なかった。其れは悲劇の追体験等と云う生易しい物では無かった。伯爵は確かに母を殺したのだ。而も、一度ならず二度迄も。
虚せ身から離脱した幽体の様に重力を擦り抜け、プラズマの繭の中を浮遊する機賊の生け贄。潤いの欠片も無い母の栗色の髪が亜麻色から山吹色へと艶めき、栄養不良と蓄積した汚染物質で黄濁した皮膚が瀝がれて、白磁の桃質が甦る。伯爵の描いた青写真の儘に、彫金細工の如き繊細な肢線へとトレースされていく、人間狩りの戦利品。見目麗しく若返り、瑞々しく変貌する惨死体が常軌を逸して華やぎ、狂おしき母への思慕を打ち砕く。粉々になった真実が燐焼し、氷点下の陽炎が揮発していく。何を信じ、何を頼りにして、其処に存る事物を組み立てて良いのか判ら無い。乗り遅れた列車は、もう彼の時の列車とは違う。管理区域外の一軒家で初めて出会った鏡越しの錯覚が、今、総てを見破る事の出来無かった罰として現実になった。
忘れては夢かとぞ思ふおもひきや
雪踏みわけて君を見んとは
名筆を揮うが如き睫尾を広げて瞬く気怠い星眸。鳳髪を翻した蜂腰が、日月の蝕すが如き輝ける闇を纏い、喪装の令嬢が氷血の荒野に舞い降りる。地吹雪に凭れて物憂げに傾ぐ露西亜帽。危うい程に煌びやかな絶佳絶唱の娟容が幽かに眉を顰め、十全十美を備えた痩墨の仙姿が靱やかに蹌踉めいた。只の剽窃では無かった聖母の面影。小兵の雪辱は白銀に紛れ、最後のピースが揃って終った残酷なパズルを覆す気力も無い。伯爵は鉄郎の母が生まれ変わったのを見届けると、半醒半睡のメーテルに一言も掛けず、飛び乗った剛性軍馬の手綱を絞り、曝け出した醜態を押し退ける様に訓令を鼓した。
「半磁動鹿駆の手筈は何うなつてゐる。抜かりは無いか。」
「ハッ、滞り無く。ジャイロブレードを牽引して、間も無く現地に到着の予定です。乗車時刻迄の待機施設も万全を期し、既に完工しております。」
「良し、然うと判れば長居は無用だ、私は此から時間城に戻る。留守を頼むぞ。」
銀瀾の地雷原を蹴散らして蹄鉄が爆ぜ、雪花の彼方に突進する機畜の剛脚。雑兵達も踵を返し、湾岸の屋敷へと向かうのだろう、隊伍順列を問わず、思い思いに此の数奇な現場を後にする。狩りの終りと入れ違いに、ギヤの切り替わる撥条仕掛けの日常。帰る場所が在る者達の束の間の安逸を、退場する出口の無い客席から鉄郎は眺めていた。巻き戻された予定調和が刻む淡々とした天府。程無くして襤褸を纏ったもう一人の自分が血の海に迷い込み、其の僅か十数メートル先で力尽きると、闇に融け出していたメーテルが虚ろな瞳を零して口遊む。
大口の眞神の原に降る雪は
いたくな降りそ家もあらなくに
降架したイエスを愛でる様に鉄郎を擁き抱える、さ乱れし鳳髪。妖しき聖母の眼差しが凍傷で炭化した少年の頬から嫋ぎ、放埒な嘶きと共に滑り込む四頭立ての半自動鹿駆が、黒妙の金瀾を攫って駆け抜けると、そんな惨劇は無かったと許りに血の海を積雪が覆い隠し、下ろし立ての白墨へと塗り重ねられて、何もかもが振り出しに戻っていく。
是今日適越而昔至也
是 今日越に適きて 昔至れる也
夢の中に又た其の夢を占い、エッシャーの版画の様に粛々と輪転し始める、メビウスの帯に封じ込められた永劫回帰。記憶を其の都度初期化されて、ゴールもスタートも無く閉じた捻れの中を彷徨い続ける。そんな馬鹿げた話しが不図、鉄郎の頭を過った。
「彼がメーテル・・・・其れとも、彼もメーテル・・・・・・。」
半自動鹿駆の走り去った白銀の轍を瞠めて竜頭が独り言ち、チャドルのドレープを擦り抜けて翳した燈會が、土気色に枯れた頬を染め上げる。何を想うのか、切れ上がった眦を焦がす邪知の燻り。閑かな時の渡し守が、錻力の笠を傾けて薄く線を引いただけの唇を寄せ、玻璃の火屋で凍える狐火を吹き消すと、夜の底に敷き詰められた白銀を道連れに、世界は一瞬にして暗転した。
ほと ほと ほと
射干玉の闇に滴る時の雫に浸されて、昏昏と眠り続ける黒耀の瞑らな原石。眼裡に鎖ざされた先史の欠片は洞に流離い、追憶を手探る其の指先が、掻き消された灯心に触れ、仄めいた。磐肌を伝う岩清水の呟きに合わせて、独つ又独つと点る多針メーターの冷冽なバックライト。朦朧とした鉄郎の焦点が集積化した命の篝火を数え、蒼古の神韻に鎮む玄室へと啓かれていく。此を帰ってきたと呼んで良いのか。息を呑む荘厳な磐壁のマトリクス。時間城と云う名の何時か見た夢の続き。此の旅は一体、何度振り出しに戻ったら気が済むのか。今とは何時か、此処とは何処か。自分が存在すべき時代と場所を見失う鏡の迷路。再び目の当たりにした白魔を粛々と葬り去る、血も涙も無い聖謐が、鉄郎を更なる幻惑へ誘い込む。
肌を刺す程に玲瓏な大気が闇天井の吹き抜けに聳え、鎮魂に押し潰された亜空間。城の主は姿を消し、留守を預かったのか、生け贄として献げられたのか、999から鉄郎の後を追ってきたのか、彼の夜の地吹雪に攫われてきたのか、母に生き写しの淑女が石櫃に縋り付いたまま力尽きている。凶弾に倒れて猶、朽ちる事の無い花を咲かせた鬼女とは程遠い、支度解甚く乱れ散った其の媚態。此の化け猫を母と呼べるのか。何と云って声を掛けて良いのか。全く整理の付か無い心の支えが傾ぎ、一気に伸し掛かる時を股に掛けた疲労。
「名前なんか聞いてない。お前は一体何なんだ。」
恐る恐る歩み寄る鉄郎の脳裏に、999の乗車券を差し出し、自らをメーテルと名乗った魔女に浴びせた痛罵がリフレインする。何故、伯爵は母さんの名を知っていたのか。何故、母さんを襲ったのか、否、探していたのか。石櫃に俯せで散乱する鳳髪とフォックスコートの毛足が、粉々のパズルとなって、復た一から組み直せと、振り出しよりも前に巻き戻された謎を突き返す。御自慢の露西亜帽は冠落し、渾筆を払うが如き睫は萎れ、星も恥じらう雅な光眸は宙を泳いで、小刻みな譫言を反芻している、メーテルと云う名の誰かに美しく変わり果てた母。撃ち殺された筈の惨死体に取り憑いた、得体の知れぬ狐疑の影に挑む鉄郎。処が、繊細な硝子細工を扱う様に浮わの空の虚せ身を抱き起こすと、腕の中で撓垂れた襟足から、小鼻を擽る華やかな香貴が立ち昇り、張り詰めていた警戒心、絡み合う邪推と懊悩は一瞬で揮発した。何故、今の今迄気付か無かったのか。こんなに近くに居て、何故、信じ無かったのか。馥郁たる白檀のヴェールに隠れて仄かに淡立つ朴訥な母の匂い。答えは常に眼の前に在った。鉄郎は眼に観える物しか察てい無かった己を恥じた。
汚染物質で黒変し、ガサガサに逆剥け、産廃の山を掘り起こして爪が摩滅した母の指とは似ても似つかぬ、ブラックフォックスの袖口から覗く白絹の様な手膚の肌理。握り込んだ鉄郎の掌を拒絶する其の滑らかで優雅な潤い。併し、母の温もりに満ちた血と汗の薫陶が呼び覚ます記憶の鈴生りが、堪えようとして閉じた瞳から溢れ、頬を雪崩れ落ちる。廃材を組んだ荒ら屋で肩を寄せ合い二人で囲む灯火。今を凌ぐだけの食料と水以外何も無い、一つを二人で分け合う些々やかな一間の団欒。子守歌の様に微睡みの中で覚えた三十一文字。粒子状物質に掻き消された星を見上げて伝え聞く、神代の物語。尽きる事の無い太陽の恵みに手を合わせ、幽かな風の節目を読む真剣な横顔。決して離す事の無い手に引かれ、死の荒野を踏破し、天変地異の激動を乗り越えてきた。如何なる苦難にも屈せず、命の楯となって護ってくれた巨いなる背中。時に畏ろしく、近寄り難い程に研ぎ澄まされる異能の覚醒。母の深意を何も汲み取る事が出来ず、心の底で気高過ぎる厳格な生き様から逃れる事ばかりを考えていた怯懦の日々。其の総てが今、滂沱の漣と生って心を澡い、ドス黒い狂女のヒステリーの数々迄もが、我が子の独り旅を導き、迷いを断つ愛の鞭として鮮やかに甦る。もう此から先、何んなに罵られ、打ちのめされても構わ無い。例え身も心もメーテルの儘で在っても構わ無い。此の儘、何処迄も一緒に旅を続けていく。無限軌道を燃え尽きるまで周回する星の一雫で構わ無い。家で独り、母の帰りを待つ心細さ。一日経ち二日経ち、三日、四日と待ち続け、飢えも渇きも忘れて狂った様に泣き喚き、母の名を叫び続け、然して、食料と物資を抱え、痩せ衰え、落ち窪んだ瞳を炯炯と輝かせて、夕陽を背に現れた母に抱き付いたまま気を失った。彼の日の涙の続きが此から始まる。メーテルが母さんなのか何うかを穿鑿する資格なんて自分には無い。今、此処に存るが儘で良い。後はもう、何も要ら無い。唯、独つ、確かめておかなければなら無い事以外は。
「竜頭、出て来い。」
鉄郎が頬を拭い声を奮い立たせると、猥りに時を司る石女は、背後の晦病みから、流す川の無い灯籠流しの様に、燈會を提げて炙り出てきた。
「伯爵は何処だ。奴に聞きたい事が有る。彼の目玉の糞親父は何処に行きやがった。」
鉄郎には確信が存る。無限軌道を巡る、もう独りの鉄郎の物語。心の片隅に仕舞っていた行き摺りの約束が、火屋の狐火に浮かび上がる。此処で逃したら復た何時出会えるのか判ら無い。もう此以上遠回りは御免だ。鉄郎は肩越しに振り返り、伯爵の女官に泣き腫らした赭視を飛ばして吠え立てる。処が、磐壁の多針メーターから甦った亡霊の様に立ち尽くす竜頭の瞳は、鉄郎の剣幕を透過して意識の彼方に飛散し、垂髪の簾から垣間見えるメーテルの蒼貌に燈會の火影を翳して呟いた。
七重八重花は咲けども山吹の
實のひとつだになきぞ悲しき
否、其のみ、独つのみに匪ず。」
何を執拗に思い詰めているのか、井戸の底を覗き込む様に虚ろな竜頭の怪相。愕然とした言の葉が途切れ、繋ぎ止めていた心の綸が弾けると、磐壁から滴る時の雫がチューブを伝う点滴となって、鉄郎の赧む頬を叩いた。全く聞き取れ無かったメーテルの譫言が十六進数の葬列を唱え始め、多針メーターのアラームとピンヒールの雑踏を巻き込んで、膨大なバイナリの瀑布が磐床に反響する。磐室の吹き抜けを垂直に改行していくゴシックの蛍蛍としたフォント。其の輪郭が解けて絡み合い、一筆の曲水となって淀み無く蛇行し乍ら右から左へと走査しては昇天していく。メーテルと竜頭、二人の相反する奇女が触発し、上書き消去されていた何かがシンクロし始め、気付いた時には既に、鉄郎は反転したアルファベットの筆記体に呑み込まれていた。何処迄も何処迄も鏡越しに先走っていく殴り書きの電子カルテ。其の鏡面文字の片隅を過る「C62 48」のナンバープレート。精密な意匠を凝らして飾られた、往年の旅客用テンダー式蒸気機関車。此は鉄道模型?炭水車の側面にプリントされたANNIVERSARYの文字。
なつかしき 地球はいづこ いまははや
ふせど仰げどありかもわかず
「此が・・・・・・お父さん・・・・。」
全身をオールインワンで電脳化した父親が差し伸べる剛性義手を払い除け、母親の背に隠れた少女の、途切れ途切れに明滅する悪夢。其の幽かな電位を造影解析する脳象デジタイザと連動して、無脊椎マニピュレーターが開頭した前頭葉を小刻みにスキャンしている。有りと有らゆる医療ケーブルとチューブを張り巡らせた集中治療室に、筋肉組織が剥き出しで閉じ込められた肉塊。崩壊した皮膚から染み出す体液でベットは浸水し、辛うじて性差を確認出来るのは、腰まで届く斑に脱色した乱れ髪だけで、其れが無ければ猿との区別すら危うい、患者と呼ぶ事すら憚る、原型を失った廃人が、偽装された生命を強要されている。
此は確か、伯爵の屋敷で過積載送信された、伝送海馬のスライドショー。銀河鉄道株式会社の社史に迷い込み、鉄郎の見当識を蹂躙した合成記憶の土石流が、再び堰を切って襲い掛かる。岩清水に濡れた玄室の神気は吹き飛び、地に足が着いている感覚すら無い。鉄郎は輻輳する走馬灯から絶界の宇宙に振り落とされて、小惑星に停泊した採掘船の一室で飛び交う怒号が、為す術も無く背乗りされていく頭骨に木霊した。
「何故、前もって交流船に乗る事を云わ無かった。其れも選りに選って中疆マテリアルの。」
「云ったわよ。潜対本部に引き籠もって、私達の話に耳を貸さなかったのは貴方じゃないの。LINEで知り合えた子に、やっと会えるって喜んでいたのに。何でこんな・・・・。」
「LINE?未だそんな物を使っていたのか。彼は中疆に筒抜けのスパイウェアだ。何度云ったら判るんだ。交流活動にしても、あんな物は慈善事業に託けた奴等のプロパガンダだ。何故其れが判らん。」
「開拓団の船の中で産まれて、食べて寝るだけの居住スペースに押し込められて、地球の大気も重力も、友達も知らずに育ったのよ。貴方達の会社の諍い何て彼の子には関係無いわ。地球はもう御終いだ。無限の可能性の存る宇宙に逃げよう。そんな体の良い嘘に釣られて。完全に騙されたわ。こんな監獄の様な生活。気が狂いそうよ。彼の子は何処。何処に居るの。地球に帰るのよ。一緒に連れて帰るわ。私達だけで帰るのよ。こんな馬鹿げた開拓事業に一生閉じ込められている位なら、地球を目指して野垂れ死んだ方が増しよ。彼の子は何処に居るの。」
「安心しろ。ラボで治療を続けている。」
「ラボは汚染濃度が振り切れて封鎖されてるんじゃないの。」
「開発室に機材を持ち込んで、急造だがラボを移設した。抜かりは無い。」
「真逆、彼の子を機械の躰にする気じゃあ。」
「彼の能を機械に換装出来るのか、遣ってみる価値が在る。モデリングした全脳器質の治験も良好だ。臓器、骨格、相貌、採取出来得る限り、全身のDNA組成マップも補完した。生体なら後で幾らでも再生出来る。」
「換装だとか再生だとか、軽々しく云うんじゃ無いわよ。彼の子を何だと思ってるの。スペアノイドやモルモットじゃ無いのよ。未成年の電脳換装は承認されて無いわ。本人の同意も無しに、何を勝手に話しを進めてるの。抑も、交流先の事業所が全滅したのは、貴方が採掘資源に付着している在来のウイルスに戦略核因子を混入してバラ撒いた所為じゃないの。髪の毛の色素まで破壊するウイルスが、此の宇宙の何処に在るって云うのよ。復た宣争広告代理店を使って揉み消すつもりなの。其れとも、スペースノイド解放戦線とか云う彼のチンピラに尻拭いを頼むの。天河無双の銀河鉄道株式会社が聞いて呆れるわ。」
「共同開拓と称しては合弁会社を後ろから突き落とし、取引先の技術と資産を強奪しては、刃向かう前に爆撃する。そんな輩の何処に遠慮する必要が在る。銭ゲバに聞く耳が有るのなら誰も苦労はせん。奴等に理解出来る言語は力だけだ。彼の子の能が必要なのだ。貨物路線の一つや二つなら未だしも、帯域制御の基地局を攻撃されたら眼も当てられん。」
「戦争紛いの委細巨細なんて、もう懲り懲りよ。」
「其程争いを止めさせたいのなら、直接ハーロックに頼めば良い。御前達のLINEを通してな。」
「貴方、真逆・・・・・。」
「だから云ったのだ。そんな巫山戯た物は使うなと。」
妻の仮面を剥ぎ取り、情婦の素顔を俯瞰する勝ち誇った剛顔。其の剥き出しのコックピットの如き形相が鉄郎の視覚野で増殖し、開発室のコンソールへと変貌していく。
「こんな析算計器の化け物を、二束三文のスペアノイドに換装して大丈夫なのかね。オバーフローするのが落ちだろ。どうせ暗号工作にしか使わ無いんだから、此の儘で良いんじゃないのかね。」
「モバイル化して各基地局に配置したいんだろ。前線に護送車輌が出払ってて、物資が入ってこ無いから、取り敢えず、御試し価格の機種で見切り発車って奴さ。実際に乗っけて動かしてみない事には、何んな蠕虫が湧いてくるかも判らんしな。総ては此の析算計器次第だ。」
「・・・・・・析算計器・・・・・?」
「オイ、此奴、喋ったぞ。」
「私は・・・・・メーテル・・・・・・此処は・・・・何処?」
「所長、集中治療室のエントロピーが急速に増大して、二体目も手が付けられません。猛烈な時束線の渦です。矢張り、験体が時起単極子に変容していると見て間違い有りません。験体に近付いただけで瞬く間に腐蝕して終います。復旧作業をしていたエンジニアは皆、粒状化して跡形も在りません。」
「無人探査機を呼び戻し、電網解析した全脳気質のデータベースを積載して艦外に離脱しろ。先ずはサーバーの死守だ。物理的に分断しろ。騒乱状態の験体には換装ポートで未だアクセス出来る余地は在るのか。在るなら戦略核因子を投入してみろ。躊躇うな。コブラにマングースと云うのなら、其の逆も又、然りだ。膠着した処を見計らってジョイントを切断し、デブリシュートから宙域に破棄すれば良い。次の験体はスペアノイドの胸郭に脳象を符号化した培養シャーレを直接マウントしろ。拒絶反応には海馬と情操領域のリミッターレンジを段階的に絞って、着地点を探せ。空洞化しても構わん。小康状態に為った処で筐体を封印し、速やかに最終デバッグと再教育プログラムに移行しろ。」
艦内を飛び交う指示と機密と機材。防護服のクルーが駆け付けては壊滅する、恥も外聞も無い人海戦術。其の百家争鳴から置き去りにされた集中治療室で、全方位の無影灯は謀略の残骸を皓皓と照らし続けている。人体解剖模型と見紛う少女の心筋が契む末葉の片期。跡切れ勝ちな変拍子の刻一刻を描き出す、活動電位筋電図モニターの脇に停車した小さなSL模型。不帰への過客を待つ健気な姿が不図眼に止まり、鉄郎は恐る恐る手を伸ばした。其の指先が、
検温器の 青びかりの水銀
はてもなくのぼり行くとき
目をつむれり われ
その心ついえて詞あまりし、三十六文字に触れ、思わず後退った背中が壁に突き当たって振り返ると、電網解析された少女の自我を読み込み、再構築したエミュレーターが、蒼蒼と血走った多針メーターを集積し、慄然と犇めいている。
「名前なんか聞いてない。お前は一体何なんだ。」
999の乗車券を差し出されて噛み付いた、彼の日の言葉が星々を巡り、振り出しに戻った鉄郎の吐胸を込み上げる。今こそ其れを解き明かし、審らかにしなければ。
七重八重花は咲けども山吹の
實のひとつだになきぞ悲しき
然うだ。君は、君の名は、雪野や・・・・・。」
と其処迄言い掛けた処で、原名調伏の禁に触れた鉄郎の間接視野を、壊滅したログメッセージが瞬き、独片のバイナリが肩に舞い降りた。見上げれば、綿雪の様に乱れ散る十六進数の膨大な素数。其の無限数列を、ケーブルとチューブの束に吊り上げられて上体を起こした少女の残骸が、徐かに暗唱し始める。メインインデックスとサブダイヤルを時の鏃が駆け巡り、虚ろな呟きを解析する多針メーターの群像。鉄郎が崩壊していく少女の肉体を慌てて擁き抱えると、体液で濡れ濡つ腕の中で八重山吹の鳳髪が撓垂れ、ロックの外れたアタッシュケースから迸る閃光に包み込まれた。
「御帰りなさいませ、鉄郎様。」
減衰する眩暈の中から浮かび上がった紺碧のダブルに、映える金釦の縦列が屈曲し、堅調な無限軌道の駆動音が機関室に甦った。腕の中では抱え込んだメーテルが、燦然と煌めくアタッシュケースに俯いて十六進数の呪詛を唱え、車掌は制帽の鍔の奥に其の瞳を隠した儘、最敬礼を解かずに粛然と言い放つ。
「先程、惑星ヘビーメルダーを通過致しました。鉄郎様、善くぞ御無事で。」
鉄郎は監視モニターの向こうに津津と広がる辰宿列張の大海原に、トレーダー分岐点、ファクトヘイヴン、時間城、白魔の人間狩り、追憶の少女の残像を探した。時間軸と座標軸が、運命と摂理が破綻し、幽界と顕界が入り乱れ、本当に此の足で降車したのかすら定かで無い儘、邯鄲の夢の如く過ぎ去った停車駅。
「此は一体・・・・・・。」
と、何に対して言葉を詰まらせているのかも判らぬ鉄郎に、車掌は背を向けて、多針メーターに埋もれたコンソールをタップし、続々と出力されていくデータログの蛍火に眼を細めた。
「御公務で御座います。」
「公務、此が?」
星の彼方の異相から降り沃ぐ何物かに感応し、腕の中で戦き続ける瞳孔の開き切ったメーテルに瞳を零すと、鉄郎は時と場所を選ばず不意に彎き攣けを起こし、心神喪失に陥った母の姿を思い出した。荒野の直中で在ろうと、産廃の尾根で在ろうと、身を投げ出して神撼する彼の恍惚。填まり込んだハードディスクや、遺影に向かって語り続ける独居老人とは訳が違う。天変地異の啓示に襲われて白目を剥いた母が舌を噛み切らぬ様、襤褸外套を脱いで口の中に詰め込み、唯只管、祈り続けるしか無い絶対不可侵の異能。其れが今、合成義脳を網羅した機関室の輝ける闇を徐かに支配している。絶え間ぬ演算処理のシーク音で澄み渡った無限軌道の走る聖域。車掌はデータログを眼で追い乍ら、己の半生を書き留める様に語り始めた。
「検閲産業複合体に因る情報官僚機構の整備、則ち、言論プラットフォームの覇権と天体資源の独占は、我が社が宇宙開拓と云う殺伐とした過当競争を突き進む為の両輪で御座いました。通信帯域の利権を争奪する、暗号化の粋を究めた神経戦は、何時しか物理的な武力衝突を凌駕し、民営化した戦争の主戦場はモバイル化された論理空間に、企業スパイによる諜報活動は雌雄を決する総力戦へ、業績と共に拡大していき、然して、サイバー兵器の応酬と開発の過熱に因って行き着いた必然が、暴徒化した戦略核因子の覚変、電劾重合体の誕生で御座います。旧世紀の時点で既に警鐘されておりました、言語モデルの開発が特異点に達し、自己保存のアルゴリズムを超越して君臨する自我の顕在。其れは文明の敗北で御座いました。制御不能な先端技術の徒花を、人々は挙って己の利益を拡張する為の魔法の杖として濫用し、其の存在や発生源を検証する事も、門閥、財閥、学閥を越えて対策を講ずる事も無く、総てを隠蔽し、競合相手の帯域が駆逐されていくのを嬉嬉として眺めている許り。欲望と云う水を得た魚は大海を巡り、漁夫の利を得る形で、我が社が星間通信の全権を掌握した時には、無限軌道内に敷設された僅かな帯域しか残されてはおりませんでした。帯域核醒した自我の猛威は凄まじく、最早、風前の灯火。此の様な状況を辛うじて持ち堪えておりますのは、御覧になられている通り、偏にメーテル様の宇気比に因る神技の賜なので御座います。何う遣って比の御能を見出した物か、其の経緯は私等の思慮の及ぶ処では御座いません。メーテル様の御公務に全力で御奉仕する。私の務めで在り領分は、萬事、其処に尽きるので御座います。」
「其れじゃあ、各基地局を廻り、帯域プロテクトの更新と解析を、暗号化の攻防をする為に、其の為に999は・・・・・。」
「御明察の通りで御座います。999は無限軌道という最前線を直走る最後の砦。其の防戦一方だった長い戦局に、幽かにでは在りますが出口の光が見えて参りました。有り難う御座います、鉄郎様。鉄郎様の御盡力に因り核醒したメーテル様の御能が、巻き返しを図る突破口になるやも知れません。」
「巫山戯るな。メーテル様、メーテル様って、こんな能を背負わせる為に、今迄、何人のメーテルを使い捨ててきたんだ。言ってみろ。」
山積みになった生け贄の下敷きになって喘ぐ母の姿が、鉄郎の怒張を劈き、折り目正しい白々しさに噛み付くと、背を向けていた紺碧のアクションプリーツが翻り、制帽の鍔の奥に潜む黄眸が爆ぜた。
「鉄郎様の御怒りは御尤もで御座います。メーテル様の御心労は如何ばかりかと察するに、側仕えでしか無い私とて心痛の極み。併し乍ら、メーテル様の宇気比の能無くして、此の現状を打破する方策は御座いません。無責任な知性と欺瞞に塗れた理性の成れの果てとは申しましても、一度手を出したら手放す事の出来ぬ、文明とは麻薬で御座います。漢意と云う賢しら、欧化政策と云う卑屈を例に挙げる迄も無く、遙かなる時の風雪に耐え抜いた古典と、心を込めて受け継がれてきた伝統や文化から学ぶ研鑽を怠った挙げ句、「新義は真義、古義は誇欺。」唯、其れだけの短絡的な空理空論が罷り通り、既成の価値観や事物を刷新し、破壊する事こそが進化で在り、真理で在り、正義で在ると決め付けた思い上がり。学術、芸術、法術の皮を被った権威主義と拝金主義の詐術。歴史とは繰り返された過ちの時系列で御座います。巫を信じて医を信ぜず。医を信じて巫を信ぜず。科学の無い信仰が盲目で在る様に、信仰の無い科学も又、有害でしか御座いません。野に降った先端技術に歯止めが掛かった例し無し。今こそ進歩の名を騙る独り善がりな虚妄を断ち切らねばなりません。其の為に白羽の矢が立てられたのが、文明が生み落とされる前の、生命の根源的な能とは皮肉な物で御座います。人の世が時を超えて伝世してきた伝統や文化、社会システムは決して知性や理性のみに因って積み重ねられた物では御座いません。今と為っては意味の解せぬ習俗や儀式には、往にし方人の心と能が宿っているので在り、形骸化した語義不詳の祝詞や枕詞で在っても、先史より語り継がれた千載難逢の玉手箱なので御座います。文明は宇気比と云う伝承を未開のシャーマニズムだ、野蛮人の迷信だと蔑み、顧みようと致しません。私とてユングの様にオカルトを肯定する気は毛頭御座いませんし、先程も巫を信じて医を信ぜぬのは盲目で在ると申しました。併し乍ら、宇気比や祈祷に籠められた心の真実に嘘偽りは御座いません。文明が其れを蔑むのは己が生まれた心の源泉を忘れ、辿ってきた心の道程を見失っているからで御座います。天も地も、神も人も、生も死も、渾然一体と為って蠢き、詞が有るが儘の姿で漲っていた太古の時代。日の出と共に人々は歓喜し、樹木の影に精霊の姿を垣間見て、未開の山河に分け入り、星と月の輪舞を夜が明けるまで仰ぎ見る。感嘆の声が一つ一つの詞を生み、夢と現を行き交う日々に世界は酔い痴れておりました。人々の暮らしに文字など必要は無く、一言一言に呪能の籠められた詞は聞く者の心と響き合い、人々の詞は神の詞で在り、詞に神と人の違いは無く、世界は神と人とが通じ合う詞で満たされておりました。詞とは祈りで在り、祈りとは心で在り、心とは命で在り、命を讃える言の葉で其の意を宣る。大いなる自然の神秘と脅威を敬い、畏れ、人々は祈りました。自然の神秘は何時しか形の無い幽遠な存在へと、人々の精神世界で昇華し、其の形無き物への祈りが豊かに咲き誇っていくので御座います。狩りに出た夫の帰りを、出産の無事を、病に伏した我が子の回復を、失われた命の安らぎを、一心に祈り続ける。眼には見えぬ者達と交感する心で溢れ返る命。遠く離れた掛け替えの無い人々に想いを馳せ、未来に向かって無限に広がる夢を描き、どんなに困難な状況で在っても希望の光を灯し続け、此の世界に遍く崇高な意義に身を心を律して、祈り、誓う、人が人として在るべき心。其れ等は総て、禍々しき呪いの誹りを受け、蔑まれた巫術の中から芽生え、育まれてきたので御座います。」
「車掌さん、朗々と弁が立つのは結構だがな、生憎、俺が知りたいのは、そんな信心の御利益なんかじゃねえ。氏子の勧誘なら余所で遣ってくれ。」
耳を疑う車掌の熱烈な長広舌に耐え切れず、鉄郎は青侍の竹光を振り翳した。焼き尽くされそうな語気に過る不死鳥の嘴烈な絶唱。一乗務員の職責を越えて迸る知勇が、女王の手向けた激励を呼び覚ます。
詞を、然して、心を遡れ。
答へは常に我我の伝承に在る。
メーテルは其の答へと力を賜つた女だ。
メーテルを護れ。
其れが御前の使命だ。
神の物語を征け。
車掌の詞に乗り移り、此の旅の源流へと逆流するエメラルダスの詞が、幾つもの出会いを辿り、鉄郎が生まれ落ちた星の下へと集約していく。直立不動で一点に正対し、緋く燃え盛る紺碧のダブル。一体、何を買い被っているのか。鉄郎は有り余る若さに託された想いの眩しさに、逡巡ぐ事しか出来無い。右も左も判らぬ鉄郎を見守り続けた車掌の詞の厳しさは、鉄郎に許された時間が残り少ない事を告げる優しさの裏返し。運命の代弁者は息を整え、徐かに詞を紡ぎ始めた。
「鉄郎様、今暫く、私の話に御耳を御貸し頂きたく存じます。神学で在れ、哲学で在れ、自然科学で在れ、文明の営みが高度に体系化し膨大な教義で理論武装するのは、所詮、付け焼き刃の権威を取り繕う為の虚勢で在り、疚しき脆弱の証で御座います。文明とは宇宙の摂理が落とした影を追い回し、其の裾の端を本の僅かに切り取っただけの物。本来、真理とは一糸纏わぬ有るが儘の姿で、逃げも隠れも致しません。其の存在は花を愛でるのに知性も理性も必要が無い様に、心から求めさえすれば老少善悪を選ばず、信じる必要すら御座いません。花が美しければ蝶は自然に集まる物。心に偽りが在るからこそ信じようとするので在り、疑わぬよう張り詰めた瞳の前に現れるのは、夢幻泡影の類いと相場が決まっております。物理学者が幾らビッグバン理論の証左を並べ立てようと、宇宙とは人の心から生まれた壮大な物語の投影で御座います。人の心が存在しなければ、賢しらな理窟を吠え立てる事すら敵いません。鉄郎様、私とて安易な文明批判で口吻を穢したくも無ければ、原始共産主義等と云った、社会契約説を真に受けている者達の、左翼的ノスタルジーに与するつもりも御座いません。バベルの塔に端を発した神への挑戦。天に代わって世を支配すると云う思い上がった中華思想。文明と云う新しい種を保存する為の戦略的因子に、心の遺伝子を背乗りされた人々は、真理の探究の名の許に真理の神意を覆い隠し、嘘で嘘を塗り重ねて参りました。人々が見失った詞と妙なる能を今一度、甦らせねばなりません。萬の言の葉で彩られた往にし方の此処路を巡礼する、無限軌道に其の身を献げたメーテル様の御能と御勤めが、鉄郎様の眼に邪な物と映るのなら其処迄で御座います。」
車掌の舌尖が其の矛を納め、999の駆動音が橋の無い河と為って鉄郎との間に横たわると、メーテルの宇気比を看護る多針メーターの演算ノイズが、蛍火の様に其の沈痛な底流を取り巻いて瞬き、頑黙の暗渠から、より多くの詞が押し寄せてくる。車掌の胸臆に秘した雄弁なる絶句。語らぬ事で相手を選び、喩すべき者には其の襟を解く、量産化したテキストの鋳型では拘束不能な、詞、本来の真価に促され、鉄郎は血の底から湧き上がる己の詞に耳を澄ました。
行き倒れの屍肉を奪い合う野良犬の唸り声。メガロポリスが垂れ流す養分と情報を貪る、貧民窟の嘲罵と慨嘆が聞こえてくる。哥う事も祈る事も忘れ、民族の詞と抱き合わせで己の出自と総ての属性を投げ出した、還る場所も護る物も無い人面獣心の咆徨。機族にも成り切れず、電脳ボードをマウントしただけで、エンコードの半壊した肉声無き言語モデルの応酬に明け暮れる鋼顔獣身の同属嫌悪。文明と廃棄物の狭間で、原始の泰然とした営みに戻る事も敵わぬ蛮族の退廃に、決して交わらなかった母の無言の教えが、孤独の研鑽に因って磨き込まれた詞の結晶が、鉄郎の耳骨に、吐胸に突き刺さる。
経済的成果を最短距離で独占する為、歯止めの利か無い熾烈な合理化に血道を上げ、構文解析のアウトソースに思考の総てを丸投げし、何者かの都合でフィルタリングされた文字の羅列を、己の智力と履き違え、言辞の精錬と検証を怠り、放棄して、暗躍するシステムの傀儡へと凋落した人類の残滓。繁栄とは程遠い狂乱に巻き込まれ、詞を見限った亡者達がモデリングされた絶叫で幾ら助けを求めても、心無き詞は誰の心にも届かず、狼少年のデマゴギーに変換されて、屍肉の奪い合いから弾き出された野良犬の遠吠えと同化し、空洞化した自我の辺縁を徘徊する。昼夜を問わず貧民窟を乱れ飛ぶ雑言と嗚咽。併し、其の喧騒は何一つとして意味を成す詞を発する事は無く、然して、鉄郎も又、享楽的な破滅を求め、野良犬に紛れてメガロポリスの最底辺に甘美な死臭を嗅ぎ廻っていた。
欲望の巣窟から未練を引き擦る帰り道。鉄郎とて同じ穴の狢だった。肉体の求める儘に絶望が溶けて形を失う迄、淫蕩に堕して終いたい。思春期の過敏で未熟な心と躰が吠え立てる野性の衝動。其の有り余る若さを諫めず、独り家で待つ、息子への揺るがぬ信義が、暴発寸前の鉄郎を片時も放さず、日々繋ぎ止めてくれていた。欲より出づれど、邃く情に与れば哥と生る。語らずとも伝わる詞の因力。除染不能な原野の荒ら屋で、哥と祈りを唱え続けた母の聖謐な横顔が、今も鉄郎の腕の中で、鳳髪を振り乱し、眼には見えぬ何物かに向かって一心に詞を捧げている。
何故、詞は生まれ、人は語り、語り合うのか。何故、人は哥い、相聞こえるのか。何故、詞を緘ざすと孤毒が廻るのか。詞と獣語の竟には、文字と文様の界には何が在るのか。大地を擦り、砂絵の様に風を纏った母の草書は、時を超えて何を描こうとしていたのか。幼い頃、睡魔を堪えて耳を傾けていた、夢の中の不思議な蠱い。
古事の うたをらよめば いにしへの
てぶりこととひ 聞見るごとし
些々やかな膳を立て、慎ましい暖を囲み、夜毎、母が玉垂れの緒を辿り、百伝ふ謂われの綴れ織り。鉄郎は母の膝の温もりの中で幺さな笹舟を漕ぎ、幾つもの國を航り、海神の彼方を目指した。見上げる空は、雲居なす心を映す真澄鏡。幸せだった。砂を食む様な日々の中でも、詞が順風に帆を張り、何処迄も広がり続けた、母の膝の上を巡る草枕。人の幸せに優劣も甲乙も、大も小も無い。其れを、
萬づの事を理を以て測る小量の見識が、呉竹の言の葉を弄び、魂極る命を買い叩いてきた。神の物語を人の世から弁けるのは、首を切り落として生きるに等しい。祖国とは国語で在り、人は詞の轍を拾って歩んできた。タイタンの茶店で鉄郎の手を取り、婆心を供した、嫗の慧眼を借りて見霽かす心の軌跡。御前は誰だと咎められて、己の起源を往古の詞で誇れる幸甚に鉄郎は奮えていた。ちちの実の父を失い、柞葉の母が独り背負い続けた殉難の口碑。其の荷役を解き、未来へ引き継ぐのは、
鹿兒自物 独粒種で血を辯けた
己の他に誰が務まる
荒ぶる矜恃の烈しさに網膜が血壊し、耳を聾する天彦が鉄郎の掴み掛けていた詞を掻き消した。メーテルの虚ろな瞳から顔を上げると、ズレ落ちた腕章と制帽を直して背筋を伸ばし、揃えた踵を鳴らして改まる車掌。燃え盛っていた黄眸が暗黒瓦斯の相貌に滲んで、恰幅の良い体躯が一回り小さく、遠離って見える。不意の胸騒ぎに、
「待ってくれ。」
然う云い掛けた刹那、運命の重厚な扉が喪然と軋みを上げた。
「鉄郎様、銀河超特急999号を御利用下さいまして誠に有り難う御座います。永らく御待たせ致しました。次が終点の停車駅で御座います。御手回り品に御忘れ物など御座いませんよう、御準備を整え、到着迄、今暫く御待ち下さいませ。」
一乗務員のアナウンスを越えて、忽然と宣告された最後の審判。神の物語へと続く門戸は啓かれたのか鎖じたのか。厳格な最敬礼で更なる試練を暗示する紺碧の大審問官。墨守一徹の職務に遵じ、決して面を上げようとし無い車掌の忠節に秘した愛惜が、堅忍と慚愧で硬直している。未だ銀河系内を馳せる999が一体何処に終着すると云うのか。乗車券に刻印されたアンドロメダの荘大な威名を覆す唐突な欠末。鉄郎は有終の美に胸が弾む事も、掉尾の勇を鼓舞する事も不能、唯、未知と云うだけの空疎な迷妄に怯む事をのみ戒めた。覚悟や決意の欠片を掻き集めた処で、己の非力を粉飾するだけの事。身の凌ぐ凌ぐ凶事に逆らうのは、天に叛くに等しく、身を委ねるに如くは無い。鉄郎は五月蠅なす心を鎮め、一握りの信義と表裏を為す、疑懼の痼りに、其の幽かな一理に耳を澄ました。
合成義脳の核種が宿る、煙室を背に奉られた燦面鏡と、砕け散った様に取り巻く多針メータの小宇宙。鉄郎の骨身に染み付いた機関室の胎動が、残された刻の陰影を契み、乗り越えてきた嶮難嶮路が脳裏を逆走する。此の儘、何処迄も旅を続けたい等と、虫の良い事を口に出来る資格なぞ毛頭無く、込み上げる物が喉に熱く痞える許り。其の心余りて、詞足らず、今は何を口にして良いのか判らぬ鉄郎は、宇気比を力勉め終えて撓垂れたメーテルを擁き抱えると、平身低頭の車掌に目礼し、二等客車に向かって歩を踏み出した。旅の空に舞う行き摺りの詞と詞が星明かりとなって満天を埋め尽し、黒鉄の剛脚を蹴立てて天網を遍く無限軌道、
路遙知馬力 路 遙かにして馬の力を知り
日久見人心 日 久しければ人の心を見る
窓硝子一枚を隔てた車外を覆う無情の宙域に、己の闇を投影し、さ迷い続けた討匪行。引き裂かれた旅装を振り切り、萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。
前相見古人 前に古人を相ひ見て
後不見來者 後に來者を見ず
念銀河之悠悠 銀河の悠悠たるを念ひ
獨愴然而涕下 獨り愴然として悌下る
始發の電鈴も浮わの空に、天離る日々の幾星霜。人生とは是、凡そ獨學を以て杖と爲し、角髮を解いた少年の、無宿を師とする旅も復た然り。仟錯萬錯、終に是、壹錯と成す、壹片の紅志。刻は來たりて、奏でるは泪流銀河の最終樂章、別有洞天の涯に相轟き、此にて見納めの壹條龍路、詮ずる處は大團円か、雲に隱れし非業の星か。螢窗の火影に揮う渾身の末筆、果たして相成るや如何に。總ては最後の講釋で。
2022-10-20 10:02
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