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2023-03-06-1


 

    天外有天       天外てんぐわいに天有り

    山外有山       山外さんぐわいさん有り

    更高山外有更高山   更に高き山外さんぐわいに更に高きさん有り

    人生在世       人生は世に在り

    永遠追求       永遠に追ひ求めよ

    不到銀河終不歇    不到ふとうの銀河 ついきず

 

 星空に想い描いた荒唐無稽な都市伝説。眼を細めて見上げた天翔あまかける無限軌道への憧れは、夢と現実の一言では語り尽くせぬ、虚構と欺瞞の破滅に向けて冥走していた。1月1日 am 0:00 地球発、アンドロメダ折り返し、12月31日 pm 6:00 地球着の宙遊行脚。そんな有名無実の路程表は、メーテルが乗車するまで戒厳令を発動し、メガロポリスの都市機能を堰き止めた時点で知れた事。天から忽然と舞い降りた悪魔の乗車券。希望の欠片の様にウォバッシュの胸ポケットに仕舞っていた夢のチケットを、鉄郎は開け放った二等客車の窓外になまくらな瞳で放り投げた。差し向かいのボックスシートには、縹色はなだいろのモケットにもたれたまま意識の戻らぬ、母の空蝉うつせみに乗り移った鳳髪の令嬢。花に嵐を謳歌していた外面似菩薩内心如夜叉げめんじぼさつないしんにょやしゃの姿は其処に無く、甘美な昏酔の彼方に没している。血の池からあでやかに甦った聖母の休息。機賊に攫われた、唯独りの肉親を取り戻す為に地球を飛び発ち、決死の想いで探し当てた此の麗しき白痴美の亡霊を、果たして母と呼べるのか。指一本触れる事の出来ぬもがりの如き静謐を、今は息を潜めて看護みまもる事しか出来無い。

 宇宙を司る神秘と、転生した母の奇跡と、帯域制限で雁字搦がんじがらめの姿無き権力グローバリズムを巡り巡った無限軌道。窓を降ろそうとして腰を上げた鉄郎は、硝子の鏡面に映る物憂げなもう独りの鉄郎に、凍傷で頬の煤けた彼の日の孤児を垣間見て膝がくずおれ、シートの窪みが記憶している己の歪な成長曲線に再び身を投げ出した。タイムトンネルを突貫し、旧世紀から降輪した、C62形旅客用テンダー式蒸気機関車の光脚をよぎる一抹の翳り。豪放胆快ごうほうたんかいなボイラーを抱腹し、瀑潑煙蒸ぼくはつえんじょうするドラフトの放咳ほうがいが、顱頂ろちょうつんざく長緩汽笛と交錯して、空っぽに為ったウォバッシュの胸ポケットを吹き抜ける。アングルとリベットで組み上げられた壮大なドームを見上げて、茫然と立ち尽くしたメガロポリスステーションの大伽藍だいがらん。強制送還の様な出立に抗う事の出来無かった、ひ弱で無様な彼の時の鉄郎が唯唯、愛おしい。

 乗り遅れた列車を我武者羅がむしゃらに追い掛け、乗り過ごした様に駆け抜けた時間城の幻惑。失った物を取り戻した筈が、復讐のむなしさを掴まされただけで、鉄郎は寧ろ大切な何かを失い掛けていた。立ちはだかる障壁を破壊し尽くす快哉かいさいと、身命しんみょうを賭して戦塵の坩堝るつぼに突入する陶酔。終着の地に更なる激越な攻防を夢想する血に飢えた武勇。鉄郎の吐胸とむねを焦がす、烈情の内燃機関に依って鍛造されたおそれを知らぬ鋼の心は、何時しか殺伐としたおごりと為って、思春期の揺れ惑う自我をグロテスクな英雄指向へと駆り立てる。圧制に打ちのめされ続けてきた怨嗟ルサンチマンの逆襲。勝者に成った途端芽生える、優生選民思想。其れは機族の二の舞でしか無かった。人はか弱き者同士で在ればこそ寄り添える。いわんや血縁にいてを。淡雪の如く果敢無はかなき鉄郎親子の命運と、貧民窟で群れる事を拒んだ母の強靱な意志が織りなす陰影の狭間を、鉄郎の血筋が受け継ぐ「物の哀れ」は彷徨さまよっていた。力を手に入れる事で覆い隠されて終う、人としてき怯懦。心の迷い無くしてことばは無く、ことばの無いうたも無ければ、うたの無い旅も又、ゆめゆめからず。宇宙の果てまで辿り着けた処で、何を見出せると云うのか。人の世のたからとは何処かで手に入れる物では無く、内に秘めたことばが如何に輝いているのか、其の一心に尽きる事を鉄郎は知って終った。強者は人の道、足り得るのか。幾ら背伸びをした処で星から星に手が届く訳で無し。まばゆい許りの名誉栄達も所詮は世間に媚びているだけの綺麗事。絶界の宇宙に唯独り取り残されても、人は人、足り得るのか。黙して 言問こととう鉄郎の鏡影。非力とは無力に不在あらず。時の流れに翻弄され、仮に此の身が滅びても、ことばが心に根差している限り、其処が祖国のつちと生る。哥声の途絶えた母なる星を後にして、此処に極まる魂の遍歴。有為転変に移ろう其の光韻に、今、独つの句読点が拍たれようとしている。

 鉄郎は腰のホルスターから千早振ちはやぶる一刀彫りのかささぎを抜き取ると、流線型の銃身を鋼鋼こうこううごめく、ダマスカスの文様に眼を細めた。数多の凶事を調伏してきた、嘴烈しれつを極める光励起こうれいきの雄叫び。未曾有の戦禍を一翔に伏す黒耀こくえうの彗翼。少年の蒼熟な野心を撃ち抜いた九死の熱狂が、銃爪ひきがねの冷悧な感触を伝い人差し指の第二関節に絡み付く。母の眼を盗んでは、モラトリアムのヒステリーを喚き続けていた小兵に火を点け、破格の冒険譚を彩った天河無双の乱神。其の霊銃も、最早、鉄郎に取っては死蔵の宝刀に堕していた。義の神髄をかんがみれば武力も又、無力。余りにも傑出したちからわざわいを嬉嬉として呼び起こし、其の因力で我が身をも灼き尽くす。無論、似非左翼の唱える平和主義になぞくみするつもりは毛頭無い。あんな物は体制を武装解除する為の詭弁。暴力革命を迷彩する謀略のコードネームだ。天下平らかなりといへども、戦いを忘るれば必ず危うし。良く切れる刀ほど鞘に治まり、自ら師の座右にする物。れど、今の鉄郎に於いて、如何なる僚友、後見が吊り合うと云うのか。光量子のスパイラルで呪能の限りを尽くした星のやじりも、無用の用に供する時が来た。鼠輩狼党そはいろうとうを消尽する此の畏力いりょくを封じ、しかき元の鞘に治めなければ。鉄郎は無限軌道に閃いた行き摺りの出会いが、星の雫をちりばめた追憶の断片が、一点に集束していく予感に痺れていた。此の銃を受け取った瞬間に定められていたのだろう。約束とは護る為に存る。たとへ其れが力尽くでもだ。

 鯨湶げいせんの如き瀑煙と塵雷を憤愾ふんがいする猪首いくび突管とっかん黒鉄くろがねの甲冑に銅配管のマングローブが生い茂り、限界張力に達した溶接ビードとリベットの隊列に、泥塗りのフタル酸塗装が波を打つ。夜明けを知らぬ星の宿りに葬然とはためく哀悼の十一輛編成。除煙板のたてがみそばだてた鋼顔に、胸元を飾るヘッドマークの鼎連玖トリプルナイン。百萬光年を眺望する管制解析に合成義脳は没頭し、機関室の密造宇宙を多針メーターのバックライトが燐舞する。一瞬の明滅に影露かげろう文字盤のインデックス。た独つ名も無き星が産声を上げ、音も無く燃え尽きた。感動ポルノなぞ微塵も寄せ付けぬ、天網をあまねべる無情の摂理。其の冷たい掌の上で弐百萬コスモ馬力は発莢はっきょうし、漆黒の弾丸を追いすがる車窓の残像に、鉄郎の錆び付いた心の羅針が突き刺さる。

 

 

    鄕國不知何處是  鄕國は知らずいずれのところこれなる

    星雲瓏瓏     星雲 瓏瓏ろうろうとして

    唯愁過客多    唯 過客の多いなるを愁ふ

 

 

 

 

 

 何時、誰が計測したのかも知れぬ千切れかけた子午線みおつくしを限り、鋼轍こうてつの挽歌にむせぶシリンダードレイン。無限軌道は惰行制御に切り替わり、在来線とも違う荒削りな律動に、車内の胎響が身に覚えの無い鬼胎を宿して焦れ始める。鉄郎は車軸を伝って併走する不穏な韻子から耳をざした。何が待ち構えていようと、在るが儘を受け入れる。そんな色褪せた覚悟に態々わざわざ爪を立てる粗雑なエピグラフ。此の期に及んで狼狽うろたえるほどうぶじゃ無いと云うのに、余計な演出は却って白けて終うだけ。今は唯、二等客車の黄濁した白熱灯の温もりと、己の手触りで磨き込んだ銘木の意匠に包まれていたい。其れは他の乗客とて同じ事。死者も生者も、皆、同じ車輌に乗っている。時間も空間も、ことば無言しじまも、今も昔も、幸も不幸も、神も人も、向かい合わせで相席する旅の道連れ。一夜限りの詩情、一条ひとすじに、招魂の列を為す。果てし無き漂泊本能か、将亦はたまた、遙かなる帰巣本能か。旅心と里心が窓硝子一枚を挟んで擦れ違い、鉄郎の傾いだ愁眉に導かれておもむろに旋回する999の機影。宙枢管制の除煙板アンテナが何物かを捉えて煌めき、虚空に優雅な弧を描く車輌の連結が、映写機のリールの様に何時か観た場面を投影する。

 鉄郎は微かな遠心力に逆らって車窓から首を出すと、瓏瓏ろうろうとした辰宿列張の彼方に照睛しょうせいを飛ばした。乗車券に神神しく印字されていたアンドロメダの正体とは何か。M31の光点は天の河のほとりつどうカシオペアとペガススの狭間で、未だ弐百萬光年の彼方に座している。星空に散った偽造切符の無様な虚妄。まことしやかなれ事から目覚めた鉄郎は、見落として終う程の小っぽけな真実に気が付いた物の、年頃の空想癖を寄せ付けぬ余りの見窄みすぼらしさに、正視して良い物か何うか躊躇ためらっていた。星系図から零れ落ちた歪な隻影が、999の蹴立てる進路の延長線上に一握りのしこりと為ってうずくまっている。此を停車駅と呼べるのか。メインロッドと連動する大動輪は既にトルクを失い、天涯に放置された異物に向かって滑走していた。泡沫うたかたの夢路を断絶する、途中下車に等しい不可解なアプローチ。恐らく砕け散った岩塊の再集積体なのだろう。何の天体の重力下に在るのかも知れぬ、小惑星と呼ぶ事すら烏滸おこがましい星屑の欠片に、銀河鉄道株式会社の誇る旗艦特急が魅き寄せられていく。

 此ではまるで、火葬場を素通りし、倒壊した墓石に急行する墨染めの霊柩列車だ。差し詰め乗客は生殺しの無縁仏か。趣味が良いにも程が有る。死出の旅路を冷笑する粗無際ぞんざいな行き詰まりに、もつれ合う幻滅と哀切。しかも其の全長5km程の奇矯なオブジェの土手っ腹に、何やらいかめしい鋼殻類が獅噛憑しがみついている。巻き戻されていく時の流れにり込んだ不吉な造形。鉄郎は迫り来る路線開拓の遺物に我が眼を疑った。座礁している。戦艦等と云う軍規や大義とは無縁の猛々しい軍装海賊船が、尾羽打ち枯らし、小惑星に舷側を叩き付けて轟沈している。死神の抜け殻の様な難破船、否、地縛した幽霊船と云うべきか。主砲参連装パルサーカノンを擁する歴戦の雄姿が見る影も無く、主翼をがれた満身創痍の船体と相俟あいまって、贅を尽くした船尾楼のレリーフが棺桶の花飾りにしか見え無い。永遠に鎮火し無い燃え止しの様に、禍禍まがまがしき妖気を揮発して999を引き擦り込む賊軍の怨霊。哥枕うたまくらには程遠い、旅の余情を絶した戦闘廃棄物。其の凄絶なデスマスクと眼を合わせて終った鉄郎は一瞬にして氷血し、心の臓を握り潰された。抹香鯨まっこうくじらかたどる貪婪な船首に、生皮を剥がれた髑髏の蛮章。何時か再び巡り会えるとは思っていたが、真逆まさか、こんな姿で対面するとは。惑星ヘビーメルダーの上空に光覚冥彩を纏ひ待機していた漆黒の舶鯨。謀援鏡ゴーグルの偏光フィルター越しに見上げた、キャプテン・ハーロックの乗艦、天駭弩級てんがいどきゅうのアルカディア號が完膚無き迄に朽ち果てている。銀河鉄道株式会社グローバリストに使い捨てられた革命家ネオナチの末路か、セイレーンの愛の仕打ちに入水じゅすいした密漁者の溺死体か。墓石を暴かれた儘、埋め戻される事も無く見捨てられた自由と冒険のイコン。スペースノイド解放を謳った海賊旗は打ち破れて、触角宙枢コスモソナーを兼ねたメインマストに支度解甚しどけなく絡み付き、隕石に因るクレータとは明らかに異質な、周囲の巌壁を穿うがつ無数の爆撃痕が、戦況の片鱗を物語っている。宙原ちゅうげん倭寇わこうおそれられた漢の身に何が起こったと云うのか。完全に動力が断絶していると思しき、廃船の座礁した側舷の傍らで、独片ひとひらの灯火が瞬いた。鉄郎が穿鑿せんさくする猶予も無く、長緩汽笛を鳴らし、烽火のろしびを引き擦り乍ら、アルカディア號が再集積体ラブルパイルに接岸している間隙に造設された最後の停車場に、黒鉄くろがねの魔神は我が物顔で潜り込んでいく。

 岩盤を掘削して仮設した縞鋼板のプラットホーム。採掘資源搬出用のガジェットとバケットが並列する構内は、一瞥して鉱業物流の拠点で在った事が見て取れる物の、山積みのコンテナと鋼製支保工の建設資材が崩れ落ちたまま打ち捨てられているのを見る限り、稼働している気配は微塵も無い。ロードヘッダー、ドリルジャンボ、ブレーカー、破砕機と勢揃いした鉱削重機の四天王。ホイールローダーとマンモスダンプのコンビに挟まれた集塵機。バッチャープラントに横付したコンクリート吹付機。組み上げているのか解体しているのか判然とし無いセントルは半ば砂礫に埋もれ、穴兎、さながらの無秩序に掘られた坑道に、送風管とコンベアが蔦葛つたかずらの如く入り乱れ、洞穴の闇に伸びている。

 電光掲示処か案内表記も見当たらず、人工重力と帯気圏制御以外は自搬式照明の動力が生きているだけの廃坑に、水蒸気の雲海を巻き上げスライディングストップする999。アンドロメダの皇星とは似ても似つかぬ、取って付けただけのプラットホーム。人の気配もアナウンスも無ければ、駅名の頭文字独つ転がってい無い。ブレーキ弁を解放し、息を整える機関車の胴哭を等閑に付し、招かざる客に峭然と黙秘を続ける忘れ去られた機材と設備。そんな裳抜もぬけのコンテナターミナルにそびえ立つ、ガントリークレーンの隊列にアルカディア號は串刺しにされて身罷みまかり、変形したランプウェイで辛うじて着岸している開放された舷門のおとがいは、声無き断末魔を絶叫したまま硬直している。盗掘紛いの開拓事業、資源の草刈り場を巡る、兵共つわものどもが夢之跡を目の当たりにして、己のすさんだ心の廃墟に迷い込んだ様な錯覚。此の様子だと誰かの出迎えが在るとはとても思え無い。

 鉄郎は席を立ち、モケットに埋もれているメーテルを一瞥すると、会葬者の居無い告別式の様に空席を敷き詰めた、二等客車の連続を突き進んだ。此の停車駅の存在が何を意味するのか。せめて停車時間だけでも知ら無い事には始まら無い。未だ嘗て、到着のアナウンスを怠った事の無い車掌が姿を見せぬ、一抹を越えた不安。其の虚ろな予感は寸分違わぬ現実と為って風穴を空けていた。

 紺碧のブレザーと制帽が絞首刑を執行された様にハンガーに掛かけられ、身支度の済んだ車掌室。恐らくは探しても無駄なのだろう。暗黒瓦斯の靄は晴れ、跡形も無き車掌の消息に、謹厳実直な往時を偲ぶ美しく整理された備品達の鈴生すずなり。ちいさな事務机の上で使い込まれた黒革の手帳が置き手紙の様にかしこまり、脇に添えられたカップラーメンのロゴが最後の乗客をしづかに見上げている。鉄郎は黒革の手帳には手を付けず、カップラーメンだけを頂戴して車掌室を後にした。左様さよならだけの人生に余計な後腐れは無用だ。態々わざわざいとまを告げに来る事務的な別れなんて、本物の別れじゃ無い。散り際をわきまえぬ花は造り物。もう二度と会え無いからこそ、人は出会えた意味を噛み締める。右も左も判らずに迷い込んだ身無し子を、乗降デッキから見守り続けてくれた車掌のつぶらな黄眸。炭水車を脱け、火室かしつの余熱でくすぶる煤けた運転室に辿り着くと、クレアの破片を掻き集め、おどしでは無いと銃を突き付けられた事すら懐かしく、萬謝のうしほに眦が熱くなる。立ち止まっては駄目だ。たとへ姿形は見えずとも、制帽の鍔から覗く彼の物静かな眼差しは、今も小兵の背中を押し続け、焚口戸たきぐちどのペダルを踏み込んだ鉄郎を、開帳した半割の扉へと促していく。

 にじり口を匍匐ほふくして切り替わる機関室の神冥しんみょうな亜空間。鉄郎は何物にも動ぜず沈思にふける、此の崇高な異相の結界が好きだった。メーテルの御乱心から逃れて深呼吸する至情の一時。有り余る若さを軟禁する無限軌道の護送列車に在って、無意識の浄域を底流するボイラーの缶内は、己の蒼熟な妄執や焦燥の源泉に辿り着き、解毒出来る常闇とこやみのオアシスだった。全能の集積回廊が誘う彼我の仙窟。そんな暴発寸前の野生児を何時でも無言で迎え入れてくれた硬質な怜気が、今、釘を打たれた棺桶の様に窒息している。此は単なる自律待機制御の類い等では無い。演算処理のシーク音はプラグを抜かれて耳鳴りに掻き消され、メーテルの宇気比うけひに感応していた、多針メーターの幽玄なバックライトの小宇宙も星滅しょうめつし、合成義脳の核種コアが宿る、煙室を背にまつられた燦面鏡さんめんきょうほのかに放電し、をののいている。何うやら客車の動力は非常給電方式に切り替わっているらしい。何時もの癖でウォバッシュの胸ポケットに手を当てた鉄郎は、ライトモードにして翳そうとした乗車券の感触が指先を擦り抜けた瞬間、光が一層遠退いて見えた。シャークソールの跫音あしおとだけが膠着を穿うがち、壁面にインローで嵌め込まれた風防とベゼルを、手探りで進む漆黒の寂滅じゃくめつ。電脳の限りを尽し、幻の十一輛編成を束ねる999の叡智えいちが、超絶なる其の営為を放棄して、生き埋めにされた岩屋戸いはやとの様に昏睡している。御神体の御隠れになった御社おやしろか、愛の枯れ果てた石女うまずめの子宮か。素人には修復不能な運行管理システムのゼネストを前にして、鉄郎の口角は微かにほころんだ。行く手をざされればざされる程、進むべき道は現前とひらかれる。鉄郎は何時も機関室でしている通りにわずらわしい視聴覚を遮断すると、仮死喪神の筐体に反響する己のことばに耳を澄ました。

 何を今更、999の合成義脳に言問こととへと云うのか。総てを暴き立てる事が真実だと云うのなら、真っ昼間の盗掘や、皇統の断絶を嗅ぎ廻る革命の犬と変わら無い。此の星とアルカディア號に何が起こったのか、車掌は何処へ消えたのか、地球へと折り返す為に999は目覚めるのか、一体、俺は此から何を為す可きなのか。そんな答えの書いて有るクイズ番組の台本なんて必要無い。銀河鉄道株式会社の機密なぞ知った事か。疚しい事が有るのなら、勝手にコソコソ遣りやがれ。満天の星空に裏の顔なんて有りやし無い。宇宙の何処に隠れ、逃れようと宇宙は宇宙だ。若し此の儘、小惑星の出来損無いに取り残されるのだとしたら、其れなら其れで、人間狩りで死に損なった己の命と、今一度ゆっくり向き合う良いチャンスだ。抑も、俺がくたばる前に天河無双の999が御釈迦に成ったのだとしたら、其処まで此の旅を耐え抜いた自分を誉めてやる。

 鉄郎は闇の中で踵を返し、焚口戸を脱けて機関室を後にした。999が核醒しなくとも、メーテルに上書きされた母の自我が目覚め無くとも構わ無い。たとへ、鉄の塊に還元しようと999は999で、記憶や髪の色が変わろうと実の母は実の母だ。無限軌道を巡る神の物語に、死者が復活する恩着せがましい奇跡なんて御呼びじゃ無い。宇宙のことわりを司る、大いなる神秘が心に満ちていれば其れで良い。車掌の無口な暇乞いとまごいにした処で、全宇宙の総重量はびたもんめたりとも変わら無い。其れは己の息の根が止まっても、銀河の星態系が砕け散っても同じ事。にわかに甦る、遭難列車の中で竜頭の説いた質量保存の法則。浅はかな知恵許りが先走って聞き逃していたこと走馬灯リフレイン。通過してきた停車駅を辿る様に、二等客車の古惚ふるぼけた座席の一つ一つでくつろぐ、姿無き満席の同窓生達と旧交を温め乍ら凱旋し、鉄郎が席に戻ると、人事不省じんじふせいで在った筈のメーテルの姿は露と消えていた。

 果てし無く続くかに思えた回想が目撃まばたき独つで打ち切られ、弱竹なよたけの輪郭を記憶したまま縹色はなだいろのモケットが沈没している。網棚のアタッシュケースも煙に巻かれ、亡霊列車の本領発揮か、無人のホームで息絶えた無人の999。

 

 

     かの方にいつから先にわたりけむ

           浪ぢはあとも殘らざりけり

 

 

 然して誰も居無くなった何て、本の中だけの話しだと思っていた。最終ステージと云うだけ在って流石に芸が細かい。舞台は整った。空っぽのボックスシートに用は無い。手掛かりを探すだけ野暮だ。カップラーメンの包装フィルムを剥がし乍ら、メーテルと四六時中睨み合っていた指定席に別れを告げる鉄郎。御陰で何から手を付けるべきか、選ぶ手間が省けた。二等客車を突っ切って向かう最後の晩餐。食堂車の給湯室でカップラーメンに湯を注ぎ、引き出しの中から割り箸を抜き取ると、クレムリンレッドのホールを素通りして、喫煙室の何時もの席に腰掛ける。鉄郎親子の命を繋ぎ止めた至高の三分間。其処で初めて999の車内に時計が存在し無い事に気が付いた。乗車券のマルチ機能が無いとタイマーの独つもセット出来無い己の不甲斐無さに微笑み、適当な処で蓋を開け、何時もより少し硬めの麺を頬張る鉄郎。オリジナルスープとグルテンの濁流が喉を爆ぜ、雑食の本能が高カロリー、高塩分の化合物に武者振り付く。何んなに地球から遠く離れようと、人類は麺類だ。飛沫を上げて唇とカップを行き交う割り箸の狂騒と、横隔膜で啜り上げる忘我の白熱。毛穴と云う毛穴が決壊し、汗の礫で粟立つ顳顬こめかみ。顔を伏した芳醇な湯気の坩堝るつぼ韜晦とうかいする意識。滲み渡る滋養が歓喜と成って、全細胞の野性が息を吹き返し、瞬く間に飲み干した最後の一滴があつき溜息の底で弾けた。眼裡まなうらで充血した星々が冥滅し、背摺せすりに身を投げ出すと、脳血流が胃壁に降りて朦朧とし、高潮した血糖値がなまくらな睡魔を苦遊くゆらせる。

 何も慌てる事は無い。時間なら幾らでも存る。後もう少しだけ、此の旅に明け暮れた日々と二人きりで居たい。車掌が消え、メーテルが消え、次に消えるのは999か俺なのか。其れとも幻の女を追って、復た新しい夢を駆け巡るのか。人も我が身も、生まれ落ちた星にも呪詛を吐き、廃棄物の尾根を漁っていた彼の頃には及びも付かぬ、時空の限りを尽くした道程みちのり。若し此が最後のページなら後書きなんて要ら無い。此の物語の主役にして唯一の読者が、結末を濁して如何どうする。空のカップを膝の上に拍ち降ろして高鳴る、黒耀の瞳に結晶化した、誰の物でも無い一握りの誇独。磨き込まれた此の旅の宝物が湛える、射干玉ぬばたまの輝ける闇を、青春の残り香が鳳髪を霏霺たなびかせて吹き抜け、少年の小鼻を思わせ振りにくすぐった。ちょいと小腹を満たした位で、何を感傷に浸っていやがるのか。覗き込んだ死の淵が叱咤する背伸びした達観。未だ焼きが回る歳じゃ無いだろう。我に返った鉄郎はカップと割り箸をダストシュートに叩き込むと、糞みてえに殺風景な、どん詰まりの停車駅に飛び出した。

 タップ溶接で仮止めしただけの無闇に響き渡る縞鋼板を踏み締め、定尺の鋼管を現場でぎしただけの手摺りで囲われた、足場に毛が生えただけのキャットウォークに降り立つと、最後迄居残った腐れ縁の女房役が既にいきり立っている。此の愚図り方は電脳梅毒や偽計因子の類いじゃ無い。肌身離さぬ付き合いだからこそ判る、むしの知らせ。鉄郎の腰骨で急き立てる霊銃が何者に感応しているのか、大凡おおよその察しは付く。後は此のかささぎ御心みこころの儘に、逃れ得ぬ因力の必然を信じるのみ。鉄郎は歩廊面だけをグレーの錆止めで一刷きにした、縞の目も塗り潰せて無い杜撰な施工の粗を数え乍ら、紙縒こよりの様に身悶えているタラップを伝って、ドッキングデッキに飛び降りた。プラットホームから下の階層は、座礁した難破船の剛頑な舷側に因って、H鋼の躯体が針金の様に押し潰されている。此処から先は駅構内の光も届かぬ、星明かりだけの世界。人工重力を体感出来る範囲は帯気圏制御内の筈だが、其れも何処まで届いているのやら。蛇腹の様に波打つ大破したランプウェイを舌垂したたらせて挑発する、髑髏を冠した搭乗口。闇黙の絶叫を捻込まれた鬼門のおとがひに、鉄郎が醒め醒めとした炯眼けいがんを点すと、ホルスターから抜き取った黒妙くろたへの霊鳥が、引き裂かれた理想郷、アルカディアの傷口に首を突っ込めと、彗翼の銃身をよじって焚き付ける。

 花火の終わったリアルな鼠賊そぞくのテーマパーク。クルーにも見限られた此処からが、本当の開園時間だ。キュビズムを具現化した瓦礫のアトラクションを乗り越えて潜り込む正真正銘の幽霊船。動力の欠片も無い艦内の墨殺された世界に、戦士の銃は更に狂おしく共鳴し始める。喚んでいる。かささぎが彼の漢を喚んでいる。完全に奪われた視界と入れ違いにもたげる鵲の情念。ダマスカスの文様に刻み込まれた歳月が、握り込んだグリップから上腕を伝い、鉄郎の海馬へと巻き戻されていく。

 

 

     少年 拾有參じふいうさん春秋にして

 

 

 天頂の一等星を仰ぎ、高らかに掲げた紅顔の血意。鉄郎が在りし日に覚えた激情と寸分違わぬ焦燥と初期衝動が澎沸ほうふつし、畳み掛ける急激な知覚変動に頭蓋と脳圧が悲鳴を上げる。総ては鵲の呪能の儘に。押し寄せる、もう独りの鉄郎が駆け抜けた、もう独つの物語。

 

 

 

 

 取って付けた捨て台詞を叩き付けて飛び出した第六衛星。地球から系外へ逃れる移民船団に転がり込み、瀬取りの積み荷に紛れ乗り継いだ、何処へ向かうのかも知れぬ密売航路。貨物スペースに詰め込まれた盗難重機と盗掘資源の隙間に寝そべり、涸涸カラカラと笑っていた放埒な浮浪児。唯只管ただひたすら、夢に飢え、怖い物なんて何も無かった。難民を装い、紛争地域で戦死者の追い剥ぎに明け暮れていた処をスカウトされた零細民間軍事会社。宙域警備人材支援センターとは名許りの、物流パイロットに飽き飽きした退役軍人ゴロツキの吹き溜まり。シミュレーターの中で昼寝をしただけの研修。片道の燃料を詰め込み、後は現地調達の一言で丸投げにする、使い捨ての部隊。何の説明も無く仮眠室のベッドから放り出された初陣。砲撃位置と降下位置を取り違え、敵陣ど真ん中で迎えた実戦に、解き放たれた鵲の砲哮。識別信号を無視して一斉掃射する霊銃の蛮勇。阿鼻叫喚の焦土を制覇する恍惚。圧倒的なちからへの覚醒。核磁雷処理から略取誘拐、有らゆる特殊任務に喰らい付き、叩き上げの王道を駆け上る。民営化された戦場は少年の英雄願望を虜にした。宇宙開拓と云う民営化された領有権のバトルロイヤル。外注部隊の参入に人道的な大義や派兵の論拠なぞ有る訳が無い。コストを最優先し、パラサイトされているAIを鵜呑みにした杜撰な戦略策定で袋小路に陥る前線。マスコミを抱き込んで隠蔽する挽回不能な戦況。面白い様に欲目が裏目に出る軍産議員ネオコンの思惑。スポンサーの意向で敵と味方が二転三転する現場。都合の良い時は協調し、雲行きが怪しくなると決裂する、偽りの連帯感と使命感。砲撃と共に飛び交う敵対戦力へのリクルート。背後から発砲されて勃発する、部隊内での銃撃戦。戦利品の分配が高じて奪い合い殺し合い、生き残った独りが総取りする遺体と遺品の山。補給物資の横流しと機密の垂れ流し。軍資金に群がって共謀し、給与の未払いに共闘する勝者と敗者。現役時代に培った知識と技術で横領の限りを尽くし、敵側から安価な燃料を買い上げ、差額を着服する軍事コンサルタント。兵舎の発展場を盗聴する宦官スパイ。拘束した捕虜と民間人を防塁にして進駐する紛争監視団。特別ボーナスの為に爆撃する、停戦協定の調印会場、軍法裁判、宙域戦犯法廷。より高い報酬と生きている実感を求めて戦役依存症の亡者がひしめく、休戦期間に設けられた呉越同舟の業務説明会。

 孫請けの嘱託だった少年は暴力の解放区を席巻して頭角を現し、何時しか元請けのパトロンから直接指名を受けて現場の指揮を執る様に成る。絶頂だった。髪の毛一本で在ろうと黒を白と言わせる破天荒な権限。戦場のヒエラルキーから睥睨へいげいする壮快な寵児の眺望。然して思い知らされた。弱肉強食を勝ち抜いたピラミッドのいただきですら手の届かぬ雲の上、投資家と保険屋の算盤で弾き出される茶番劇に。敵対する開拓団の両陣営に出資し、紛争の長期化で軍需と紛争資源の価値を吊り上げる鉄板のサイクル。宣争広告代理店に依って強引に統制される世論。売値が付いた時点でバースデーケーキの蝋燭の様に吹き消される戦火。指一本触れずに相手を屈服させる。其れこそが真の勝利。武力衝突とは所詮、こじれた現場の後始末か、政治的なデモンストレーションでしか無い。其処で武勇を競うのは野次馬のいななき。小手先の膂力りりょくに酔う勝ち組の捨て駒。時の趨勢は丁々発止の利権を巡る、買い手と売り手の合意に拠って、戦う前に其の落とし処は決していた。人の営み、姿形とは金の威光が落とす影。歴史の流れは金の流れ。戦争も復興もデスクに積み上げられた諸経費の独つ。そんな浮世の以呂波いろはも判らずに、悪魔の掌の上を転がっていた傀儡くぐつの戯れ。本丸は常に帯域の彼方で寛いでいた。

 資本家の余興でしか無い、虚しい勝利の美酒。醒める事の無い悪酔いに、見失ったちからの矛先。積み上げては突き崩す子供の積み木の様な時間潰しの作戦。兵士の機械化に因り、ノスタルジックな死語と為って久しい傷痍しょうい軍人。肉体を失っても、供給される筋電義肢を継ぎ足して現場に蜻蛉返りする傭兵達。然して何時しか兵器と一体化し、戦略システムの中に埋没していく自我。事務的に組まれる核爆撃のタイムテーブル。焼き直したアニメの様に繰り返される機動部隊の斬将八落チャンバラ。そんな荒寥とした日々の狭間で、ショートメールの様に割り込まれた、労働争議鎮圧のスポット案件。非番の分隊を叩き起こして向かった現場。其処で再会した燐寸マッチ箱の様な移民船。初めて宙域へ飛び出した彼の日に同船していたディアスポラの末裔が、ウランの鉱脈で凝縮した小惑星に獅噛憑しがみつき、半狂乱で応戦していた。原子力発電と核武装は民族独立の石据いしずゑ。金剛石の様に血束する、断腸の想いでくにを捨てた者達のアイデンティティが、主君無き落ち武者の寄せ集めを蹴散らしていた。

 チェチェン、クルド、チベット、テュルク系ウイグル人、民族浄化の荒波に揉まれ、埒の明かぬ地球上での領土確保と国家承認に見切りを付けた数多あまたの少数民族は、其の篤き信仰を護り続ける為に宇宙を目指した。然して其処でも、難民就労プログラムと云う名目で、財産、労働力、人命、信仰と言語を、強制収容所の手配師に搾取され、蹂躙された。過酷を極めるテラフォーミングの人柱にぎ込まれた亡国の民。蜂起しては掃討され、其れでも決して途絶える事の無かった、先祖から受け継がれし流浪の物語。数と力を凌駕する不撓不屈の雄叫びに母の教えが甦る。祖国とは国語。耳底みのそこで燻る家学の灯火が、移民船の中で沸き返っていた、聞き慣れぬ未知の原語を照らし出す。せ返り、血走る古族の息吹。其の軋みを上げる反骨心に打ち負かされて敗走し、其処でようやく浅い夢から眼が覚めた。

 業績が上がらず海賊化していく赤字部隊を掻き集めて旗揚げした、宙域難民解放運動の母体。スポンサーには事欠か無い。稀少、且つ、潤沢な鉱床が在ると云う試錐探鉱データをでっち上げれば、審査の結果を待ち切れず、投機に逸る銭ゲバは先を争って値を付ける。今の今迄、時代と空間を越えて世界を欺き続けてきた者達は、偽りの栄華に終わりが在る事を理解出来ず、其の射幸心にブレーキは無い。騙されたと気付いた出資者への配当で叩き込む在庫処分の弾道弾。金に飽かせた豪奢な居城は偽造証券の様に良く燃えた。真っ当な勤めとは程遠い、気兼ねは無用の泡銭あぶくぜにを元手に襲撃する奴隷市場。解放された者達は義勇兵と成り、天網を遍く鉄の絆と絆。回り出した歯車は唸りを上げ、宙域のあらゆる弱者が自由の旗の下に集結し、バケツを被って寝起きをしていた浮浪児は、寄る辺無きスペースノイドをも包括した、人民戦線の総裁に君臨した。

 勝利と開拓の先に広がる人類の新しい世界。預言された約束の地は系外に在ると云う確信。大気圏を突破した新世紀の太陽崇拝。神の国へと導く快進撃に、熱狂する銀河長征の十字軍。宇宙の創世から綴られてきた黙示録の完結。光あれ。心に轟く神のことば。併し、支配者と被支配者は背中合わせの双生児。数百年、数千年と虐げられてきたルサンチマンの逆襲は何時しか制御を失い、迫害の鎖縛から解かれた群民の本性は、去勢されていた選民思想を呼び覚まし、暴君の素顔を曝け出した。強奪の限りを尽くすゲリラの地下組織化。厳格な宗旨の解釈と主導権を巡る、友軍誤爆の応酬。組織の肥大化は求心力の分散を産み、其の混乱の綾を紐解く内に掴んだ、同盟の分裂を支援する不可解な資金の流入。手繰り寄せたのは戦狼の赫い九尾。実業左翼の甘い毒牙に増長した民族主義は冒されていた。領域での主権を密約し、壊乱分子を囲い込む中疆ちゅうきょうマテリアルの暗躍。嘗て弾圧を受けた元締めに擦り寄り、造反有理を喚いて足を引っ張り合う同宗異族。金の流れに流され暴利を競う神の子供達。空中分解した廉潔な理念と信念。帰する処、銀河蒼生の進退を賭けて巨悪に立ち向かい、抑圧された肉体と精神を宙域に解放するなぞ唯の火遊び。母屋を取られて庇に立ち尽くす、器では無かった己の才覚。歯止めの掛からぬ離反の連鎖。其の疲弊した組織に出資と提携を打診する新たなパトロン。重い腰を上げた銀河鉄道株式会社。白羽の矢を立てた魂胆なぞ顧みず、中疆と覇権を争う巨人の肩に、崖っ縁から飛び乗った。のみしらみを飼い慣らすのに、何故、寝惚けた忖度なぞ差し挟んで終ったのか。浮き足立った忘恩負義の同胞を焼き払う、己の不甲斐なさから兇変した粛正の炎群ほむら。始めから固陋ころうに徹するべきだった恐怖での支配。迷える子羊が歩むべき道を定めて鞭を打ち、買われた腕で鉄路開拓の汚れ仕事を全うする、表の無い二つの顔。理想郷アルカディアを求めて漕ぎ出した方舟の、舳先へさきは挫け、帆は破れ、掲げる艦旗は髑髏の怪生けしょうに身をやつした。現場の尻拭いを押し付けられた上に、本社の蠱害こがいと毒突かれる、血泥ちみどろの汚名。其処で掴んだ汚職と醜聞の闇が、浅間敷あさましき役員と株主を葬る墓場と化した。首の無い巨人に背乗りして歴任する取締役から会長職。陰のフィクサーから表舞台へ、海賊王から鉄道王へ。太陽を呑み干し、蝕甚しょくじんの月は昏昏こんこんと煌めく。喜びを分かち合う者の無い、誰一人として寄せ付けぬ謀略の頂点。屈辱を晴らし、虚栄にまみれただけの終着に、安らぎも無ければ、信頼の置ける朋輩も、刃向かう敵も無い。昼夜を問わぬ朝貢の列を遥かに見下ろし、我が物とした無限軌道に去来する亢竜こうりゅう慚愧ざんき。嗚呼、我もと銀河の一粒子のみ、何ぞた今と昔と有らんや。闘争の日々の中で肉体は戦地の焦塵に棄し、古傷の眼底から脳膿瘍を引き起こし電脳ボードに換装すると、かささぎの呪能はついえ、亘天一哭、少年の元を飛び発った。

 

 

     日月擲人去   日月 人をてて去り

     有志不獲騁   志有るもするを

 

 

 

 

 鉄郎の海馬で反響し、骨肉を揺さぶる、もう独りの鉄郎が駆け抜けた青春の幻影。難を逃れず己を貫き、何処にも辿り着く事の無かった航海の落日が、暗転した眼裡まなうらの彼方に没し、999に押し流されていくだけの、物見遊山とは比べ物に為らぬ灼熱の半生が、一瞬にして燃え尽きた。追いすがる事を許さぬ時のやじりが頬を掠め、総てを語り終えて鉄郎の手に舞い戻ったかささぎが闇に紛れている。再び幽霊船の艦内に突き返された鉄郎の見当識。何処を何う歩いたのか、立ち尽くした正面に、鍵穴から灯りの漏れる突き当たりの扉が、真鍮のドアノブを無言で差し伸べている。敵と味方はたがへども、戦禍の苦楽は相通ずる盟友との再会。飴色の拳と堅い握手を交わして扉を開けると、大海を征する者が世界を制した時代の侠薫きょうくんが、ほのかな潮風をまとひ閃いた。

 燭台の火影に浮かび上がる古木チークと彫金のマチエール。銀河の荒濤あらなみで磨き抜かれた往年の意匠が湛える膽然たんぜんとした凄寂せいじゃく。其の寡黙な招待に固唾かたづを呑んで応える鉄郎。誰在ろう、艦の全権を握る漢の聖域に、疑懼ぎくを差し挟む余地なぞ無い。海賊王のそら飛ぶ居城。絶望から逃れ、星の無い夜空に思い描いた冒険と活劇の象徴。憧れは眩し過ぎて、涙が治まるまで見上げ続けた。彼の絵空事でしかなかった艦長室に今、足を踏み入れている。其れも無限軌道があざなふ、もつれた因果を断ち切る為に。最早、鉄郎に取って夢とは甘美にふける為の一服から、打ち破るべき幻想へと色褪せていた。己の中で作り上げた権威に何時迄も媚びてて何うする。彼の頃の自分は機賊に襲われた吹雪の中に棄ててきた筈。鉄郎は開け放った扉も其の儘に、手にした得物を最上段で諸手に構えると、肺の腑に張り詰めた気魄を、グリップから伝導するかささぎの呪能で絞り出す様に振り降ろした。船尾楼のレリーフで縁取られた飾り窓を背に、書斎机の星系図に左腕を載せた益荒男ますらをが、右隻の眼帯越しに鉄郎を睨み付けている。堅忍不抜を絵に描いた、逆賊の旺羅わうらで漲る屈疆くっきょうな其の風格、坐してなほ、泰山北斗を仰ぎ見るが如し。釣り鐘外套がいとう前裾まえすそから覗く、胸元にあしらわれた髑髏の紋章。其の不敵な微笑みが名告なのりを挙げる、スペースノイド解放戦線総裁の初代を冠した、アルカディア號をべる最後の英傑。貧民窟のノミ屋に張り出されていた、銀河連盟捜査局の第一種特別指名手配の3Dモンタージュが甦る。赤錆色の蓬髪に覆われた、死神をも瞠喝する降魔ごうまの隻眼。研ぎ澄まされた鋭利な外顎がいがくに、一抹の翳りがよぎる喪然とした頬。地獄の底を封じ込めた眼帯と交差して、強靱な意志で貫かれた鼻梁を限る、歴戦の縫合痕。指を銜えて見上げていた赤手配書の精悍な面魂が今、眼の前で息衝いきづいている。ウイングバックチェアからおもむろに腰を上げる気怠けだるさの中にも立ち昇る王者の威徳。雄渾な体躯の圧迫感で窒息する、質実な器財で固められた船長室。尊崇は不敬だ。恐縮し、へつらう者達の下心は寧ろ火に油。命を投げ出して立ち向かってくる者にしか心を啓か無い。ハーロックとは然う云う漢だ。迷ったら撃て。星間運輸機構が出資する格外報奨金の筆頭株は伊達では無い。暴君との謁見に手心なぞ侮蔑に等しい。賞金首を狙われてこそ海賊の誉れだ。

 

 

   故國銀河幾度更  故國の銀河 幾度いくたびあらたまる

   英雄埋骨不埋名  英雄 骨をうずめて名をうずめず

 

 

 中段に構えた霊銃の千早振ちはやぶる羽動に、瞬く緋彗の照星。脳の髄を網羅する中枢神経の小宇宙をβ-エンドルフィンが逆流し、法悦と官能のさざなみが人差し指の第二関節に充血する。満を持した星辰一到の白熱。指数函数を瀧騰たきのぼる臨界曲線。銃爪ひきがねぜる晶撃に、挨拶代わりの銃咆が発莢はっきょうし、嘴裂しれつを極める光量子のスパイラルがハーロックの右の脇腹を掠め、飾り窓を撃ち砕いた。艦内に轟く砲撃を受けたかの如き光励起の激甚。室内に降り積もっていた粉塵が舞い上がり、狼藉者の凶弾を浴びて猶、憫笑を湛える伝説の軍神つはものがみいかの逆鱗を以て為ても、姑息なブラフは通用し無い。併し、鈷藍コバルトの残像に引き裂かれ、外套の身頃に隠れていた、二の腕を欠く無斬な右肩は暴かれた。硝煙を苦遊くゆらせて情事の後の余韻に浸るみだらな銃口。鉄郎は諸手に構えた其のきんを解かずに、緋彗のポインターを海賊王の眼帯にロックしてにじり寄る。

 「此の銃に見覚えがあるな。」

 強迫か自白かの是非なぞ何うでも良い。始めから有無を云わせるつもりは毛頭無い。調べはうに付いている。回りくどい罪状認否も二の次だ。懺悔室の神父様じゃ在るまいし、御上品になだすかして等いられるか。

 「運命の答え合わせの時間だ。観念しやがれ。」

 鉄郎はそびえ立つ隻腕の巨像に声を張り上げる事で、錯綜する感情を懸命に抑え込んだ。既に此の漢を巡る宿怨の憎悪は、熱烈な萬謝の念へと傾いでいる。此の出会いが無ければ今の自分は有り得無い。瓦礫の中で眼に映る総ての物を呪い、世界と一切交わらぬ儘、醜く老いさらばえていた事だろう。宇宙へ飛び発ち、無限軌道を駆け抜ける事が出来たのは、総て此の漢に突き落とされた苦難と、焼きごての様な檄の賜物たまものと云っても過言では無い。此の漢の魂を惹き合わせる因力は本物だ。其の恩を返せる資格が俺には有る。此の漢を救えるのは俺しか居無い。エメラルダスも然うだった。己の弱さを誰とも分かち合う事が出来ず、其の脆寂ぜいじゃくと虚無を、ちからを誇示し撥ね除ける事で欺き続け、屈折した矜恃は何時しか肥大化した自我へと変異し、骨の髄まで転移していった。自刃じじんに等しき武力を振り乱し、孤独な勝利を貪る、名声と汚名で混濁した二つの顔。制御不能な自己顕示欲とは裏腹に、海賊王と云う殻に閉じ籠もりふるえていた、もう独りの鉄郎が今、其の破綻した偽りの仮面に手を掛けた。

 ハーロックの甘噛みしていた、いはく有り気な口角のほころびが突き崩す王者の壮貌。顳顬こめかみの静脈が怒張し、天を衝く赤錆色の逆髪さかがみ。此が鉄郎の追い求めた無限軌道の終着なのか。颯爽とした秀眉が苦悶の渦を巻いて眼窩がんかを縁取り、マルチコマンドの回転ベゼルに切り替わると、目搏まばたき独つせずに血走る隻眼が、其の星眸に積算尺のインデックスを刻んで拡張し、猟奇を帯びたプラズマが名刺代わりの眼帯を引き千切る。インローで埋め込まれたサブダイヤルが炯炯けいけいひしめく、火眼金睛かがんきんせいのモノアイ。狂瀾のカドミウムレッドを剥き出し、満身創痍の皇鼎こうていが其の本性を現した。梅毒に冒された醜男しこをの如く鼻骨が捩れて欠損し、頬肉のただれ落ちた顴骨かんこつ緑青ろくしやうの酸化被膜がむしばみ、饕餮たうてつの文様が下顎から這い登ってくる。鋳造ちゅうぞうの業火に人類で在った頃のおもかげを掻き消され、露わになった脊椎にまで達する左脇腹の裂傷。ダブルのジャケットに縫い込まれた髑髏の紋章は足許に焼け落ち、其の異形を勝ち誇る、型破りの深手は覆うべくも無く。名にし負う海賊王が手負いの鉄道王へ、メーテルの雷刃に切り刻まれた隻腕肋裂せきわんろくれつの機械伯爵へと変貌していく、魔道に屈した人類の成れの果て。機族の分際で、何故、破損した部位を換装しないのか。己の罪をひけらかす様に刻印した、怪異千万な虚仮威こけおどしを、鉄郎は醒め醒めと眺めていた。凍死寸前の白魔に呑まれて母を見失い、剛性軍馬の鞍上あんじょうから瞠喝どうかつ一つで心の臓を鷲掴みにされて、命乞いをする事すら出来無かった彼の夜。こんな陳腐な屑鉄の焼き直しにひるんでいた己に熟熟つくづく反吐が出る。紅蓮の妖気で捏造された文明の奇術が熱演する、素人狂言は此処迄だ。電脳化に依って理性と向上心を素粒子レベルで制御し、宇宙空間を越える無限の知識を構築し、生活、人生、産業、経済、歴史、あらゆる時間と空間を効率化し、未来永劫、優性種で在り続ける。然う火裂ほざいていた挙げ句に此の様か。新世紀の霊超類が聞いて呆れる。人類も機族も情報と云う寄生虫に背乗りされて生かされているだけの裳抜もぬけの傀儡かいらいだ。権力の頂点に昇り詰めた煽動者インフルエンサーも所詮、寄生虫に寄生された寄生虫でしか無い。

 進歩する歴史の名の許に人類を駆逐した機族の唯進論。科学技術の発展、画期的なイデオロギーと完璧に情報化された社会構造に因って格差と紛争は消滅し、世界は着実に革新していくと豪語した御題目は、人類に未開の原人と云うレッテルを貼っただけで、理性に拠り弁証法的に進歩していく筈の歴史観は、唯の紙芝居で終わった。其れは人類が自らを生類の頂点と思い上がり錯誤した構図を、居抜きの儘、看板を挿げ替えただけで新装開店したのと変わら無い。霊長類も霊超類も、人類も機族も、所詮、競争と破壊と云う枠組みの中で自傷行為に陥った、屠殺場の同じコンベアーではらわたを暴かれ、押し流されていく順番を待つだけの畜群だった。とどの詰まり此の世界は、理性が社会構造を築き上げ、発展してきたのでは無く、太古の時代からつねに、理性は構造の生み出す力学に隷属し続けてきた。共同体の制度、風俗、階級が意志と行動を規定し、自由で主体的な理性なぞ唯の妄想。機族の専進原理主義も、進歩する歴史と云う信仰、人類の語り継いだ神話の亜種、其の他の独つでしか無かった。

 古来、神と人が共に暮らし、神と人に、ことばうたと祈りに区別の無かった神話の時代は、機族社会とは異なる社会構造を謳歌し、人間本来の卓越した知性と語彙、豊穣な無意識に拠る深想世界で満ち溢れていた。デジタル化した知能の解析処理を限界まで拡張し、如何いかに認知中枢モデルの精度を突き詰めようと到達出来ぬ、悠久の歳月を費やし、感性と創造力と歓喜に祝福されて野性から芽生えた、観察と仮説と検証に拠る普遍的な思考の根源、人の心を司る信仰と神秘。現在を生き抜く上に於いて足枷でしか無いと、過去を憎み破壊してきた者達のおそれる、覆しようの無い生命と精神の核心が其処には在る。神話の世界は文明に疲れた個人が潜り込む、イデオロギー的防空壕では無い。人が神と共に在った時代を信じようとし無い、過去の無い者に未来は無い。何れほど合理化を極め競争社会を生き抜いても、人間の存在、其の物に勝ち負けなど無い様に、社会を、世界を、然して宇宙を文明と未開で断絶し、優劣を付ける事も出来はし無い。此の宇宙を外から俯瞰すれば、極限まで集積化した機族文明も民族誌的資料の一つとして、機械化した風俗に相対化され、分類されるだけ。寧ろ、自然の摂理では無い、自ら小細工したシステムに縛られて沼田打のたうち回っている其の様は、神の領域を目指した理性からは程遠い。集団構造の範囲内で限定された世界に於いて、自由な意志も理性も主体も果敢無はかなき錯覚でしか無い。だが、其の不自由な意志と理性と主体の限界を自覚する事で、人は初めて独善的な世界観から目覚め、人生と家族と社会と未来を本当の意味で真剣に考え、一度限りの命に配られた、取り替えの利かぬ運命のカードを手に出来る。此の不完全で不揃いなカードを、答えの無い人生を意味有る物にする為、如何に切り出していくべきか。鉄郎の切った最後のカードは999のホログラムを仄めかし、宙空に散った。伯爵も自分も同じ車輌に乗り合わせ無限軌道を周回する、途中下車の出来ぬ旅人。其処には敵も味方も、善も悪も、電脳ファシズムも資本化された権力機構も無い。然して何より、こんなさかしらで趣味の合わぬ洋服乞食は、もう沢山だ。

 「何うした鉄郎。母の仇を前にして止めを刺さぬとは如何いかなる料簡か。貴様の如き流民風情に情けを掛けられる覚えなぞ無い。其の為体ていたらくで此処迄辿り着けるとは、幸甚な星の巡りに感謝しろ。」

 背後の砕け散った飾り窓が覗き見える、胸郭の豪快な裂傷が酷薄な笑みを浮かべ、腰から提げた直劍ちょくけんに手を掛けようとすらせず、鉄郎の最後通牒を受けて立つ伯爵の剛顔。墓荒らしを返り討ちにする、不貞不貞しい亡者の余裕が鼻に付く。絶望的な致命傷に反比例して生生しく駆動する、幽渾にして絶倫なる頑躯。全く以て何う云う造りをしているのやら、余程、棺桶の居心地が悪いのか、近頃の死に損無いと来た日には、納める年貢の荷役から戒名まで、手取り足取り世話してやらぬと駄目らしい。

 「撥条ぜんまい仕掛けのハムレットは其処迄だ。此の銃が何故えたのか未だ判らねえのか。カラスが鳴いたら温和おとなしく家に帰るもんだ。ママのスープが冷める前にな。」

 「彼の女には、宇宙の果てで朽ちたとでも云つておけば良い。」

 「彼の女だと。巫山戯ふざけるな。母さんと呼べ。

 

 

    思爾爲雛日  思へなんじたりし日

    高飛背母時  高飛かうひして母に背ける時

 

 

 死に場所を探してるのなら俺に任せろ。御前には帰る場所が在る。」

 「未だそんな家族なぞと云ふ幻想に囚はれてゐるのか。鉄郎、貴様に取つて母とは何だ。」

 伯爵は切り刻まれた巨漢を傾ぎ、膝下で折り返した鐵鍛冶アイアンスミスのライディングブーツで、痩せた床板の逆剥さかむけた柾目まさめなじり、砕け散った窓硝子を踏みしだき乍ら書斎机の前に出ると、付け狙う緋照のポインターを鋼顔にり込むモノアイで牽睛し乍ら、音素の粗い外顎がいがくのエアフィルターをしはぶいた。

 「母とは生まれて初めて出会ふ、意味不明な言語を操つて自己とをかつ、決定的な他者でしか無い。其れを生殺与奪の権利を持つ母の心を引き留める為、子は母の欲望の対象に成ろうとし、母を奪ふ父の存在と衝突するだの。其の愛憎劇を乗り越える事こそが精神の自立と成長の鍵で在り、人格形成を司る父、母、子供の三角関係、核家族こそが人類普遍の基礎的な単位だの。其処から逃れる事は誰にも敵はず、家族の三角形を逸脱した欲望は、神経症、倒錯、精神病に依つて自らを罰する事に為るだのと。そんな実しやかに唱へられた旧世紀の神話を、貴様は真に受けているのか。良いか鉄郎、エディプスコンプレックスなぞ、所詮、エーゲ海の地方都市で生まれた、数ある神のエピソードの独つ。其れ以上の悲劇でも其れ以下の醜聞でも無い。其の御伽噺おとぎばなしに尾鰭が付き、更に宗教が家族と云ふ雛形で偽装した共同幻想と交雑して嵌合体キメラと成り、帝国主義と抱き合はせで西欧列強から植民地に押し付けられ、精神分析の文学的なレトリックに依つて、あたかも抑圧が人間の文化的条件で在るかの様に吹聴されてきたが、そんな物の何処に妥当性が見出せると云ふのか。現に、アフリカの先住民族の中には、西欧社会ならば親子関係のもつれと解する神経症発作を、呪術を通じて、政治、経済の結び付きから、領土、縁組み、出自を巡る欲望のバランスが崩れた為だと、的確に突き止める知恵を持つてゐる者達も居た。暴力装置に依つて拡散した西欧の手前味噌な枡目ますめに押し込める程、世界は杓子定規に出来てはい無い。結局、そんな親子の葛藤なぞと云ふ似非ヒューマンドラマに酔ひ痴れた者達は資本家達のカモにされ、民族浄化と国家解体の最初のメスで在る、共同体の核家族に因る細分化は、資本主義の労働力を確保する奴隷船の波飛沫なみしぶきと、地球全土を一括で植民地支配する謀略に呑み込まれていつた。フェミニズムもLGBTも、人類の文化と伝統を破壊し脱コード化を押し進め、暗躍する資本家が、似非左翼に金を渡して仕組んだ社会の分断工作の独つでしか無い。人権を声高に叫べば馬鹿な奴ほど騙される。然して、家族関係の構築に挫け、破綻し、護る物を見失つたやからほど、其の埋め合わせと復讐の為に、平和主義、共産主義、リベラル思想と云つた、上辺だけ高邁な空理空論に逃避し、溺れていつた。其処は将に人の行動原理で在る欲望を見誤つた者達の掃き溜めだ。家族と云ふ呪縛が人格と欲望形成の根幹に在ると云ふ考えを棄てぬ限り、混乱した理性と肉体から精神の自由を救ひ出す事なぞ夢の又夢。家族と云ふ物が社会の一部で在る以上、個人的な人格と欲望と云ふの物は存在し得ず、何れほど荒廃した環境で在らうと社会との繋がりの中で人格と欲望は組成統合されていく。然して、近代化以降、資本主義装置で脱コード化された欲望は、社会や政治から切り離された親子と云ふ最小単位で再コード化され、欲望は食卓を囲む気骨無ぎこちない団欒でくぎられた領土の中に、冷めたスープの様な家族の対立に引き擦り降ろされ、模範的な家族で在る様に去勢されたまま閉ぢ込められた。鉄郎、貴様の様にな。出口の無い懊悩を精神疾患へと加速させる再領土化を完膚無き迄に破壊し、去勢された子羊を解放する最適解は、資本主義がもたらす脱領土化、脱コード化のリミッターを外し、分裂的な欲望の衝動に拍車を掛け、血縁の鎖縛を断ち切る以外に無い。鉄郎、己の胸に手を当ててみるが良い。貴様は母との間に己で築いた心の壁すら乗り越えられずにゐるのでは無いか。忠誠と反逆を通じた自我の形成すら経ずに、家族はおろか世界からも独立出来ると云ふのなら遣つてみるが良い。国家と社会が対峙せぬまま融合し、奪われた主権を取り戻す気力すら見せずに滅亡した、何処ぞの島国の様にな。見せ掛けだけの家族、民族、国家に取り囲まれた者達に真の自由は無い。電脳化に因つて開化した我我の精神は旧世紀のあらゆる障壁を打ち破つてきた。金銭関係と表裏を為す、欺瞞に満ちた人の絆や、多民族がひしめき、睨み合ひ殺し合ふ国境線に何の意味が在る。好い加減に眼を覚ませ。人の世の情けに甘えて身を滅ぼした者達の声無き声を聞け。」

 突き付けた銃口を塞いで断裂した胸郭が立ちはだかると、鉄郎はタイタンの草庵で膝詰めに差し向かい、茶の湯を交わした一時がカットバックした。小兵の啖呵たんかを意にも介さぬ孤老の矍鑠かくしゃくとした気丈。幾ら機械に換装しても、血は争えぬとは此の事だ。御負けに、片足を棺桶に突っ込んで引き擦り乍ら、頭熟あたまごなしの説教と来ている。全く大した漢だ。旅先で眼にした、巨悪を裏で糸引く頭目は大抵、何の信条も無く、己の大罪に自覚も想像力も欠落した、自分自身すら他人事と云う、小心で狡猾で陳腐で、遣る事、為す事、事務的なキャリア官僚と相場が決まっていたが、此の叩き上げの御尋ね物は、悪徳の度量と云い、力量と云い、外道を絵に描いた其の姿に寸分の狂いも無い。其れでこそ叩き直す甲斐が有ると云う物だ。

 「離散した家族を国境に追い遣り、不法移民の孤児を人身売買の網に掛けて売春宿に叩き売るのが精神の解放とは恐れ入ったぜ。海賊だけじゃ飽き足りず、山賊稼業にも御執心の鉄道王とはな。良くもまあ其のなりで、いけしゃあしゃあと。口が達者なのは誰に似たのか、其れも覚えがねえって云うのかよ。生憎あいにくだがなあ、俺はもう、そんな舶来の小賢こざかしい座学にはんざりしてんだ。理論武装しなければ保た無い外野の野次で身も心も粉飾し、俺が間違ってた、其のたった一言が云えず蜷局とぐろを巻いている分際で、何が眼を覚ませだ。糞みてえな合理を弄しただけの心無いことばが、俺の心に届くと云うのか。そんな御為おためごかしで俺の心を奪えると思ったか。人の命や財産、住んでいる土地を暴力で奪う事は出来ても、文字の無い神話の世界から始まる故事を敬い、気の遠くなる様な風雪に耐えてきた知恵に感謝し、命と命が繋ぎ止めてきた風俗や伝統を誇りに想い語り継ぐ心とことばは、決して奪う事は出来無い。心の奥底に宿る本物のことばは、決して忘れる事も、忘れ去られる事も無い。伯爵、御前の受け継いできた家学は何うした。人が最後に帰るべき場所は血の通った国語だと、赤線を引いて習ったんじゃねえのかよ。此の銃は其の国語の産声、人が神と交わしたことばに感応してちからを解き放つ。御前も此の銃を手に旅をしたのなら、何故、其の詞と心を手放した。」

 「人が神と交はしたことばか。そんな魔除けの護符を頼りにせねばならぬとは、旅の心細さが余程骨身に応へたか。私の言葉が場外批判だと云ふのなら、良く聞け。紀元前十世紀以前、古代の人類は独りの個人に統合された意識とは異なる、二分心と云ふ精神構造を持つていた。言語中枢のウェルニッケ野で音声化された、経験則にのつとる善悪の超自然的な啓示と、其れに付き従つて肉体を使役する神のしもべ。人の心には神が宿り、神と人が御互いに響き合つて暮らしてゐた神話の時代は確かに存在し、右脳で醸成される神神の声を、脳梁の前交連を介して左脳が老想化声や思考反響と云つた幻聴に変換して聞き取り、人々は日常の祭祀さいしや政治を執り行つてゐた。併し、数数の戦乱、災害、飢饉、疫病、民族離散と云つた混沌の中で、神神の声だけでは現実に対応出来ず、又、文字と比喩に因る認知能力と時空を把握する許容量の発達が、脳内で分散してゐた知覚を統合して意識の起源と成り、分割されてゐた心は衰退して、巫術ふじゅつ生業なりはひとする一部の者達を除き、神神は沈黙していく。神の声と云ふ指針を失つた人類は、取り残された自意識と向き合ふ事で哲学や宗教と云ふ心の杖を編み出し、独り歩きをし始め、然して何時しか、其の杖を抗争の刃に磨き上げていつた。」

 ストレージの検索結果を咀嚼そしゃくし乍ら、伯爵の顴骨かんこつで狡猾に蠢く饕餮たうてつの教鞭。頸椎を走るベアチップの神経質な明滅。量子化した史料の深層から浮上し、勝ち誇った形相が雄弁に自説を継ぎ足そうとした瞬間、鉄郎の添えた人差し指を魍禽もうきんの鉤爪が振り解き、霊銃の銃爪ひきがねが猛然と弾けた。算譜厘求サンプリングされた蛮声を掻き消し、断裂した胸郭の狭間を衝き貫ける鈷藍コバルトの皇弾。鳴る神の音羽おとはを散らす、かささぎいかりが暴発し、更にふかえぐられた風穴に揺らめく伯爵の斬像。

 「昔の相棒が忠告してくれてるぜ。理学の安直アンチョコで種明かしをすれば、人の心や信仰も語り尽くせる。思いの儘にも操れて、己の心も誤魔化ごまかせると思ったら、火傷位じゃ済まねえってな。」

 「では、エデンの園に還る為に、知恵の実を総て吐き出せと云ふのか。」

 「然うだな。少なくとも余計な口数が減って良い。此から連れて帰る間中、ガタガタ云われたくねえからな。」
 「此の躰を見て彼の女が喜ぶと思ふのか。恥を棄てた漢に立つ瀬なぞ無い。母を護れず死に損なつた貴様と一緒に為るな。」
 「如水庵じょすいあんの女将は、字が汚いのを俺が恥じると、本物を求める心が有るからこそ、恥ずかしいと思えるのだとさとしてくれた。
 
 
  身也者 父母之遺體也   身は父母の遺體いたいなり
  行父母之遺體 敢不敬乎  父母の遺體を行う へてけいせざらんや
 
 
 こんな躰で生き恥を曝したく無い。然う想う気持ちが有るのは、授かった我が身をうやまい、感謝する想いが有るからだ。たとへ此の身は朽ちようと武門の誉れ。情けを受ける覚えなぞ無い、なんぞと息巻くのは結構だがな、好い歳をして粋がってる木端侍こっぱざむらいの、面倒見る此方の身にも為りやがれ。そんな痩せ我慢で晩節を飾って何うする。樹木に皮が有る様に、機械にも被る面子が有るってんなら、そんな鼻糞みてえな瘡蓋かさぶた、俺が今此処で剥ぎ取ってやる。機械の体じゃ戻れねえって云うんなら、俺の躰に乗り移りやがれ。生身か機械か何て関係ねえ。会うだけで良い。其れだけで良い。帰りを待つ身に取って、御前の生き方が正しかったのか間違ってたのか何て如何どうでも良いんだ。取って付けた錦も、持ち切れない手土産も要らねえ。躰一つ有れば其れで良い。御前を待っている人が居る。此以上待たせるな。俺は此の銃に何度も助けられてきた。人の道を外れて、親の気持ちも判ら無くなった空蝉うつせみでも、俺には連れて帰る義理が有る。力尽くでもな。」
 今にも飛び掛からんとするかささぎを拝む様に諸手で押さえ込み、其の悲嘆を代弁し、魂極たまきはる鉄郎。戦士の銃は知っている。鋳造の煉獄に身を堕としても、此の漢未だ未だおみなの血が枯れて無い事を。然うで無ければ、こんな屑鉄、初めから頭を狙っている。
 「ふん、猪口才ちょこざいな。」
 如何いかにも大義と云った素振りで伯爵が腰の得物に手を掛け、撃ち抜かれた裂傷を軋ませ乍ら隻腕を大仰に揮い上げると、金象嵌きんぞうがんの刻印が火の粉を散らして、艦内の淀んだ埃氛あいふんを焼き払い、炒鋼精鍛しょうこうせいたんの武骨な刀身から立ち昇る邪気で、視界が歪み始める。鉄郎は怪周波を上げて逆巻く三半規管を掻き分け乍ら、魔刃の呪界に呑まれまいと、熱烈な火語で喉を裂き、舌を焦がした。
 
 
   歸去來兮     かへりなんいざ
   田園將蕪胡不歸  田園まされなんとす なんぞ歸らざる
   既自以心爲形役  すでに心を以つて形の役と
   奚惆悵而獨悲   なん惆悵ちゆうちようとして獨り悲しむ
   悟已往之不諌   已往いわういさめられざるを悟り
   知来者之可追   来者らいしやの追ふきを知る
   實迷途其未遠   まことみちに迷ふこと其れ未だ遠からず
   覺今是而昨非   今のにしてさくの非なるをさと
 
 
 鉄郎は母に対する己の負い目を曝け出す様に、痛恨の祖辞で伯爵を面罵し、然して、密かに微笑んだ。俺は恐らく殺される。九死を潜り抜けて来た鉄郎の古傷が疼き、手合わせをする迄も無いと五月蠅さばへなす歴戦の第六感。抜き身の兇刃を呪能で充たした此の漢は流石に物が違う。だが、其れなら其れで構わ無い。鉄郎はおみなが待っていると伝える事が出来ただけで、既に感慨無量の随喜が込み上げていた。漢とは身の丈を越える壮大な物語を欲望し、あらゆる生と実存の命題を、泡沫うたかたの栄華に溺れて忘れ去る物だが、伯爵はそんな吝嗇けち臭い玉では無い。おみなの為に鉄郎が総てをささげれば、此の漢は機械の躰が稼働し続ける限り、己の生を全う出来ず、其の報いを赤の他人に償わせたと、永遠に責めさいなまれる事だろう。現世での再会はかなわず、其の身は土に帰ろうと、伯爵の慚愧ざんきを橋掛かりに嫗の想いが生き続けるのなら、其れも又、男子の本懐。自分に出来るのは其処迄だ。構えた銃口に直劍の煮え滾る呪能を突き付けられ、鉄郎が天命を覚悟した其の時、
 「御取り込み中のようね。」
 開け放たれた扉の向こうから、神経を逆撫でるピンヒールの瀟洒しょうしゃ刻韻こくいんが聞こえてきた。耳に覚えの有る勿体振もったいぶった其のステップ。ほのかにそよぐ、999から姿を消した令嬢の雅な香貴。併し、何処か毛色が違う。疫病神がた独り増えた。鉄郎の旅を翻弄し続けた瑞瑞みずみずしき狂濫きょうらんとは似而非にてひなる、怨嗟えんさに満ちた嬌声が背筋を逆撫で、相対する隻眼のカドミウムレッドが見開かれた儘、死の淵を覗き見たかの様に氷結している。伯爵の忌まわしき呪能にひるまず、好き好んで暴虐の渦中に身を投じるれ者に、胸騒ぐ血潮の荒磯波ありそなみ。すると、銃撃態勢を解いて振り返りたくとも、此処で水入りと云う訳にもいかぬ鉄郎に、伯爵は突き付けていた直劍を落雷の如く床に突き立て、鷹揚に構えていた錆声さびごへの語気を神妙に引き絞った。
 「鉄郎、心して聞け。最早、彼の女を母とは思ふな。いざと為れば、此の老骨もろ共、奴を撃ち抜け。」
 霊銃の脅弾なぞ眼中に無い決死の忠告。余りに唐突で何を訴えているのか理解出来ず、鉄郎の眼路が銃口の照星からブレると、垂直に倒立したつかを手放し、腰へと廻した伯爵の隻腕が、翡翠ひすいの宝玉を後ろ手に取り出した。黎明の神秘を湛えてまろむ、いかつい五指に包まれたときしずく。メーテルの胸元を飾り、蠱惑こわくの痩身を護り続けた勾玉まがたまのネックレスが何故此処に。鉄郎の脳裏を巡る奇遇の経緯いきさつ。併し、其れを言問ことといとまも与えずに、伯爵は無言で鉄郎が羽織るベストの左胸に捻込ねじこんだ。高鳴る鼓動を弾き返すポケットの異物。伯爵は岩漿の滴る皇剣を抜き取り、銃を構えたまま放心している鉄郎の脇を陰鬱な足取りで袖に為ると、招かざる客人まろうどを声朗高らかに迎え入れた。
 「此は此は、プロメシューム様、御変はり無き其の御娟容ごけんよう、見目麗しく、拝眉の栄に浴する望外の僥倖ぎようかう、恐悦至極に存じます。してや、長きに渡り沙汰の礼節を欠いた不敬にも拘はらず、此の様な浅間敷あさまし苫舟とまぶねに足を御運び頂き、面目次第も御座いませぬ。」
 当て付けがましい美辞の継ぎ目から発散する鉛色の殺意。御座敷の太鼓持ちに成り下がった、伯爵の見え透いた御持て成しを、背後の上客はピンヒールのくさびなじり倒した。
 「そんな歯の浮く様な御追従おついしょう、何処で覚えてきたのやら。海賊崩れが、拾ってもらった恩返しに提灯担ぎとは、恐れ入るのは此方こっちの方よ。」
 メーテルの竹を割った様な痛罵が霞む、地の底へ引き擦り込む救いの無い醜念。鉄郎が恐る恐る振り返り、肩越しに垣間見ると、其処には心神喪失だった鳳髪の令嬢が、光励起サーベルを枝垂しだれ柳に構えて既に漲っていた。所在なげにうつろう露西亜帽と墨染めのフォックスコートに身を包む弱竹なよたけの蜂腰。無限軌道の女王は確かに蘇生し、燃え盛ってはいるが、其の様相はメーテルにしてメーテルにあらず。伯爵がプロメシュームと呼ぶ、此の物語を巡る最後の当事者が、し崩しの顔面神経に取り憑いて、酷薄な笑みを噛み殺している。終着駅に幽閉された、もう独りの女王が降霊し、此で役者が揃ったと云う事なのか。母の躰に相乗りするメーテルとプロメシューム。白紙の台本から脱け出した母と二人の女王の一人三役。全く収拾の付か無い夢幻能から鉄郎は閉め出され、後シテのプロメシュームはメーテルの躰をいたはる様に鎖骨の幽谷に手を添えた。
 「此の子のペンダントを何処へ遣ったの。」
 「あんな物に何時まですがり続けるつもりだ。此以上メーテルに罪を背負はせて何うする。其の荷を解いてやるのが、親の務めと云ふ物だ。」
 「此の子を散々利用して甘い汁に有り付いた金色夜叉こんじきやしゃが、云うに事欠いて、罪だ何だと。此の子を触媒に仕立て上げて、傀儡くぐつの責め苦に突き落としたのは何処の何奴どいつよ。」
 メーテルの肌理細やかな白磁の頬が見る間にしおれ、其の襞が眉間から鼻翼へと群がり、皺枯れる妄執の刻印。絶世の美貌が兇変し、鉄郎の母よりも年老いて見えるプロメシュームの険相に、伯爵の文身獣面が緑青ろくしやうの酸化皮膜を散らして応戦する。
 「何度云つたら判るのだ。メーテルに宇気比うけひちからが有るのを見出したのは、全く予期せぬ違算だつた。メーテルの受診してゐた宙域性神経発作の脳波計バイナリを、電劾重合体の冥彩素数解析に投入したのも、戦略的因子クラスターに浸蝕されたシステムの誤動作に因る物だ。カルテに添付された波形データが符合して、彼の化け物を撃退するなぞ誰が想像出来たと云ふのか。メーテルの神経発作が、永遠に自己準拠し続けなければならぬ、帯域覚醒した電劾重合体のジレンマに感応して引き起こされてゐたのも、後後のちのちに為つてようやく判明した事だ。何故、マイクロチップや遺伝子操作に冒されてゐ無い、伝世品種の貞女ていじよにのみ巫術ふじゆつちからが宿るのか。未だに其の因果も相関も藪の中だ。」
 「其れだけ斬り刻まれても、未だ足り無いようね。口で答える気が無いのなら躰に訊く迄の事。」
 「プロメシューム、私事にかまけて己を見失ふな。其の験体はもう限界だ。一刻も早く離脱しろ。私には其れを無傷で返す義務が有る。
 
 
     ますら夫の腰にまもりの太刀あれど
          人のなさけをいかに断つべき
 
 
 手荒な真似はしたく無い。帝層帯域に温和しく還れ。」
 プロメシュームの胸元を指して皇鼎こうてい旺羅わうらを放射する、天河を左治して作らしめた百練の利刀。燭台を限る伯爵の屈疆くっきょう玄影げんえいに覆い尽くされてなほ皺襞しゅうへきを極めた老醜を眉独つそばだてぬ、痩墨そうぼくの幽女。反目の狭間で押し殺された沈黙に室内が窒息し、破滅の瞬間を秒読みする心搏数しんぱくすう。鉄郎は直感した。伯爵を片輪にしたのは此の女、否、メーテルだ。何故、今の今迄気付け無かったのか。星のちまたを見渡して二人と居無い、絶対零度の彼の斬り口。何時何処で手合わせをしたのか、そんな穿鑿せんさくは何うでも良い。人の情けに免じて一度は納めた鞘ならば、其のしがらみを踏み倒し、メーテルを討てと云う伯爵の翻意に妥結は無い。彼の女を母とは思うな。、胸元の宝玉に託された、鉄郎を揺るがす迫真の宣告。敵や味方で色分け出来ぬ、善悪を越えた伯爵の絶望的な気骨を目の当たりにして、鉄郎は今、己が護るべき情理は何なのか、其の糸口すら掴め無い。然して其れは、母に乗り移った、憑き物にしても又、しかり。
 「温和しく還れですって。私も此の子も還りたいわよ、彼の頃の地球に。」
 燭台を背にした逆光を女物狂おんなものぐるひの絶叫がつんざき、伯爵のいはほの如き肩骨から饕餮たうてつの生首がねた。構えと云う構えも何も無く、アーク独閃ひとひら散らさずに、鉄郎の目搏まばたく刹那を掠めた其の斬像。戦慄の付け入る余地すら無い奇想の剣戟けんげき。鋳造の魔神を仕留めた、在るか無きかの一太刀がときの流れをも寸断し、花と散った意趣返し。総ては決した、其の筈が、柄を握った儘の隻腕は、何を血迷ったか跋折羅バサラの如く最上段に振り被り、宙を舞う頭骸も顧みず、プロメシュームに襲い掛かる。原形を放棄した鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうの斬骸をなげうつ電呪の特攻。微動だにせず黑怨を上げる喪装の憑き人。プロメシュームの顱頂ろちょうを捉えた刀身が幻影に呑まれ、床板を打ち砕いた激甚が斬り裂かれた胸郭を駆け抜けると、脊椎から右肩に達した雷刃が皇鼎の文身を二分した。轟音を傾ぎ、プラズマの血飛沫を巻き上げて、伯爵の下肢が膝から崩れ落ち、床に突き立つ直劍を握り込んだ儘、宙に没する隻腕と胸郭。首を斬らせて骨を断つ処か、斬っ先を交える事すら敵わず、床板を爆ぜる隻眼の生首が、ししの行き死ぬ遠吠えを捲し立てる。
 「鉄郎、撃て。躊躇ためらふな。」
 狂瀾のカドミウムレッドが其の睛能を蒼失し、顔を伏した儘、寝返りの独つも返せ無い。総ては鉄郎に委ねられた。併し、何を躊躇ためらわずにいられるのか。たとへ物狂いに取り憑かれていようとも、母に偽りの無い物を。
 「精精、吠えるが良いわ。其れが野良犬の仕事ですもの。但し、此の私に噛み付きたければ、狼に生まれて出直す事ね。」
 地に堕ちた穂垂首ほたれくび顳顬こめかみにピンヒールを突き立てて踏み躙り、首実検を堪能するプロメシューム。鉄郎は嗜虐を貪る其の熱狂に、母の押し殺していた本性を覗き見た気がした。厳し過ぎる気高さのひずみに悲鳴を上げる心と躰。鉄郎の窺い知れぬ業の深さに辿り着く呪能の源泉。鬼子母の抱えた闇に吠える愛憎の餓鬼道に、伯爵が止めを刺せと喚き続ける。此の変わり果てた姿も又、止むに止まれぬ母の真実なのだとしたら。其の迷いを断ち切らぬ限り本当の救いは無いのだとしたら。浜の真砂まさごを埋め尽くす程に、機界の荒魂あらだま調伏ちょうぶくしてきた霊銃も息を呑む骨肉の弔砲ちょうほう死蝋しろうで塗り固めた様に血の気の失せた鉄郎の面差しを、プロメシュームは藪睨やぶにらみ、我が子をおもふ余りの絶望を手当たり次第に訴える。
 「何うした、産みの母に弓を引くのが辛いか、苦しいか。らばとくと味わうが良い。私とメーテルが受けた苦しみは、こんな物じゃ無いのよ。」
 狐狼ころうの怪生が総毛立つ墨染めのオートクチュール。退行した母性が絶頂に達し、頭上に翳した光励起の撻刃たつじんが唸りを上げて弧を描くと、蛇蝎だかつ蠱尾こびを揮うが如く撃ち放たれたいかの光鎖が稲走いなばしり、母の物狂いに魅入られ、立ち尽くしていた鉄郎の左胸に炸裂した。しんの鼓動が途絶して背中を突き抜け、弾き飛ぶウォバッシュのベスト。伯爵の託した翡翠ひすいの宝玉が粉砕し、とらえられていたやつまたの鳳雷が、コード化された盲念を打電し乍ら室内に燦乱する。
 「おのれ、何故、貴様が其の勾琉石こうりゅうせきを。」
 閃光の彼方に掻き消されるプロメシュームの怒号。奇矯な幾何学放電の燐舞と、機銃掃射の如きブロックノイズを放駭し乍ら、船尾楼の飾り窓を総て叩き割り、無法の宙域に飛び発っていくアセンブラの暴霊。何がペンダントに封印されていたのか確かめる術も無い、視界を焼き尽くす凄絶な珀劇はくげきに、床の上に投げ出された鉄郎は両手で顔を覆って垈打のたうち、瞳孔から網膜を串刺しにした星のやじりを掻き毟る。灼熱の視床下部が脳の髄をえぐり込み、暗転するアルカディア號。座礁した運命の方舟を満たす、沖つ藻の霏霺たなびうしほ遠離とほざかる意識の中で、寄せては返す振り子時計の歯車が逆相し、舞い降りるとき海底わたそこ、沖去りにされた、追憶の遺伝史を玉釧たまくしろ、巻き戻されて千千ちぢに隠るる。
 
 
 
 
 
 
 の人の眠りは、しづかにめていつた。
 
 
     射干玉ぬばたまの闇にくるまる繭玉の
         玉緖たまをあやく哥枕
 
 
   淺き吐息の玉響たまゆらに、ひとつ復た獨つと、耳鐘みみがね幾重いくへにも折り重なりて、夢にうつろふ萬雷の蟬時雨せみしぐれなまくらに寢返りを打つた糖蜜たうみつやう微睡まどろみの最中に、ムつとする濕氣しけつた土埃が舞ひ上がり、古木の掠れたにほひと入り混じつて、首筋の寢汗に絡み付くと、板木を踏みしだ跫音あしおとすす頭熟あたまごなし降り注いできた。
 「鉄、未だ寢とうとや。さつさ、起きんや。」
 我が名を呼ばれて物憂げに半身を起こし、無意識にまはりの地邊田ぢべたを手探つて、指先にれた切れ端を、天から降りた蜘蛛の糸の樣に鷲摑む、未だ朧な見當識けんたうしき今日けふが右だか左だか、此處ここが誰で己が何處どこなのか。久方の光を求めて、握り締めた棒切れを支へに節節を勞り乍らおもむろに立ち上がつた途端、跫音が駆け巡る低い天井につむりつけ、つゑを賴りにこゑのする方へと躙り寄る暗夜行路あんやかうろ窮屈きゆうくつ常闇とこやみくわくする竹林の如き角柱かどばしらを、額にまとはり付く蜘蛛の巢と思しき綿埃を掻き分け乍ら擦り拔けると、軒端のきばの靑物車を貳階にかいから呼び止める樣に、旋毛つむじうへ快哉くわいさいぜた。
 「おふい、土竜もぐらの鉄の出てきんしやつたばい。」
 深綠しんりよく言祝ことほぐ薰風の壱陣いちじんが頰をさらひ、總身そうみ旺盛わうせいな日差しを浴びて、肺の腑に張り詰める豐滿な大氣。陽に焼けた玉砂利を裸足で踏み締め、藪の中から拔け出た樣に背筋を伸ばすと、肆方しはうあつする熊蟬の大勤行だいごんぎやうまさかなへの湧くが如し。今から盛りを迎へる夏が、此處を先途とかへつてゐる。
 「見てみんしやい、あんかほ、嗚呼、もう、でんしかやう。」
 「本なこつ、土竜んごたるばい。」
 「鉄、シカシカしえんや。」
 頭上から子供等の聲が次々と舞い降り、麻の單衣ひとへまぶした土埃を咳込み乍らはたき落とす。息吐く閒の無い惡童達の雜言ざふごん。浮はの空の鉄は照り付けるあまつ日をあふぎ、れるが儘に立ちくしてゐた。己のはだで直に感じる燦然とした陽氣やうき其處そこに在る確かな天主の惠み。にも拘わらず、瞼を開けてゐる筈のりやうまなこに、光の粒て獨つ射してこ無い。寢惚け眼ではまされぬ底の拔けた黯礁あんせう。鉄は塗り潰された墨繪すみの中にた。
 「鉄、昨日きのふ平原ひらばるに墓掘りに行くつて、云ふとつたらうが。忘れたとや。」
 「未だ未だ鏡な埋まつとるばい。」
 「吳服町んとこの先生に持つて行つたらくさ、高かう買ふてくれんしやあけんが。」
 「そらあ、本なこつね。」
 「土ん付いた儘、持つて來んしやいつて、云ひよんしやつた。」
 「おう、そいでくさ、何處い埋まつとうとか聞いてきんしやあけんが、絕對、云ふたらいかんばい。」
 「ばつてんがくさ、今日けふの夜は七夕やろ。」
 「やけんが良かつたい、皆、街道筋かいだうすじに出てをらんめえが。鉄やつたら眼の利かんでも土竜の鼻で何處い埋まつとうとか嗅ぎ分けるけんね。」
 「おい、鉄、貴樣きしやんの出番ぜ。聞こえんとや。めくらつんぼの振りすんなや。」
 鉄は盲の壱言ひとことに色を失ひ、とざされた光に眼を凝らした。頰をつたつて喉元を辿り、肩から肘へとくだつていく壱條ひとすじ心明しんみやう。鉄の眼は握り締めた杖の先に在つた。其れはおのづから然有しかある姿で、鉄の血肉に宿つてゐる。數多あまたの苦難を睨み伏せてきた黑耀こくえうつぶらな瞳は、白眼を剥いてつぶれてゐた。鏡を覗いて確かめる事すら敵はぬ其の事實じじつに、鉄は取り巻く蠻聲ばんせいに耳を傾ける事すら出來無い。惡童に背中から蹴られて杖に縋る、生きたまま突き落とされた壱點いつてんの曇りも無い昏絕の奈落。決して目覺める事の無い畢竟ひつきやうの闇には奧行きもひろがりも無く、唯、漠として鉄の前途に垂れ籠めてゐた。前世で踏んだ邪の道の報いか、身に覺えの無い宿業しゆくげふに吹き出す汗の滴りが眦から滲み入り、天を憎むが如く裏返つた斜視に爪を立てる。光を奪はれ、土砂降りの蟬時雨と惡童達の野次に取りかこまれた鉄は、無言でみつめ返してくる闇默あんもくに向かつて静かに息を整へた。幾ら心を澄ましても何も見啓みひらかれず、姿形を取り戻さぬ幽昏いうこんの世界。鉄のうつろな瞳に映るのは、盲を相手にかずに物を云はせ、かさに懸かつて弱きをくじく、本當ほんたうの弱者の心の弱さ許り。
 年季奉公で体を壞し送り返された用無し。親の商売が傾き小作に戻つた品下しなくだり。緣故を盥回たらひまはしにされて冷や飯を浴びる親無しを筆頭に、皆が皆、食い詰め、空弁當からべんたうを持つて通う學校から足も遠退とほのき、祭りの揃ひ袢纏にも袖をとほせず、長脇差ながわきざしに道を譲つては管を巻く伍人組の見下げた意氣地が、己の心を整理することばを持たぬ、生意氣盛りの苛立ちが、鉄の吐胸とむねつて空廻る。兔角とかく、浮世の侘び住居ずまひ、泣きの淚の隙閒風に、煮え湯を呑んで凌ぐは詮無き事。とは云へ、こんな不遇をかこつて腐るだけの明き盲の儘では本人のためにも成るまじと、鉄が杖を握り替へやうとした其の時、
 「た、鉄ば虐めよろお。恨めしかねえ。」
 耳骨をつんざ嬌聲けうせいに絕句する惡童達。木履ぽつくりの甲高い跫音が參下さんした亂癡氣らんちきを蹴散らし、焚き染められた薰衣香くのえかうが鉄の小鼻をくすぐつて頰を寄せ、
 「お、御孃おぢやう・・・・・、どげんしたとですか、こげなとこで。」
 喉が支へて支度しどもどろ棒振ぼうふら風情に、娘盛りの鼻つ柱が活きの良い啖呵を吹つ掛ける。
 「どげんもこげんも無か。大神おほがみしやんとこひいへの遣ひで來たつたい。しえん吉、あんたな方こそ、田圃の溝切りも藏の整理もせんと、こげなとこで何ばしやうとね。敎練けうれんに付いていかれんで學校にも出とらんとやらうが。油売つて飯の喰へるとやつたら、内とこの田圃も畑も返して、さつさと出ていき。莞爾かんじ、あんたんとこは、内の家で立て替へて遣つとうはらひの幾ら溜まつとうとか知つとうとね。内な算術の習ひ事ついでに、帳簿ちやうぼとかも見さしてもらひやうけんね。噓や無かよ。八重やへの眼ば見んしやい。」
 すねきず有る身の上を遠慮會釋えんりよゑしやく無くあげつらひ、獅子吼ししくする、壱領具足いちりやうぐそくから庄屋しやうや上がりのひとり娘。節を曲げた事の無い男勝をとこまさりの劍幕に、小作の野蕃漢じやがたらさはらぬ御侠おきやんに火の粉無しと、とんずらの目配せに、尻をからげて、いち参肆郞さんしらうけの踏みまろ。蟬時雨の暗幕をくぐり、先を押し退け逃げ去つていく。跳ねつ返りの御轉婆おてんばが鼻息獨つで雜魚ざこを追い拂ふと、盲の壱念いちねんで知らぬがほとけを決め込む鉄を、疳のをさまらぬ舌鋒は返す刀で斬り棄てた。
 「あげなシヤバぞう、何で木太刀こだちでくらさんとね。鉄は本なこつは強かとやろ。嗚呼もう、齒痒いかよお。」
 杖を握つた拳を撲つ、浴衣の袖に染め上げられた花鳥かてうが白檀の芳芬はうふんを振り撒き、黑襦子くろじゆすと染分絞りの昼夜帶ちうやおびが背を向けて、英吉利イギリス結びの束髮に差した、蜻蛉玉とんぼだまの小振りな壱本軸いつぽんじくかむざしが閃く、雅な御冠。生煮えの根菜には芯が有るのを承知でむづかる、臈長らふたけた素振りに袖を引かれて、鉄は滿更でも無かつた。さうして次第に、ときうしほが滿ちて黃泉復よみがへる遙かな遺傳史いでんし。千古を隔てた歲月のみぎはに流れき、鉄は老松神社の本殿の床下で、野良犬の樣に寢起きする己を取り戻していく。
 魏志倭人傳に其の名を刻み、倭国に於ける對外交流たいぐわいかうりう要衝えうしようになひ榮えた伊都国も今は昔。太宰府へ博多へと移りはる人の流れに取りのこされ、瑞梅寺から向かふは唐津と揶揄やゆされて久しき、山と海しか見當みあたらぬ糸㠀に生まれ落ちた、盲の浮浪兒ふらうじ。鉄と云ふ名付け親が誰なのか。たづねたところで返つてくるのは放埒はうらつな高笑いか、精精せいぜい、良くて苦笑ひ。態態わざわざ、急ぐ足を止めて壱席をまうける御人好しは無い物の、其れは其れ萬民の覺えが目出度めでたい裏返し。鉄は町の者達の潤んだ瞳に見守られ、皆が皆、其の將來さきを案じ、もち貰ひに來る瞽女ごぜ比丘尼びくにに成るわけにもいくまいに、すゑは按摩か琵琶法師びわはふしと、彼の家、此の家と引き取られても引き取られても、老松神社の本殿の床下に戻つてくる其の日暮らし。盲、土竜もぐらと呼び棄てられて何不自由ふじいう無い風來坊ふうらいばう天照あまてらすおほいなる神で天照大御神あまてらすおほみかみ、大和のたけし神で日本武尊やまとたけるのみこと、輝ける姬でかぐや姬と呼ばれるとほり、眼が昏くて盲の何が可笑をかしいのか。皆、其れぞれ氣の持ちやうが違ふのだから氣違ひで當たりまへ。名と体に壱寸いつすんの狂ひも無く、おしも、つんぼも、びつこも、どもりも、知惠遲ちゑおくれも、機族が人を狩る樣に繰り廣げられた言葉狩りに合ふまへの、皆、在るが儘に血の通つたことの姿。ことばは人に狩られ、人は機械に狩られ、鉄は美しい花の樣に摘まれる事も、さといがゆゑうとまれる事も知らず、唯、盲と云ふ名の人膚ひとはだの温もりに包まれて、噓僞うそいつはりの無い生を謳歌してゐた。
 「大神しやんなくさ、朝拜てうはいば濟ませんしやつたら、社務も放つぽらかして昼間つから長尾本陣で呑みよんしやあつちやもん。機嫌やう謠ひよんしやあとが聞こえてから、そげな大した要件えうけんや無かけんが、其處で話しは濟んどつちやけどくさ。」
 鉄の手を引いて老松神社の鳥居を潛り、遣ひの駄賃の少なさと學校がつかうでの愚癡ぐちを零し乍ら、氣の向く儘に步き始める八重。鉄は勝手知つたる己のにはに盲をわづらふ必要は無い。姬の御御足おみあし御所望ごしよまうなのは書房しよばう金光堂きんくわうだうか、將亦はたまた、筆屋の古川ふるかはか。鉄が眼裡まなうら地圖ちずを廣げて屡叩しばたくと、こずゑの朝露が彈けた樣に、ちひさな歡聲くわんせい貳人ふたりの背中を追ひ越し、火の見やぐらで見張つてゐた獨りが振り向きざまに吠え立てる。
 「あ、御孃、荻浦おぎのうらから筒井原つつゐばるの方に昇つた煙の選果場ん前で止まつたけんが、上りの汽車の來よんしやつたばい。」
 「本なこつね。鉄、汽車の來よんしやつたげな。見に行こ。」
 唐津街道からつかいだう、国道202號線に沿つて敷設され、明治43年の7月に北筑軌道が開業かいげふして丁度壱年。今川橋いまがはばし加布里かふり閒を約2時閒、平均時速12.8㎞の足で走つて追ひ付ける雨宮製小型蒸氣機關車じようききくわんしや客車かくしや壱輛を、牽き物と云へば馬と牛しか見た事の無い子供達は夢中で追ひ回した。數珠繋じゆずつなぎの金魚の糞を振り切る樣に吹き荒ぶ長緩ちやうくわん汽笛。軌道貨物に載つて運び込まれた新規の物資に群がる人人の眼の色や、新天地へ旅立つていく者達への羨望せんばうは、煙害に顏を顰める沿道の世帶、日露戰爭せんさう後の長引く恐慌きようくわうと、未だ採算の合わぬ新規交通事業かうつうじげふへの疑念を押し退けて、鐵道が町をへる、と云ふ熱氣を炙り立てた。時代に乘り遲れまいとするかの樣に鐵路の花道に飛び出す子供達。しかし、壱緖いつしよになつて駆け出そうとする八重の浴衣の袖を鉄は摑んで離さなかつた。誰もが目新しさに眼が眩み、帰り道を見失つた激動期。盲の鉄は盲だからこそ、本當の意味で前に進むとは何かを知つてゐた。光が見えるだけの俗眼とは物が違ふ、つぶれた瞳で足許をみつめた儘、壱步も動かぬ無言の唱導しやうだう。鉄に強く引きめられて心の搖れた八重は、意を決して切り出した。
 「鉄な、今晚、七夕に行くとね。」
 今日が星祝ほしいはひだと云ふ事すら知らず、何の當ても無い身の鉄が首を橫に振るのを見て、かたくなな其の瞳に迫る八重の眞劍な眼差し。
 「其れやつたら、八重と壱緖に茶臼山ちやうすやま御堂おだうに行つてくれんかいにや。壽福寺の観音くわんのん樣やのうして茶臼山の。今、佐賀から來とう狐憑きつねつけが泊まつとんしやつてくさ。内な、母樣かかさまの口寄せばしてもらひたかとよ。あすこん御堂は良う乞食の住みかうが。そいでからくさ、こん前、蜘蛛男のをるけんが見に行かんねつて、飯炊きのむつの云ふけんが付いていつたらくさ、あそこばしごいて、そん先から、ほうら、蜘蛛の糸ばい、つて云ふて、嗚呼もう、でんしかもん。そん話しば家ん人にしたらくさ、もう貳度にどと行きんしやんなつて、ゑらい腹掻いてくさ。おらびんしやあつちやもん。家ん人には皆と七夕見に行く云ふて出てくるけんが、鉄、壱緖に御堂に行こ。」
 八重が有無を云はさぬのは何時もの事だが、其の勝ち氣な物腰の中に密かな怯えが潛んでゐるのを、鉄が見逃す事は無かつた。選果場裏の茶臼山の木立にうずもれた、竹の子程の大きさの円空彫りの佛樣ほとけさま壱体いつたい安置されてゐるだけの、誰が建てたとも知れぬ破れ堂。板葺きの六畳壱間を、皆、土足で出入りしてゐるとはいへども、確かに日が暮れてからをんな子供が獨りで行く樣な處では無い。さうして、母樣かかさまの口寄せと云ふ神妙な口實こうじつ
 「鉄、暮れ六つどきに何時もんとこで待つとうけんね。判つとろ。
 
 
    君ならずして
 
 
 誰がをるとね。」
 と念を押し鉄の手を握り込むと、
 「鉄な口の堅かけんが賴むとよ。内な、他に賴める人のをらんちやけんが。」
 胸の内をさざめく憂ひや迷ひを拂ひ除ける樣に八重は駆け出した。追い縋る野暮を袖にする鮮烈な恥ぢらひ。頰を撲たれた樣に痺れて立ちくし、遠離つていく白檀の殘り香を手繰ろうとする鉄。其れを不意に、精力旺盛わうせいな煤煙が掻き消し、熱きドラフトの放咳はうがいを被り、運轉手と車掌しやしやうに怒鳴り散らされ乍ら、黑鉄くろがね悍馬かんば倂走へいそうする子供達の歡聲くわんせいが橫切つた。往き過ぎる時の流れの吹き溜まりに、再び取り殘されて終つた盲の浮浪兒。杖を指揮棒に地邊田ぢべたの伍線譜でリズムを取り、鉄は行商ぎやうしやうで賑はふ街道筋を獨り步き始めた。
 大里おほさと内裏だいりから博多、唐津の名護屋城、はては長崎平戶まで伸びる、江戶時代初頭に開通した唐津街道にあはせて、福岡ふくをか藩が舞獄山の麓に在つた民家や寺をうつし、宿場町に設へて榮へた筑前国ちくぜんのくに志摩郡の要衝えうしよう、前原宿。宿場通り御出迎への東構口ひがしかまへぐちを潛つて大手を振れば、豪商がうしやうの綿屋、酒藏の和泉屋を筆頭に、伊能忠敬も止宿ししゆくした町茶屋、團子屋に筆屋に手遊屋おもちややが、間口割りの地租におうじた、閒口參閒、奧行き廿閒にじつけんの鰻の寢床で軒をつらね、宿場特有の町屋造りが卯建うだつを競ひ合つてゐる。引きも切らさぬくるま往來わうらい、打ち水に土煙もしづまりて、店先に躍る掃き目の靑海波せいがいは、盲の裸足、其の潮騷しほさいかぞへ乍ら、いざ今宵こよひの星祭り、氣の急いて夕涼みの緣台早早さうさうに、杖の先で擦り拔ける彼方此方あちこち。八㠀精肉店の前を通れば、裏に呼ばれて屑肉の御相伴ごしやうあづかる小腹、年季奉公の子守が覺え立ての童唄合ひの手を拍つ。
 
 
    のこひき ごんねんさん
    のこのくず やんないや
    やろこた やろばつてん
    おやじが おおごるもん
 
 
 盲や跛や知惠遲れ、伍体滿足で無い者は商運をれて步くと尊ばれ、足を向ければ芥を漁らずとも施してくれる街道筋。何ね今日けふは遲かやなかねと袖を引かれる、鉄は宿場通りの顏役。其の耳に同じ身空で肩身の無き流れ者が、甲高き歌い口上、壱節ひとふし壱節ひとふし
 「巫女の口寄せ、竈拂かまどばらひはどげんかね。」
 緣台で茶に呼ばれ寬ぐ鉄の頰が强張こはばり、湯飮みに口を付けた儘、瞑れた瞳が覗き込む。咒具じゆぐをさめた外法箱げはふばこを、舟に見立てた紺の袱紗ふくさかつぐ步き巫女。しろ脚胖きやはん下襦袢したじゆばん、尻をからげた皓の腰巻姿は街道筋の眼を引いた。
 「ちよ、彼れば、見てみんしやい。」
 「何ね、何ね。」
 「あん氣違ひの狐憑きつねつけ、今年も茶臼山の御堂に泊まつとうつちやろ。壱昨日をとついに、婆さんの御堂ん中ばはきよんしやつたもん。」
 「何や復た、瓜ば土産に乳繰りにいくとや。其れよか、風呂のひとつも貸してやつたら良かつたい。後は如何とでも爲ろうもん。」
 「うや無か。あん狐憑が鉄ば産んだつちやないとね。」
 「おほ、然うくさ。御堂の中で産ばするとか云ふて、麓のもんな蒲團ば持つてきたり、湯う湧かしたり。大事おほごとやつたげな。父親てておやな町の若いもんか何處ぞの鰥夫やもめか知らんけどくさ。」
 周りの者は聞こえぬやうに耳打ちしてゐるつもりでも、地獄の底を聞き分ける鉄の耳には節の無い筒拔け。步みを止めず迫り來る口上こうじやうに尻を叩かれ、鉄はれいも云はずに席をした。耳を塞いでも割り込んで來るのが人の噂。ほれ、彼の鼻筋が何うの、橫顏が何うのと較べられ、鉄とて蒲魚振かまととぶつた儘、知らぬ存ぜぬで通すつもりは毛頭無いが、面と向かつてはやし立てる者を杖でしばき上げる時、力が入り過ぎて抑へが利かぬがゆゑに、口を聞いた事も無ければ、擦れ違うふ事すら避けてゐる。其れを今晚、態態わざわざかりねぐらにまで夜詣よるまうでと云ふのだから、今から足が重いのも無理は無い。楢崎米穀店の御呼ばれを袖に、西へ向かつた杖の先が小突いた追分石おひわけいし。唐津街道と志摩の村道をくぎつた標石へうせきと、西構口にしかまへぐち舊關番所きうせきばんしよは、送り返された者達の淚も乾上がり、手形をあらためたいかめしき往時の影も無く、宿場通りを拔けて丸太の溜め池の前まで來ると、糸㠀郡立農學校を取りかこんで糸富士を望む田園が、鉄の穩やかならぬ胸の内を埋め盡くした。分蘖ぶんげつはり、中干しをして再び水を張つた靑田の、鼻を突き、舌に廣がる爽やかな蘞味ゑぐみ。新しく芽吹いた綠が深みを增し、風の渡る葉擦れの音が、やすりの目の樣に幾重にも折り重なつて、薄ら寒い鉄の背筋を駆け拔けていく。
 
 
 
 芋の葉に溜まつた露を集めて墨を摺り、子女は文字、裁縫が巧くなるやうにと、竹の葉に色取り取りに吊してまつ手藝しゆげいや色紙、短册に、ふたつの歲に麻疹で死んだ末娘すゑむすめ、山の木馬牽きんまひきに出て谷底に落ちた許嫁いひなづけの冥福をいのことが入り交じり、啜り泣きの樣に擦れ合う笹なみが、今夜壱晚だけでも安らかに眠つておくれと、ふかかうべを垂れてゐる。武家の爺樣は白帷子しろかたびらで冷や麦の夕涼み。ふきの葉に團子だんごを供へ、迎へ火の樣に佰目蝋燭ひやくめらふそくともし、香を焚く家のチラホラ。祭りを祝うよろこびに家の格式なぞ無い、星の妹背いもせの天の河。町中の稚兒等ちごらが集合し、街道筋をれ步く高張提燈に、佛前でかねたたき御詠歌をんでゐた年寄りが、次次と軒に顏を出す。の浴衣に、下ろし立ての下駄を鳴らし、御囃しをかついで合流する靑年團せいねんだん。虫送りも兼ね、麻幹おがら松明たいまつを持つて畦に繰り出せば、田圃に點つた人の列が雷山川らいざんがはの堤へと壱條ひとすじに繋がり、子供達の天までとどけと揭げる燈火ともしびが、中天を限る星合ほしあひはまを染め上げた。
 
 
    筒井筒つつゐづつ 井筒ゐづつにかけしまろがたけ
       過ぎにけらしな妹見ざるまに
 
 
    くらべこし振り分け髮も肩過ぎぬ
       君ならずしてたれかあぐべき
 
 
 八重のほのめかした古哥こかなぞつて、定刻通り、鐘の音を賴りに街道筋へ戻つてきた盲棒めくらぼう。糸㠀の干拓事業が起ち上がる遙か以前の松原に、筒井原つつゐばると名付けられて幾星霜。泊産安とまりさんやす染井そめゐ井戶ゐどに、志登の玉の井、大原おほばるの大井戶と、名の有る掘り井に埋もれて、筒井つつゐくわんする町外れ、誰が呼んだか筒井筒つつゐづつ。八重は物蔭に隱れてゐるつもりなのだらう。浴衣に焚きめた薰衣香くのえかうと、髮に飾つた星七草のかすかな芳純はうじゆんが、必死で氣配を殺してゐる。幼氣いたいけ兒戲じきに眼を瞑る甘美な懲罰。鉄の指先が杖より先に町井戶の井桁ゐげたに觸れて立ち止まり、釣甁つるべの滑車を神社の鈴紐の樣に摑んで鳴らすと、
 
 
    風吹けば 沖つしら浪 可也かやの山
       夜半よはにや君が ひとり越ゆらむ
 
 
 木履ぽつくりの甲高い跫音が、嬌聲けうせいからげて駆けてくる。八重は美しい娘だ。其の面差しが視えずとも、觸れずとも、取り巻く者達の華やぐ聲色こわいろは噓を吐きやうが無い。八重が右を差せば皆が右を向き、八重が笑へば皆が笑い、八重が咳をすれば皆が案じる。貳見ふたみヶ浦に沈む夕陽の樣に誰もが愛でる其の娟容けんよう。宿場通りへと向かふ人の流れにそむき、八重に手を引かれて步く盲に注がれる畸異の眼を、鉄は瞑れた瞳で睨み返した。
 「ひとりでもちば、そんなにがめて、何うするとや。」
 「復た、かみさんの實家じつかに帰んしやつたとね。其りやあ、どげんかせんと、いかんばい。」
 「おほう、良かばい。良かばい。幾らでも持つていきんしやい。」
 「何ね、ふみちやんな、先輩ん事、好いとんしやあと?」
 「そら、うくさ、息子しやんの稼ぎよんしやあもん。」
 「嗚呼もう、極樂の蓮の上んごたるばい。」
 年の渡りに言寄ことよせて、賑はふ出店と棚飾り。貳星にせいの屋形を映そうと緣台に載せた七種しちしゆ御遊ぎよいうも涼しげに、乞巧きつかうの夕べは更けていく。行き交ふ人の合閒あひまを縫ひ、壱方的いつぽうてきに捲し立てる八重の口吻こうふんに無言の相槌を返す鉄。
 「七夕で皆、艶付つやつけとんしやあばい。鉄は見えんちやね。折角、内も壱番かとばてきとうとい。噓でも宜かけんが、少し位は誉めちやらんね。」
 「今度の期末、内は簿記以外、赤點ばつかやつたつちやがあ。もう、何うしやうかいにやあ。」
 「鉄は未だ汽車に乘つた事の無かとやろ。北筑の汽車ば今川橋で乘り換へたら何處どこ迄行けるとかいにやあ。宜かねえ。内も旅のしたかばい。鉄は何うね。内と壱緖に行かんね。」
 「鉄は仙女座アンドロメダつて知つとうね。内なくさ、今日けふ學校でならうたとよ。天の河の脇んところに在る彼がうばい。」
 八重の指差す明後日の方をあふぐ鉄に、八重は右だ左だと腹を抱へて指圖さしずする。何時もより口數くちかず多くはしやぐ八重に、鉄は其の張り裂けそうな胸の内を垣間見て、道化だうけを演じる事しか出來無い。年季奉公で身を粉にする端女はしため達が、今夜壱晚いとまを貰つて羽目を外す其の脇を、似而非にてひなる憂ひで彩られた、かぐはしきよそほひが擦れ違ふ。鉄の手を強引がういんに振り回して、何れが織り姬だ彦星だと星の空騷ぎに、氣が付けば丸太池を過ぎ、積み上げた夏蜜柑の芳醇はうじゆんな酸氣漂ふ選果場前で、木履の甲高い跫音が止んだ。鉄が八重の瞳を借りると、茶臼山の鬱蒼うつさうとした黑塊こつくわいが、祭りの夜を泥溝どぶの樣に塗り潰してゐる。
 茶臼山は永祿年間に波多江鎭種はたえしげたね居城きよじやうしてゐた以前の記錄が定かで無い舞岳城まいだけじやう城址じやうしで、明治開闢めいぢかいびやくと共に取りこはされた儘、在りし日を偲ぶ遺構も舞岳山の名も廃れ果て、櫻竝木さくらなみきが年に壱度賑はふだけの柴山に成り下がつて久しい。源平合戰を事始めに、應仁の亂から戰国時代と、糸㠀にも飛び火し繰り廣げられた幾多の戰亂も、木立を駆け回る子供等の裏山遊びが夢之跡。天守閣から、領地りやうちと戰略的要衝えうしようを抑へるために選ばれた、糸㠀の肆季しきを見渡せる標高へうかう七拾六米突くメエトル眺望てうばうも盲の鉄には緣が無く、してや、昼の山と夜の山の區別くべつも無い筈が、今夜に限つて底知れぬ瘴氣しやうきを纏つて立ち塞がつてゐる。山の禁を破るなとおどす樣に、棚田から轟くおびただしいかはづこゑ。祭りの燈りに背を向けて八重のふるへる手を握り返し、選果場の脇から山頂へと續く坂道を、今度は鉄が八重の手を引いて步かうとした其の時、八重は突然其の場にうづくまつた。
 「鉄、何うしやうかいにや、やつぱ、内な、えずかばい。此處で待つとほけんが、母樣かかさまの向かふで幸せにしとんしやあとか、内の父樣ととさまは本なこつ、内の父樣か聞いてきてくれんね。此、内の母樣の付け取つたかむざしやけんが、持つて行つてくさ、こん簪ば付け取つた人な、今、何うしよんしやあかだけでも聞いてきて。」
 小作の野蕃漢じやがたら壱蹴いつしうした御轉婆おてんばが見る影も無く、鉄の手に握り込まれた蜻蛉玉とんぼだまの小振りな壱本軸いつぽんぐしの簪。大切な形見を鉄に託すと、其れまで必死に堪へてゐた物が灼熱の虫酸とつて逆流した。
 「嗚呼、恨めしか、恨めしか。内な父樣の恨めしかとよ。にくじゆうやもん。片眼で内の事ば睨んでからくさ。眼帶ばしとう方の眼は、支那に行つて遣られたんやのうして、渡世人の仲介ん時、脇差しで抉られたとか、助役とこの息子が云ひよつた。本なこつかいにや。鉄、し、父樣が内の父樣や無かつたら、内と壱緖に糸㠀ば出よ。あん汽車に乘つて糸㠀ば出よ。」
 山の狐に取り憑かれた樣に泣き叫ぶ八重。鉄は淚に暮れる其の頰を平手で張り飛ばして默らせると、兩肩を摑んで正面に向き合ひ、本の小さく頷いた。
 「鉄、有りがたう。内、待つとうけん。此處で待つとうけん。」
 八重は鉄の胸の中に崩れ落ち、髮飾りの星七草が鉄の唇を掠めた。美しいがゆゑに摘まれて終ふ名花の憂ひ。成らば、切り取られた花の土と成り、泥とまみれずにゐられる物か。泣き止んだ八重を選果場の木箱に座らせると、鉄は杖を短く持つて簪をくはへ、山道を無視して茶臼山の斜面に直接挑み掛かつた。態態わざわざ、込み入つた虎口こぐちまで廻らずとも、御堂に欠かす事の無い、線香せんかう蝋燭らふそくの燃え止しの臭ひが、鉄の小鼻を摑んで離さ無い。山城として護りに徹し造成ざうせいされた切岸きりぎし堀切ほりきりも、獅嚙憑しがみついた其の後は壱直線に登つて最短距離だ。腐葉土を掻き分け、木の股を摑み、枝から落ちた猿の樣に、修驗道しゆげんだう荒行あらぎやうの樣に、漆黑の樹海に同化どうくわしていく鉄。狐憑きつねつけが何を口にしやうと、母は彼の世で幸せにしてゐると云へば良い。父の事は判らぬと云へば良い。鉄は八重にう云ひ聞かせる自身が有つた。八重を惑はす親をおもふ心の闇。此からは自分が八重の眼に成る番だ。盲にともす光が在るのなら、八重の心を照らしてくれ。指肉と爪の隙間に木つ端がえぐり込み、頭から被る土砂が、眼と云はず鼻と云はず、穴と云ふ穴を塞いで、簪を銜へてゐるのか泥をんでゐるのかも判らず、八重に成り代はつて其の躰をさいなみ、柴山の斜面を刺し殺す樣に杖を突き立て、駆け登つていく。眼が見えぬ事を甘受し氣儘きままに暮らしてゐる鉄には窺ひ知れぬ、名家を背負ふ重圧に押し潰された八重の行くすゑ。亡くなつた母におのが身空をかさね、其のことすくひを求める少女の絕望。母は今、何處で何うしてゐるのか。どうか幸せで在つて欲しいと云ふ切なるおもひ。其れは鉄とても同じ事。此の急勾配を登り切つた御堂で待つている狐憑きつねつけは、本當に血を分けた母なのか。口寄せの壱糸纏いつしまとはぬ眞實しんじつことばは何を物語るのか。息が上がり胸をみだれ拍つ鼓動で我武者羅がむしやらに捻ぢ伏せる不吉な豫感よかんと、あらがふ術の無い運命の因力。鉄は銜へた簪に犬齒を立てて、込み上げる私情を呑み込むと、年に壱度の七夕に願ひを籠めて、八重のおもひが天まで屆けと這ひ上がつた。
 抹香まつかう臭ひ腐葉土ふえふどに、御供へ物の腐亂した臭ひが入り交じり、下草が增えて木立のさざなみまばらにつた頭上から、山颪やまおろしが峭然と吹き下ろしてくる。鉄が杖を長く持ち替へて壱氣に躰を引き揚げると、其處は敵の侵攻を食い止めるために、尾根を削つて踏みならした曲輪くるわの棚地だつた。柴山の夜氣に澄み渡る、波多江氏が居城した往年わうねんの矜恃と、時代に討ち破れた死に顏を曝す慚愧。山は無言でく。簪を手にして泥を吐き、單衣の汚れを叩き落として、えたをんなの臭いとかすかな息遣ひに向かつて鉄は杖を運んだ。狐憑きつねつけは獨りの筈だが確證かくしようは無い。夜営の敵將てきしやう仕畱しとめに行く樣に、朽ち果てた枯れ葉にり切つて柴を踏み締める。土竜が土を掘る樣に、闇を読むのは盲の拾八番おはこ彌增いやます練り物の殘り香と、巢穴に戻つた猪の無造作な氣配を手繰り寄せ、杖の先が沓巻くつまきの無い地面に直刺しの向拜柱かうはいばしらを嗅ぎ付けると、鉄は息を殺して屈み込み、濱緣はまえんも段木も無い出所不明の境外佛堂きやうぐわいぶつだうに耳を添へた。藪蚊が寄つてこ無いと云ふ事は燈りを焚いてる樣子は無い。鉄は向拜かうはいから裏へ回らうと中腰のまま向きをへ、其處ではたと、何故こんな夜盜やたうに毛の生えた眞似をしてゐるのか、今更、何を探る必要が有るのかと、己の氣遲れを叱咤した。狐憑の語る眞言まことに畏れを爲してゐる場合では無い。奴が己と血を分けてゐるのか何うか等、貳の次だ。
 
 「此處で待つとうけん。」
 
 八重の淚で濡れた袖が乾かぬ内にい報せを持ち帰る。今は其れがすべてだ。盲の不幸なぞ高が知れてゐる。自分で不幸を背負ひ周りを幸せにする。其れがをとこだ。漢に盲も糞も無い。う意を決した其の時、
 「何方どなたしやんね。」
 宿場通りを撫で回した口上と同じ、甘つたるいこゑが首をもたげた。枯れ切つた板間が軋み、扉のつがひが錆の粉を吹いて悲鳴を上げ、解き放たれる汗ばんだ雌のにほひ。
 「何うしたとね、そんな泥だらけで。急いで來たとね。」
 見知らぬ漢をいぶかる處か、待つてゐたと許りに、媚びたみがしなを作つて近寄つてくる。其の馴れ馴れしさに戶惑ふ鉄から優しく杖を取り上げ、
 「早う中に入りんしやい。」
 狐憑が手首を摑んで引き寄せると、鉄の掌にいきつ乳首が直に突き刺さつた。得体の知れぬ剥き出しの精氣が疼いてゐる。狐憑は帶を締めてゐ無い處か、膚襦袢はだじゆばんを肩に浅く羽織つただけで支度解甚しどけなく前をはだけてゐた。鉄は全身の和毛にこげあはを吹き、あまりのむごたらしさに舌の根まで痺れ、身動きが取れ無い。すると、
 「何ね其れ内に吳れるとね。」
 狐憑は簪を持つた鉄の手にウつトリと頰を添へた。鉄が劣情を誘ふ惡ずれした色香に抗ふと、狐憑きは怖氣立おぞけだつ襟足に巻き付いて、
 「何ね、恥づかしがらんで良かとよ。」
 鉄の股間を獸の樣にまさぐり、鉄の唇を奪はうとする。鉄は畸聲きせいを上げて狐憑を拂ひ除け、其の頭上に簪の劍を振り上げた。闇をつんざく狐憑の絕叫。我に返つた鉄は杖も忘れて御堂を飛び出し、曲輪くるわの棚地からころがり落ちていく。
 腐葉土と枯れ枝を撒き散らし乍ら、急勾配を暴走する盲の地獄車。いたましい星の下に生まれた狐憑の罪無き俗情が、母と子の逃れ得ぬ宿業しゆくげふ輪轉りんてんし、粉粉に打ち砕かれる鉄の本懐ほんくわい。俺はあんなさかりの付いた野良猫の後始末か何かで産まれ、棄てられたのか。彼の女に何を口寄せしろと云ふのか。何故人は忌まわしい程によわく、悲しいのか。此の因業な仕打ちの何處にすくひが在るのか。闇に生きる盲には人の世の闇から眼を背ける術が無い。いのりを捧げた星は巡りふ事無く砕け散つた。もう此の儘、奈落の底を突き拔けて何處迄も堕ちていけば良い。闇に呑まれ、光をも手放したたましひの斷捨離。逆樣さかさまの世界に止めを刺す樣に、鉄は地面に叩き付けられた。
 肩甲骨けんかふこつから腰椎えうついへと跳ね上がる激甚に肺の腑が潰れて呻く事も出來ず、棚田を埋めくす蛙の聲が、土にかへつた泥の塊を壱斉いつせいに笑ひ飛ばす。地獄に落ちる事さえ出來ぬ此の爲体ていたらく。最早、此の柴山の麓は振り出しですら無い。八重が汽車に乘つて旅をしたい。此處から出たいと云つた意味が今ようやく判つた。八重は何處だ。俺がれて行つてやる。此處では無い何處かへ。今直ぐにだ。追い縋る物總てを振り切りる黑鉄の機關車に乘つて、此の闇が見え無くなる迄。
 杖の無い鉄は柑橘類のかをりを辿つて選果場を目指した。しかし、の詰まつた夏蜜柑の発散する酸味の中に、八重の浴衣に焚き染められた白檀の名殘も無ければ、星七草の頰笑みも聞こえてこ無い。積み上げられた出荷待ちの貨物くわもつつかり、崩れ落ちる木箱を掻き分ける樣に、つん這いで手當たり次第に周圍しうゐを探る鉄。何處だ、八重は何處だ。此處で待つていると叫んだ八重の誓ひを信じて、鉄は犬の樣に地邊田ぢべたを嗅ぎ廻つた。八重をすくへるのは鉄しか居無ゐない、鉄を濟へるのも八重しか居無い。失はれた片身を求めて、散亂した夏蜜柑を押し退ける。もう此が己の闇か八重の闇かも判ら無い。鉄は初めて本當の闇の中に居た。其處へ、厩舎きうしやを飛び出した馬群の樣な、唯ならぬ跫音が怒鳴り込んできた。
 「そげなとこで何ばしょうとや、鉄、大事おほごとばい、墓堀り處の話しや無か。御孃が、八重孃が伏龍池に落ちんしやつた。」
 「母樣かかさまの簪の池に落ちたつて云ふて飛び込みんしやつたげな。」
 「いつちよん上がつてこんつてぜ。旦那しやんも來んしやつてから。ゑらい騷ぎばい。」
 取り亂した惡童達が矢繼ぎ早に捲し立てる證言が、鉄の悟性を擦り拔けていく。誰よりも音に聰い盲の地獄耳が其の意味を聞き取れ無い。行き場の無い焦りと焦りが衝突し、何獨つとして嚙み合はぬ、八重を念ふ心と心。復た俺を揶揄からかつてゐるのか。根性を叩き直して欲しいのなら後で纏めて片付けてやる。今はそんな駄法螺だぼらに付き合つてゐる場合ぢや無い。八重は此處で待つてゐて、簪はうして此の俺が、と突き付けやうとした鉄の手から、彼程強く握り締めてゐた筈の簪が消え、唯、泥だらけの袖口が八重の念ひで濡れてゐた。
 惡童達の過ぎ去つていく跫音が、鳴り止まぬかはづの挽歌に呑み込まれていく。夢虛ゆめうつつの鉄に其の後を追ふ氣力は無かつた。研ぎ澄まされた夜氣に忍び寄る顏の無い寂滅。取り殘された闇の中で、幕が下りたのか何うかすら判ら無い。伏龍池は農業用水を確保する爲に掘られた、岸からきふに深くなる人工池で、落ちたら龍の餌に爲るとおそれられてゐた。八重は龍に呑まれたのか。其れとも形見の簪を賴りに亡き母の元へ向かつたのか。鉄のつぶれた瞳は此の星降る夜に何を見て終つたのか。町役場の方角はうがくから、不意に軌道機關車の汽笛が轟き、風穴の空いた鉄の心を弔砲てうはう參拾壱文字みそひともじが吹きすさぶ。
 
 
      見えそめし夢の浮橋すゑかけて
        いつかむかひの岸にいたら
 
 
 年の渡りに天翔る、精靈しようりやう列車が貳星の屋形。何時か望外ばうぐわいの旅立ちと、聞き覺えの有る其の聲に、鉄は相聞さうもんの古哥をし、不帰のみぎはに送り出す。
 
 
      思ひ入る心しあらば末かけて
         などか見ざらん夢の浮橋
 
 
 「駄目よ、鉄郎てつらう。時間が来たわ。幾ら伝世品種の貴方でも此処迄が限界よ。其処を渡つて戻れる保証は無いわ。」
 竜頭りゆうづの掠れた声が、鉄郎の迷ひ込んだ、星の渡りを寸断した。何時から其処に居たのか、何処から見護つてゐたのか。ときを司る斎女いつきめの時ならぬおとなひに、甦った見当識が立ち眩む。竜頭の提げだ燈會ランタン錻力ブリキが幽かに軋み、仄かな温もりが鼻先を掠めて、鉄郎の心の火屋ほやに灯りを分けた。
 「鉄郎。今、私に出来るのは貴方を引き留める事だけ。何故、伯爵が貴方に知遇を尽くしたのか。御願ひだから気が付いて頂戴。私も漸くストレージの環留回路を解除出来たわ。でも、記憶のリミッターを破壊した処で、抑圧されていた過去に押し潰されるだけ。此処で貴方を二重遭難させる訳にはいか無いのよ。」
 リミッターの外れた竜頭が押し殺してふるえてゐる思ひの丈に、鉄郎の心火しんくわが揺らめゐた。翻るチャドルのドレープに夜気が波打ち、鉄郎に背を向けて裾を擦る当て所無い跫音。
 「オイ、竜頭、何処に行く。」
 「私は何処にも行きはし無い。胎内の時辰儀を何んなに使ひこなしても、此の宇宙と云ふ質量保存の駕籠の中。私は何処にも行けやし無いのよ。」
 「竜頭、教へてくれ、八重は、メーテルは、真逆まさか、竜頭、御前も・・・・・・。」
 鉄郎は駆け出し、役目をへたしづかな刻の渡し守に追ひ縋る。
 
 
      玉葛たまかづらならぬ樹にはちはやぶる
         神ぞくといふならぬ樹ごとに
 
 
 火屋の灯りを吹き消す竜頭の吐息が鉄郎の手を擦り抜け、伏龍池に没した少女の後を追ふ様に飛び込んだ消煙の闇。迫り来る汽笛が鉄郎を追ひ越し、母を念ふ少女の祈りから振り落とされる。投げ出された躰が宙を泳ぎ、地の底を跳ねて転げ回ると、星今宵ほしこよひの澄み渡る夜気が、灼けたグリスと放駭な水蒸気でせ返つた。
 
 
 

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