2023-03-06-1
天外有天 天外に天有り
山外有山 山外に山有り
更高山外有更高山 更に高き山外に更に高き山有り
人生在世 人生は世に在り
永遠追求 永遠に追ひ求めよ
不到銀河終不歇 不到の銀河 終に歇きず
星空に想い描いた荒唐無稽な都市伝説。眼を細めて見上げた天翔る無限軌道への憧れは、夢と現実の一言では語り尽くせぬ、虚構と欺瞞の破滅に向けて冥走していた。1月1日 am 0:00 地球発、アンドロメダ折り返し、12月31日 pm 6:00 地球着の宙遊行脚。そんな有名無実の路程表は、メーテルが乗車するまで戒厳令を発動し、メガロポリスの都市機能を堰き止めた時点で知れた事。天から忽然と舞い降りた悪魔の乗車券。希望の欠片の様にウォバッシュの胸ポケットに仕舞っていた夢のチケットを、鉄郎は開け放った二等客車の窓外に鈍な瞳で放り投げた。差し向かいのボックスシートには、縹色のモケットに凭れたまま意識の戻らぬ、母の空蝉に乗り移った鳳髪の令嬢。花に嵐を謳歌していた外面似菩薩内心如夜叉の姿は其処に無く、甘美な昏酔の彼方に没している。血の池から艶やかに甦った聖母の休息。機賊に攫われた、唯独りの肉親を取り戻す為に地球を飛び発ち、決死の想いで探し当てた此の麗しき白痴美の亡霊を、果たして母と呼べるのか。指一本触れる事の出来ぬ殯の如き静謐を、今は息を潜めて看護る事しか出来無い。
宇宙を司る神秘と、転生した母の奇跡と、帯域制限で雁字搦めの姿無き権力を巡り巡った無限軌道。窓を降ろそうとして腰を上げた鉄郎は、硝子の鏡面に映る物憂げなもう独りの鉄郎に、凍傷で頬の煤けた彼の日の孤児を垣間見て膝が頽れ、シートの窪みが記憶している己の歪な成長曲線に再び身を投げ出した。タイムトンネルを突貫し、旧世紀から降輪した、C62形旅客用テンダー式蒸気機関車の光脚を過る一抹の翳り。豪放胆快なボイラーを抱腹し、瀑潑煙蒸するドラフトの放咳が、顱頂を劈く長緩汽笛と交錯して、空っぽに為ったウォバッシュの胸ポケットを吹き抜ける。アングルとリベットで組み上げられた壮大なドームを見上げて、茫然と立ち尽くしたメガロポリスステーションの大伽藍。強制送還の様な出立に抗う事の出来無かった、ひ弱で無様な彼の時の鉄郎が唯唯、愛おしい。
乗り遅れた列車を我武者羅に追い掛け、乗り過ごした様に駆け抜けた時間城の幻惑。失った物を取り戻した筈が、復讐の曠しさを掴まされただけで、鉄郎は寧ろ大切な何かを失い掛けていた。立ち開かる障壁を破壊し尽くす快哉と、身命を賭して戦塵の坩堝に突入する陶酔。終着の地に更なる激越な攻防を夢想する血に飢えた武勇。鉄郎の吐胸を焦がす、烈情の内燃機関に依って鍛造された懼れを知らぬ鋼の心は、何時しか殺伐とした敖りと為って、思春期の揺れ惑う自我をグロテスクな英雄指向へと駆り立てる。圧制に打ちのめされ続けてきた怨嗟の逆襲。勝者に成った途端芽生える、優生選民思想。其れは機族の二の舞でしか無かった。人はか弱き者同士で在ればこそ寄り添える。況んや血縁に於いてを乎。淡雪の如く果敢無き鉄郎親子の命運と、貧民窟で群れる事を拒んだ母の強靱な意志が織りなす陰影の狭間を、鉄郎の血筋が受け継ぐ「物の哀れ」は彷徨っていた。力を手に入れる事で覆い隠されて終う、人として有る可き怯懦。心の迷い無くして詞は無く、詞の無い哥も無ければ、哥の無い旅も又、ゆめゆめ有る可からず。宇宙の果てまで辿り着けた処で、何を見出せると云うのか。人の世の齎とは何処かで手に入れる物では無く、内に秘めた詞が如何に輝いているのか、其の一心に尽きる事を鉄郎は知って終った。強者は人の道、足り得るのか。幾ら背伸びをした処で星から星に手が届く訳で無し。眩い許りの名誉栄達も所詮は世間に媚びているだけの綺麗事。絶界の宇宙に唯独り取り残されても、人は人、足り得るのか。黙して 言問う鉄郎の鏡影。非力とは無力に不在。時の流れに翻弄され、仮に此の身が滅びても、詞が心に根差している限り、其処が祖国の壌と生る。哥声の途絶えた母なる星を後にして、此処に極まる魂の遍歴。有為転変に移ろう其の光韻に、今、独つの句読点が拍たれようとしている。
鉄郎は腰のホルスターから千早振る一刀彫りの鵲を抜き取ると、流線型の銃身を鋼鋼と蠢く、ダマスカスの文様に眼を細めた。数多の凶事を調伏してきた、嘴烈を極める光励起の雄叫び。未曾有の戦禍を一翔に伏す黒耀の彗翼。少年の蒼熟な野心を撃ち抜いた九死の熱狂が、銃爪の冷悧な感触を伝い人差し指の第二関節に絡み付く。母の眼を盗んでは、モラトリアムのヒステリーを喚き続けていた小兵に火を点け、破格の冒険譚を彩った天河無双の乱神。其の霊銃も、最早、鉄郎に取っては死蔵の宝刀に堕していた。義の神髄を鑑みれば武力も又、無力。余りにも傑出した能は厄を嬉嬉として呼び起こし、其の因力で我が身をも灼き尽くす。無論、似非左翼の唱える平和主義になぞ与するつもりは毛頭無い。あんな物は体制を武装解除する為の詭弁。暴力革命を迷彩する謀略のコードネームだ。天下平らかなりと雖も、戦いを忘るれば必ず危うし。良く切れる刀ほど鞘に治まり、自ら師の座右に侍する物。然れど、今の鉄郎に於いて、如何なる僚友、後見が吊り合うと云うのか。光量子のスパイラルで呪能の限りを尽くした星の鏃も、無用の用に供する時が来た。鼠輩狼党を消尽する此の畏力を封じ、然る可き元の鞘に治めなければ。鉄郎は無限軌道に閃いた行き摺りの出会いが、星の雫を鏤めた追憶の断片が、一点に集束していく予感に痺れていた。此の銃を受け取った瞬間に定められていたのだろう。約束とは護る為に存る。譬へ其れが力尽くでもだ。
鯨湶の如き瀑煙と塵雷を憤愾する猪首の突管。黒鉄の甲冑に銅配管のマングローブが生い茂り、限界張力に達した溶接ビードとリベットの隊列に、泥塗りのフタル酸塗装が波を打つ。夜明けを知らぬ星の宿りに葬然と繙く哀悼の十一輛編成。除煙板の鬣を欹てた鋼顔に、胸元を飾るヘッドマークの鼎連玖。百萬光年を眺望する管制解析に合成義脳は没頭し、機関室の密造宇宙を多針メーターのバックライトが燐舞する。一瞬の明滅に影露う文字盤のインデックス。復た独つ名も無き星が産声を上げ、音も無く燃え尽きた。感動ポルノなぞ微塵も寄せ付けぬ、天網を遍く統べる無情の摂理。其の冷たい掌の上で弐百萬コスモ馬力は発莢し、漆黒の弾丸を追い縋る車窓の残像に、鉄郎の錆び付いた心の羅針が突き刺さる。
鄕國不知何處是 鄕國は知らず何れの處か是なる
星雲瓏瓏 星雲 瓏瓏として
唯愁過客多 唯 過客の多いなるを愁ふ
何時、誰が計測したのかも知れぬ千切れかけた子午線を限り、鋼轍の挽歌に噎ぶシリンダードレイン。無限軌道は惰行制御に切り替わり、在来線とも違う荒削りな律動に、車内の胎響が身に覚えの無い鬼胎を宿して焦れ始める。鉄郎は車軸を伝って併走する不穏な韻子から耳を鎖ざした。何が待ち構えていようと、在るが儘を受け入れる。そんな色褪せた覚悟に態々爪を立てる粗雑なエピグラフ。此の期に及んで狼狽えるほど初じゃ無いと云うのに、余計な演出は却って白けて終うだけ。今は唯、二等客車の黄濁した白熱灯の温もりと、己の手触りで磨き込んだ銘木の意匠に包まれていたい。其れは他の乗客とて同じ事。死者も生者も、皆、同じ車輌に乗っている。時間も空間も、詞も無言も、今も昔も、幸も不幸も、神も人も、向かい合わせで相席する旅の道連れ。一夜限りの詩情、一条に、招魂の列を為す。果てし無き漂泊本能か、将亦、遙かなる帰巣本能か。旅心と里心が窓硝子一枚を挟んで擦れ違い、鉄郎の傾いだ愁眉に導かれて徐に旋回する999の機影。宙枢管制の除煙板が何物かを捉えて煌めき、虚空に優雅な弧を描く車輌の連結が、映写機のリールの様に何時か観た場面を投影する。
鉄郎は微かな遠心力に逆らって車窓から首を出すと、瓏瓏とした辰宿列張の彼方に照睛を飛ばした。乗車券に神神しく印字されていたアンドロメダの正体とは何か。M31の光点は天の河の畔に集うカシオペアとペガススの狭間で、未だ弐百萬光年の彼方に座している。星空に散った偽造切符の無様な虚妄。実しやかな戯れ事から目覚めた鉄郎は、見落として終う程の小っぽけな真実に気が付いた物の、年頃の空想癖を寄せ付けぬ余りの見窄らしさに、正視して良い物か何うか躊躇っていた。星系図から零れ落ちた歪な隻影が、999の蹴立てる進路の延長線上に一握りの痼りと為って蹲っている。此を停車駅と呼べるのか。メインロッドと連動する大動輪は既にトルクを失い、天涯に放置された異物に向かって滑走していた。泡沫の夢路を断絶する、途中下車に等しい不可解なアプローチ。恐らく砕け散った岩塊の再集積体なのだろう。何の天体の重力下に在るのかも知れぬ、小惑星と呼ぶ事すら烏滸がましい星屑の欠片に、銀河鉄道株式会社の誇る旗艦特急が魅き寄せられていく。
此ではまるで、火葬場を素通りし、倒壊した墓石に急行する墨染めの霊柩列車だ。差し詰め乗客は生殺しの無縁仏か。趣味が良いにも程が有る。死出の旅路を冷笑する粗無際な行き詰まりに、縺れ合う幻滅と哀切。而も其の全長5km程の奇矯なオブジェの土手っ腹に、何やら厳めしい鋼殻類が獅噛憑いている。巻き戻されていく時の流れに減り込んだ不吉な造形。鉄郎は迫り来る路線開拓の遺物に我が眼を疑った。座礁している。戦艦等と云う軍規や大義とは無縁の猛々しい軍装海賊船が、尾羽打ち枯らし、小惑星に舷側を叩き付けて轟沈している。死神の抜け殻の様な難破船、否、地縛した幽霊船と云うべきか。主砲参連装パルサーカノンを擁する歴戦の雄姿が見る影も無く、主翼を捥がれた満身創痍の船体と相俟って、贅を尽くした船尾楼のレリーフが棺桶の花飾りにしか見え無い。永遠に鎮火し無い燃え止しの様に、禍禍しき妖気を揮発して999を引き擦り込む賊軍の怨霊。哥枕には程遠い、旅の余情を絶した戦闘廃棄物。其の凄絶なデスマスクと眼を合わせて終った鉄郎は一瞬にして氷血し、心の臓を握り潰された。抹香鯨を象る貪婪な船首に、生皮を剥がれた髑髏の蛮章。何時か再び巡り会えるとは思っていたが、真逆、こんな姿で対面するとは。惑星ヘビーメルダーの上空に光覚冥彩を纏ひ待機していた漆黒の舶鯨。謀援鏡の偏光フィルター越しに見上げた、キャプテン・ハーロックの乗艦、天駭弩級のアルカディア號が完膚無き迄に朽ち果てている。銀河鉄道株式会社に使い捨てられた革命家の末路か、セイレーンの愛の仕打ちに入水した密漁者の溺死体か。墓石を暴かれた儘、埋め戻される事も無く見捨てられた自由と冒険のイコン。スペースノイド解放を謳った海賊旗は打ち破れて、触角宙枢を兼ねたメインマストに支度解甚く絡み付き、隕石に因るクレータとは明らかに異質な、周囲の巌壁を穿つ無数の爆撃痕が、戦況の片鱗を物語っている。宙原の倭寇と懼れられた漢の身に何が起こったと云うのか。完全に動力が断絶していると思しき、廃船の座礁した側舷の傍らで、独片の灯火が瞬いた。鉄郎が穿鑿する猶予も無く、長緩汽笛を鳴らし、烽火を引き擦り乍ら、アルカディア號が再集積体に接岸している間隙に造設された最後の停車場に、黒鉄の魔神は我が物顔で潜り込んでいく。
岩盤を掘削して仮設した縞鋼板のプラットホーム。採掘資源搬出用のガジェットとバケットが並列する構内は、一瞥して鉱業物流の拠点で在った事が見て取れる物の、山積みのコンテナと鋼製支保工の建設資材が崩れ落ちたまま打ち捨てられているのを見る限り、稼働している気配は微塵も無い。ロードヘッダー、ドリルジャンボ、ブレーカー、破砕機と勢揃いした鉱削重機の四天王。ホイールローダーとマンモスダンプのコンビに挟まれた集塵機。バッチャープラントに横付したコンクリート吹付機。組み上げているのか解体しているのか判然とし無いセントルは半ば砂礫に埋もれ、穴兎、宛らの無秩序に掘られた坑道に、送風管とコンベアが蔦葛の如く入り乱れ、洞穴の闇に伸びている。
電光掲示処か案内表記も見当たらず、人工重力と帯気圏制御以外は自搬式照明の動力が生きているだけの廃坑に、水蒸気の雲海を巻き上げスライディングストップする999。アンドロメダの皇星とは似ても似つかぬ、取って付けただけのプラットホーム。人の気配もアナウンスも無ければ、駅名の頭文字独つ転がってい無い。ブレーキ弁を解放し、息を整える機関車の胴哭を等閑に付し、招かざる客に峭然と黙秘を続ける忘れ去られた機材と設備。そんな裳抜けのコンテナターミナルに聳え立つ、ガントリークレーンの隊列にアルカディア號は串刺しにされて身罷り、変形したランプウェイで辛うじて着岸している開放された舷門の頤は、声無き断末魔を絶叫したまま硬直している。盗掘紛いの開拓事業、資源の草刈り場を巡る、兵共が夢之跡を目の当たりにして、己の荒んだ心の廃墟に迷い込んだ様な錯覚。此の様子だと誰かの出迎えが在るとはとても思え無い。
鉄郎は席を立ち、モケットに埋もれているメーテルを一瞥すると、会葬者の居無い告別式の様に空席を敷き詰めた、二等客車の連続を突き進んだ。此の停車駅の存在が何を意味するのか。せめて停車時間だけでも知ら無い事には始まら無い。未だ嘗て、到着のアナウンスを怠った事の無い車掌が姿を見せぬ、一抹を越えた不安。其の虚ろな予感は寸分違わぬ現実と為って風穴を空けていた。
紺碧のブレザーと制帽が絞首刑を執行された様にハンガーに掛かけられ、身支度の済んだ車掌室。恐らくは探しても無駄なのだろう。暗黒瓦斯の靄は晴れ、跡形も無き車掌の消息に、謹厳実直な往時を偲ぶ美しく整理された備品達の鈴生り。幺さな事務机の上で使い込まれた黒革の手帳が置き手紙の様に畏まり、脇に添えられたカップラーメンのロゴが最後の乗客を徐かに見上げている。鉄郎は黒革の手帳には手を付けず、カップラーメンだけを頂戴して車掌室を後にした。左様ならだけの人生に余計な後腐れは無用だ。態々、暇を告げに来る事務的な別れなんて、本物の別れじゃ無い。散り際を辨えぬ花は造り物。もう二度と会え無いからこそ、人は出会えた意味を噛み締める。右も左も判らずに迷い込んだ身無し子を、乗降デッキから見守り続けてくれた車掌の円らな黄眸。炭水車を脱け、火室の余熱で燻る煤けた運転室に辿り着くと、クレアの破片を掻き集め、威しでは無いと銃を突き付けられた事すら懐かしく、萬謝の潮に眦が熱くなる。立ち止まっては駄目だ。譬へ姿形は見えずとも、制帽の鍔から覗く彼の物静かな眼差しは、今も小兵の背中を押し続け、焚口戸のペダルを踏み込んだ鉄郎を、開帳した半割の扉へと促していく。
躙り口を匍匐して切り替わる機関室の神冥な亜空間。鉄郎は何物にも動ぜず沈思に耽る、此の崇高な異相の結界が好きだった。メーテルの御乱心から逃れて深呼吸する至情の一時。有り余る若さを軟禁する無限軌道の護送列車に在って、無意識の浄域を底流するボイラーの缶内は、己の蒼熟な妄執や焦燥の源泉に辿り着き、解毒出来る常闇のオアシスだった。全能の集積回廊が誘う彼我の仙窟。そんな暴発寸前の野生児を何時でも無言で迎え入れてくれた硬質な怜気が、今、釘を打たれた棺桶の様に窒息している。此は単なる自律待機制御の類い等では無い。演算処理のシーク音はプラグを抜かれて耳鳴りに掻き消され、メーテルの宇気比に感応していた、多針メーターの幽玄なバックライトの小宇宙も星滅し、合成義脳の核種が宿る、煙室を背に奉られた燦面鏡が仄かに放電し、慄いている。何うやら客車の動力は非常給電方式に切り替わっているらしい。何時もの癖でウォバッシュの胸ポケットに手を当てた鉄郎は、ライトモードにして翳そうとした乗車券の感触が指先を擦り抜けた瞬間、光が一層遠退いて見えた。シャークソールの跫音だけが膠着を穿ち、壁面にインローで嵌め込まれた風防とベゼルを、手探りで進む漆黒の寂滅。電脳の限りを尽し、幻の十一輛編成を束ねる999の叡智が、超絶なる其の営為を放棄して、生き埋めにされた岩屋戸の様に昏睡している。御神体の御隠れになった御社か、愛の枯れ果てた石女の子宮か。素人には修復不能な運行管理システムのゼネストを前にして、鉄郎の口角は微かに綻んだ。行く手を鎖ざされれば鎖ざされる程、進むべき道は現前と啓かれる。鉄郎は何時も機関室でしている通りに煩わしい視聴覚を遮断すると、仮死喪神の筐体に反響する己の詞に耳を澄ました。
何を今更、999の合成義脳に言問へと云うのか。総てを暴き立てる事が真実だと云うのなら、真っ昼間の盗掘や、皇統の断絶を嗅ぎ廻る革命の犬と変わら無い。此の星とアルカディア號に何が起こったのか、車掌は何処へ消えたのか、地球へと折り返す為に999は目覚めるのか、一体、俺は此から何を為す可きなのか。そんな答えの書いて有るクイズ番組の台本なんて必要無い。銀河鉄道株式会社の機密なぞ知った事か。疚しい事が有るのなら、勝手にコソコソ遣りやがれ。満天の星空に裏の顔なんて有りやし無い。宇宙の何処に隠れ、逃れようと宇宙は宇宙だ。若し此の儘、小惑星の出来損無いに取り残されるのだとしたら、其れなら其れで、人間狩りで死に損なった己の命と、今一度ゆっくり向き合う良いチャンスだ。抑も、俺が斃る前に天河無双の999が御釈迦に成ったのだとしたら、其処まで此の旅を耐え抜いた自分を誉めてやる。
鉄郎は闇の中で踵を返し、焚口戸を脱けて機関室を後にした。999が核醒しなくとも、メーテルに上書きされた母の自我が目覚め無くとも構わ無い。譬へ、鉄の塊に還元しようと999は999で、記憶や髪の色が変わろうと実の母は実の母だ。無限軌道を巡る神の物語に、死者が復活する恩着せがましい奇跡なんて御呼びじゃ無い。宇宙の理を司る、大いなる神秘が心に満ちていれば其れで良い。車掌の無口な暇乞いにした処で、全宇宙の総重量は鐚一匁たりとも変わら無い。其れは己の息の根が止まっても、銀河の星態系が砕け散っても同じ事。俄に甦る、遭難列車の中で竜頭の説いた質量保存の法則。浅はかな知恵許りが先走って聞き逃していた言の葉の走馬灯。通過してきた停車駅を辿る様に、二等客車の古惚けた座席の一つ一つで寛ぐ、姿無き満席の同窓生達と旧交を温め乍ら凱旋し、鉄郎が席に戻ると、人事不省で在った筈のメーテルの姿は露と消えていた。
果てし無く続くかに思えた回想が目撃き独つで打ち切られ、弱竹の輪郭を記憶したまま縹色のモケットが沈没している。網棚のアタッシュケースも煙に巻かれ、亡霊列車の本領発揮か、無人のホームで息絶えた無人の999。
かの方にいつから先にわたりけむ
浪ぢはあとも殘らざりけり
然して誰も居無くなった何て、本の中だけの話しだと思っていた。最終ステージと云うだけ在って流石に芸が細かい。舞台は整った。空っぽのボックスシートに用は無い。手掛かりを探すだけ野暮だ。カップラーメンの包装フィルムを剥がし乍ら、メーテルと四六時中睨み合っていた指定席に別れを告げる鉄郎。御陰で何から手を付けるべきか、選ぶ手間が省けた。二等客車を突っ切って向かう最後の晩餐。食堂車の給湯室でカップラーメンに湯を注ぎ、引き出しの中から割り箸を抜き取ると、クレムリンレッドのホールを素通りして、喫煙室の何時もの席に腰掛ける。鉄郎親子の命を繋ぎ止めた至高の三分間。其処で初めて999の車内に時計が存在し無い事に気が付いた。乗車券のマルチ機能が無いとタイマーの独つもセット出来無い己の不甲斐無さに微笑み、適当な処で蓋を開け、何時もより少し硬めの麺を頬張る鉄郎。オリジナルスープとグルテンの濁流が喉を爆ぜ、雑食の本能が高カロリー、高塩分の化合物に武者振り付く。何んなに地球から遠く離れようと、人類は麺類だ。飛沫を上げて唇とカップを行き交う割り箸の狂騒と、横隔膜で啜り上げる忘我の白熱。毛穴と云う毛穴が決壊し、汗の礫で粟立つ顳顬。顔を伏した芳醇な湯気の坩堝に韜晦する意識。滲み渡る滋養が歓喜と成って、全細胞の野性が息を吹き返し、瞬く間に飲み干した最後の一滴が淳き溜息の底で弾けた。眼裡で充血した星々が冥滅し、背摺りに身を投げ出すと、脳血流が胃壁に降りて朦朧とし、高潮した血糖値が鈍な睡魔を苦遊らせる。
何も慌てる事は無い。時間なら幾らでも存る。後もう少しだけ、此の旅に明け暮れた日々と二人きりで居たい。車掌が消え、メーテルが消え、次に消えるのは999か俺なのか。其れとも幻の女を追って、復た新しい夢を駆け巡るのか。人も我が身も、生まれ落ちた星にも呪詛を吐き、廃棄物の尾根を漁っていた彼の頃には及びも付かぬ、時空の限りを尽くした道程。若し此が最後のページなら後書きなんて要ら無い。此の物語の主役にして唯一の読者が、結末を濁して如何する。空のカップを膝の上に拍ち降ろして高鳴る、黒耀の瞳に結晶化した、誰の物でも無い一握りの誇独。磨き込まれた此の旅の宝物が湛える、射干玉の輝ける闇を、青春の残り香が鳳髪を霏霺かせて吹き抜け、少年の小鼻を思わせ振りに擽った。ちょいと小腹を満たした位で、何を感傷に浸っていやがるのか。覗き込んだ死の淵が叱咤する背伸びした達観。未だ焼きが回る歳じゃ無いだろう。我に返った鉄郎はカップと割り箸をダストシュートに叩き込むと、糞みてえに殺風景な、どん詰まりの停車駅に飛び出した。
タップ溶接で仮止めしただけの無闇に響き渡る縞鋼板を踏み締め、定尺の鋼管を現場で継ぎ接ぎしただけの手摺りで囲われた、足場に毛が生えただけのキャットウォークに降り立つと、最後迄居残った腐れ縁の女房役が既に熱り立っている。此の愚図り方は電脳梅毒や偽計因子の類いじゃ無い。肌身離さぬ付き合いだからこそ判る、蠱の知らせ。鉄郎の腰骨で急き立てる霊銃が何者に感応しているのか、大凡の察しは付く。後は此の鵲の御心の儘に、逃れ得ぬ因力の必然を信じるのみ。鉄郎は歩廊面だけをグレーの錆止めで一刷きにした、縞の目も塗り潰せて無い杜撰な施工の粗を数え乍ら、紙縒りの様に身悶えているタラップを伝って、ドッキングデッキに飛び降りた。プラットホームから下の階層は、座礁した難破船の剛頑な舷側に因って、H鋼の躯体が針金の様に押し潰されている。此処から先は駅構内の光も届かぬ、星明かりだけの世界。人工重力を体感出来る範囲は帯気圏制御内の筈だが、其れも何処まで届いているのやら。蛇腹の様に波打つ大破したランプウェイを舌垂らせて挑発する、髑髏を冠した搭乗口。闇黙の絶叫を捻込まれた鬼門の頤に、鉄郎が醒め醒めとした炯眼を点すと、ホルスターから抜き取った黒妙の霊鳥が、引き裂かれた理想郷、アルカディアの傷口に首を突っ込めと、彗翼の銃身を捩って焚き付ける。
花火の終わったリアルな鼠賊のテーマパーク。クルーにも見限られた此処からが、本当の開園時間だ。キュビズムを具現化した瓦礫のアトラクションを乗り越えて潜り込む正真正銘の幽霊船。動力の欠片も無い艦内の墨殺された世界に、戦士の銃は更に狂おしく共鳴し始める。喚んでいる。鵲が彼の漢を喚んでいる。完全に奪われた視界と入れ違いに擡げる鵲の情念。ダマスカスの文様に刻み込まれた歳月が、握り込んだグリップから上腕を伝い、鉄郎の海馬へと巻き戻されていく。
少年 拾有參春秋にして
天頂の一等星を仰ぎ、高らかに掲げた紅顔の血意。鉄郎が在りし日に覚えた激情と寸分違わぬ焦燥と初期衝動が澎沸し、畳み掛ける急激な知覚変動に頭蓋と脳圧が悲鳴を上げる。総ては鵲の呪能の儘に。押し寄せる、もう独りの鉄郎が駆け抜けた、もう独つの物語。
取って付けた捨て台詞を叩き付けて飛び出した第六衛星。地球から系外へ逃れる移民船団に転がり込み、瀬取りの積み荷に紛れ乗り継いだ、何処へ向かうのかも知れぬ密売航路。貨物スペースに詰め込まれた盗難重機と盗掘資源の隙間に寝そべり、涸涸と笑っていた放埒な浮浪児。唯只管、夢に飢え、怖い物なんて何も無かった。難民を装い、紛争地域で戦死者の追い剥ぎに明け暮れていた処をスカウトされた零細民間軍事会社。宙域警備人材支援センターとは名許りの、物流パイロットに飽き飽きした退役軍人の吹き溜まり。シミュレーターの中で昼寝をしただけの研修。片道の燃料を詰め込み、後は現地調達の一言で丸投げにする、使い捨ての部隊。何の説明も無く仮眠室のベッドから放り出された初陣。砲撃位置と降下位置を取り違え、敵陣ど真ん中で迎えた実戦に、解き放たれた鵲の砲哮。識別信号を無視して一斉掃射する霊銃の蛮勇。阿鼻叫喚の焦土を制覇する恍惚。圧倒的な能への覚醒。核磁雷処理から略取誘拐、有らゆる特殊任務に喰らい付き、叩き上げの王道を駆け上る。民営化された戦場は少年の英雄願望を虜にした。宇宙開拓と云う民営化された領有権のバトルロイヤル。外注部隊の参入に人道的な大義や派兵の論拠なぞ有る訳が無い。コストを最優先し、パラサイトされているAIを鵜呑みにした杜撰な戦略策定で袋小路に陥る前線。マスコミを抱き込んで隠蔽する挽回不能な戦況。面白い様に欲目が裏目に出る軍産議員の思惑。スポンサーの意向で敵と味方が二転三転する現場。都合の良い時は協調し、雲行きが怪しくなると決裂する、偽りの連帯感と使命感。砲撃と共に飛び交う敵対戦力へのリクルート。背後から発砲されて勃発する、部隊内での銃撃戦。戦利品の分配が高じて奪い合い殺し合い、生き残った独りが総取りする遺体と遺品の山。補給物資の横流しと機密の垂れ流し。軍資金に群がって共謀し、給与の未払いに共闘する勝者と敗者。現役時代に培った知識と技術で横領の限りを尽くし、敵側から安価な燃料を買い上げ、差額を着服する軍事コンサルタント。兵舎の発展場を盗聴する宦官スパイ。拘束した捕虜と民間人を防塁にして進駐する紛争監視団。特別ボーナスの為に爆撃する、停戦協定の調印会場、軍法裁判、宙域戦犯法廷。より高い報酬と生きている実感を求めて戦役依存症の亡者が犇めく、休戦期間に設けられた呉越同舟の業務説明会。
孫請けの嘱託だった少年は暴力の解放区を席巻して頭角を現し、何時しか元請けのパトロンから直接指名を受けて現場の指揮を執る様に成る。絶頂だった。髪の毛一本で在ろうと黒を白と言わせる破天荒な権限。戦場のヒエラルキーから睥睨する壮快な寵児の眺望。然して思い知らされた。弱肉強食を勝ち抜いたピラミッドの巓ですら手の届かぬ雲の上、投資家と保険屋の算盤で弾き出される茶番劇に。敵対する開拓団の両陣営に出資し、紛争の長期化で軍需と紛争資源の価値を吊り上げる鉄板のサイクル。宣争広告代理店に依って強引に統制される世論。売値が付いた時点でバースデーケーキの蝋燭の様に吹き消される戦火。指一本触れずに相手を屈服させる。其れこそが真の勝利。武力衝突とは所詮、拗れた現場の後始末か、政治的なデモンストレーションでしか無い。其処で武勇を競うのは野次馬の嘶き。小手先の膂力に酔う勝ち組の捨て駒。時の趨勢は丁々発止の利権を巡る、買い手と売り手の合意に拠って、戦う前に其の落とし処は決していた。人の営み、姿形とは金の威光が落とす影。歴史の流れは金の流れ。戦争も復興もデスクに積み上げられた諸経費の独つ。そんな浮世の以呂波も判らずに、悪魔の掌の上を転がっていた傀儡の戯れ。本丸は常に帯域の彼方で寛いでいた。
資本家の余興でしか無い、虚しい勝利の美酒。醒める事の無い悪酔いに、見失った能の矛先。積み上げては突き崩す子供の積み木の様な時間潰しの作戦。兵士の機械化に因り、ノスタルジックな死語と為って久しい傷痍軍人。肉体を失っても、供給される筋電義肢を継ぎ足して現場に蜻蛉返りする傭兵達。然して何時しか兵器と一体化し、戦略システムの中に埋没していく自我。事務的に組まれる核爆撃のタイムテーブル。焼き直したアニメの様に繰り返される機動部隊の斬将八落。そんな荒寥とした日々の狭間で、ショートメールの様に割り込まれた、労働争議鎮圧のスポット案件。非番の分隊を叩き起こして向かった現場。其処で再会した燐寸箱の様な移民船。初めて宙域へ飛び出した彼の日に同船していたディアスポラの末裔が、ウランの鉱脈で凝縮した小惑星に獅噛憑き、半狂乱で応戦していた。原子力発電と核武装は民族独立の石据ゑ。金剛石の様に血束する、断腸の想いで邦を捨てた者達のアイデンティティが、主君無き落ち武者の寄せ集めを蹴散らしていた。
チェチェン、クルド、チベット、テュルク系ウイグル人、民族浄化の荒波に揉まれ、埒の明かぬ地球上での領土確保と国家承認に見切りを付けた数多の少数民族は、其の篤き信仰を護り続ける為に宇宙を目指した。然して其処でも、難民就労プログラムと云う名目で、財産、労働力、人命、信仰と言語を、強制収容所の手配師に搾取され、蹂躙された。過酷を極めるテラフォーミングの人柱に注ぎ込まれた亡国の民。蜂起しては掃討され、其れでも決して途絶える事の無かった、先祖から受け継がれし流浪の物語。数と力を凌駕する不撓不屈の雄叫びに母の教えが甦る。祖国とは国語。耳底で燻る家学の灯火が、移民船の中で沸き返っていた、聞き慣れぬ未知の原語を照らし出す。噎せ返り、血走る古族の息吹。其の軋みを上げる反骨心に打ち負かされて敗走し、其処で漸く浅い夢から眼が覚めた。
業績が上がらず海賊化していく赤字部隊を掻き集めて旗揚げした、宙域難民解放運動の母体。スポンサーには事欠か無い。稀少、且つ、潤沢な鉱床が在ると云う試錐探鉱データを捏ち上げれば、審査の結果を待ち切れず、投機に逸る銭ゲバは先を争って値を付ける。今の今迄、時代と空間を越えて世界を欺き続けてきた者達は、偽りの栄華に終わりが在る事を理解出来ず、其の射幸心にブレーキは無い。騙されたと気付いた出資者への配当で叩き込む在庫処分の弾道弾。金に飽かせた豪奢な居城は偽造証券の様に良く燃えた。真っ当な勤めとは程遠い、気兼ねは無用の泡銭を元手に襲撃する奴隷市場。解放された者達は義勇兵と成り、天網を遍く鉄の絆と絆。回り出した歯車は唸りを上げ、宙域の凡ゆる弱者が自由の旗の下に集結し、バケツを被って寝起きをしていた浮浪児は、寄る辺無きスペースノイドをも包括した、人民戦線の総裁に君臨した。
勝利と開拓の先に広がる人類の新しい世界。預言された約束の地は系外に在ると云う確信。大気圏を突破した新世紀の太陽崇拝。神の国へと導く快進撃に、熱狂する銀河長征の十字軍。宇宙の創世から綴られてきた黙示録の完結。光あれ。心に轟く神の詞。併し、支配者と被支配者は背中合わせの双生児。数百年、数千年と虐げられてきたルサンチマンの逆襲は何時しか制御を失い、迫害の鎖縛から解かれた群民の本性は、去勢されていた選民思想を呼び覚まし、暴君の素顔を曝け出した。強奪の限りを尽くすゲリラの地下組織化。厳格な宗旨の解釈と主導権を巡る、友軍誤爆の応酬。組織の肥大化は求心力の分散を産み、其の混乱の綾を紐解く内に掴んだ、同盟の分裂を支援する不可解な資金の流入。手繰り寄せたのは戦狼の赫い九尾。実業左翼の甘い毒牙に増長した民族主義は冒されていた。領域での主権を密約し、壊乱分子を囲い込む中疆マテリアルの暗躍。嘗て弾圧を受けた元締めに擦り寄り、造反有理を喚いて足を引っ張り合う同宗異族。金の流れに流され暴利を競う神の子供達。空中分解した廉潔な理念と信念。帰する処、銀河蒼生の進退を賭けて巨悪に立ち向かい、抑圧された肉体と精神を宙域に解放するなぞ唯の火遊び。母屋を取られて庇に立ち尽くす、器では無かった己の才覚。歯止めの掛からぬ離反の連鎖。其の疲弊した組織に出資と提携を打診する新たなパトロン。重い腰を上げた銀河鉄道株式会社。白羽の矢を立てた魂胆なぞ顧みず、中疆と覇権を争う巨人の肩に、崖っ縁から飛び乗った。蚤や虱を飼い慣らすのに、何故、寝惚けた忖度なぞ差し挟んで終ったのか。浮き足立った忘恩負義の同胞を焼き払う、己の不甲斐なさから兇変した粛正の炎群。始めから固陋に徹するべきだった恐怖での支配。迷える子羊が歩むべき道を定めて鞭を打ち、買われた腕で鉄路開拓の汚れ仕事を全うする、表の無い二つの顔。理想郷アルカディアを求めて漕ぎ出した方舟の、舳先は挫け、帆は破れ、掲げる艦旗は髑髏の怪生に身を窶した。現場の尻拭いを押し付けられた上に、本社の蠱害と毒突かれる、血泥の汚名。其処で掴んだ汚職と醜聞の闇が、浅間敷き役員と株主を葬る墓場と化した。首の無い巨人に背乗りして歴任する取締役から会長職。陰のフィクサーから表舞台へ、海賊王から鉄道王へ。太陽を呑み干し、蝕甚の月は昏昏と煌めく。喜びを分かち合う者の無い、誰一人として寄せ付けぬ謀略の頂点。屈辱を晴らし、虚栄に塗れただけの終着に、安らぎも無ければ、信頼の置ける朋輩も、刃向かう敵も無い。昼夜を問わぬ朝貢の列を遥かに見下ろし、我が物とした無限軌道に去来する亢竜の慚愧。嗚呼、我もと銀河の一粒子のみ、何ぞ復た今と昔と有らんや。闘争の日々の中で肉体は戦地の焦塵に棄し、古傷の眼底から脳膿瘍を引き起こし電脳ボードに換装すると、鵲の呪能は潰え、亘天一哭、少年の元を飛び発った。
日月擲人去 日月 人を擲てて去り
有志不獲騁 志有るも騁するを獲ず
鉄郎の海馬で反響し、骨肉を揺さぶる、もう独りの鉄郎が駆け抜けた青春の幻影。難を逃れず己を貫き、何処にも辿り着く事の無かった航海の落日が、暗転した眼裡の彼方に没し、999に押し流されていくだけの、物見遊山とは比べ物に為らぬ灼熱の半生が、一瞬にして燃え尽きた。追い縋る事を許さぬ時の鏃が頬を掠め、総てを語り終えて鉄郎の手に舞い戻った鵲が闇に紛れている。再び幽霊船の艦内に突き返された鉄郎の見当識。何処を何う歩いたのか、立ち尽くした正面に、鍵穴から灯りの漏れる突き当たりの扉が、真鍮のドアノブを無言で差し伸べている。敵と味方は違へども、戦禍の苦楽は相通ずる盟友との再会。飴色の拳と堅い握手を交わして扉を開けると、大海を征する者が世界を制した時代の侠薫が、仄かな潮風を纏ひ閃いた。
燭台の火影に浮かび上がる古木と彫金のマチエール。銀河の荒濤で磨き抜かれた往年の意匠が湛える膽然とした凄寂。其の寡黙な招待に固唾を呑んで応える鉄郎。誰在ろう、艦の全権を握る漢の聖域に、疑懼を差し挟む余地なぞ無い。海賊王の宙飛ぶ居城。絶望から逃れ、星の無い夜空に思い描いた冒険と活劇の象徴。憧れは眩し過ぎて、涙が治まるまで見上げ続けた。彼の絵空事でしかなかった艦長室に今、足を踏み入れている。其れも無限軌道が糾ふ、縺れた因果を断ち切る為に。最早、鉄郎に取って夢とは甘美に耽る為の一服から、打ち破るべき幻想へと色褪せていた。己の中で作り上げた権威に何時迄も媚びてて何うする。彼の頃の自分は機賊に襲われた吹雪の中に棄ててきた筈。鉄郎は開け放った扉も其の儘に、手にした得物を最上段で諸手に構えると、肺の腑に張り詰めた気魄を、グリップから伝導する鵲の呪能で絞り出す様に振り降ろした。船尾楼のレリーフで縁取られた飾り窓を背に、書斎机の星系図に左腕を載せた益荒男が、右隻の眼帯越しに鉄郎を睨み付けている。堅忍不抜を絵に描いた、逆賊の旺羅で漲る屈疆な其の風格、坐して猶、泰山北斗を仰ぎ見るが如し。釣り鐘外套の前裾から覗く、胸元に配われた髑髏の紋章。其の不敵な微笑みが名告りを挙げる、スペースノイド解放戦線総裁の初代を冠した、アルカディア號を統べる最後の英傑。貧民窟のノミ屋に張り出されていた、銀河連盟捜査局の第一種特別指名手配の3Dモンタージュが甦る。赤錆色の蓬髪に覆われた、死神をも瞠喝する降魔の隻眼。研ぎ澄まされた鋭利な外顎に、一抹の翳りが過る喪然とした頬。地獄の底を封じ込めた眼帯と交差して、強靱な意志で貫かれた鼻梁を限る、歴戦の縫合痕。指を銜えて見上げていた赤手配書の精悍な面魂が今、眼の前で息衝いている。ウイングバックチェアから徐に腰を上げる気怠さの中にも立ち昇る王者の威徳。雄渾な体躯の圧迫感で窒息する、質実な器財で固められた船長室。尊崇は不敬だ。恐縮し、諂う者達の下心は寧ろ火に油。命を投げ出して立ち向かってくる者にしか心を啓か無い。ハーロックとは然う云う漢だ。迷ったら撃て。星間運輸機構が出資する格外報奨金の筆頭株は伊達では無い。暴君との謁見に手心なぞ侮蔑に等しい。賞金首を狙われてこそ海賊の誉れだ。
故國銀河幾度更 故國の銀河 幾度か更まる
英雄埋骨不埋名 英雄 骨を埋めて名を埋めず
中段に構えた霊銃の千早振る羽動に、瞬く緋彗の照星。脳の髄を網羅する中枢神経の小宇宙をβ-エンドルフィンが逆流し、法悦と官能の漣が人差し指の第二関節に充血する。満を持した星辰一到の白熱。指数函数を瀧騰る臨界曲線。銃爪を爆ぜる晶撃に、挨拶代わりの銃咆が発莢し、嘴裂を極める光量子のスパイラルがハーロックの右の脇腹を掠め、飾り窓を撃ち砕いた。艦内に轟く砲撃を受けたかの如き光励起の激甚。室内に降り積もっていた粉塵が舞い上がり、狼藉者の凶弾を浴びて猶、憫笑を湛える伝説の軍神。厳づ霊の逆鱗を以て為ても、姑息なブラフは通用し無い。併し、鈷藍の残像に引き裂かれ、外套の身頃に隠れていた、二の腕を欠く無斬な右肩は暴かれた。硝煙を苦遊らせて情事の後の余韻に浸る猥らな銃口。鉄郎は諸手に構えた其の緊を解かずに、緋彗のポインターを海賊王の眼帯にロックして躙り寄る。
「此の銃に見覚えがあるな。」
強迫か自白かの是非なぞ何うでも良い。始めから有無を云わせるつもりは毛頭無い。調べは疾うに付いている。回り諄い罪状認否も二の次だ。懺悔室の神父様じゃ在るまいし、御上品に宥め賺して等いられるか。
「運命の答え合わせの時間だ。観念しやがれ。」
鉄郎は聳え立つ隻腕の巨像に声を張り上げる事で、錯綜する感情を懸命に抑え込んだ。既に此の漢を巡る宿怨の憎悪は、熱烈な萬謝の念へと傾いでいる。此の出会いが無ければ今の自分は有り得無い。瓦礫の中で眼に映る総ての物を呪い、世界と一切交わらぬ儘、醜く老い曝えていた事だろう。宇宙へ飛び発ち、無限軌道を駆け抜ける事が出来たのは、総て此の漢に突き落とされた苦難と、焼き鏝の様な檄の賜物と云っても過言では無い。此の漢の魂を惹き合わせる因力は本物だ。其の恩を返せる資格が俺には有る。此の漢を救えるのは俺しか居無い。エメラルダスも然うだった。己の弱さを誰とも分かち合う事が出来ず、其の脆寂と虚無を、能を誇示し撥ね除ける事で欺き続け、屈折した矜恃は何時しか肥大化した自我へと変異し、骨の髄まで転移していった。自刃に等しき武力を振り乱し、孤独な勝利を貪る、名声と汚名で混濁した二つの顔。制御不能な自己顕示欲とは裏腹に、海賊王と云う殻に閉じ籠もり顫えていた、もう独りの鉄郎が今、其の破綻した偽りの仮面に手を掛けた。
ハーロックの甘噛みしていた、曰く有り気な口角の綻びが突き崩す王者の壮貌。顳顬の静脈が怒張し、天を衝く赤錆色の逆髪。此が鉄郎の追い求めた無限軌道の終着なのか。颯爽とした秀眉が苦悶の渦を巻いて眼窩を縁取り、マルチコマンドの回転ベゼルに切り替わると、目搏き独つせずに血走る隻眼が、其の星眸に積算尺のインデックスを刻んで拡張し、猟奇を帯びたプラズマが名刺代わりの眼帯を引き千切る。インローで埋め込まれたサブダイヤルが炯炯と犇めく、火眼金睛のモノアイ。狂瀾のカドミウムレッドを剥き出し、満身創痍の皇鼎が其の本性を現した。梅毒に冒された醜男の如く鼻骨が捩れて欠損し、頬肉の爛れ落ちた顴骨を緑青の酸化被膜が蝕み、饕餮の文様が下顎から這い登ってくる。鋳造の業火に人類で在った頃の俤を掻き消され、露わになった脊椎にまで達する左脇腹の裂傷。ダブルのジャケットに縫い込まれた髑髏の紋章は足許に焼け落ち、其の異形を勝ち誇る、型破りの深手は覆うべくも無く。名にし負う海賊王が手負いの鉄道王へ、メーテルの雷刃に切り刻まれた隻腕肋裂の機械伯爵へと変貌していく、魔道に屈した人類の成れの果て。機族の分際で、何故、破損した部位を換装しないのか。己の罪を衒す様に刻印した、怪異千万な虚仮威しを、鉄郎は醒め醒めと眺めていた。凍死寸前の白魔に呑まれて母を見失い、剛性軍馬の鞍上から瞠喝一つで心の臓を鷲掴みにされて、命乞いをする事すら出来無かった彼の夜。こんな陳腐な屑鉄の焼き直しに怯んでいた己に熟熟反吐が出る。紅蓮の妖気で捏造された文明の奇術が熱演する、素人狂言は此処迄だ。電脳化に依って理性と向上心を素粒子レベルで制御し、宇宙空間を越える無限の知識を構築し、生活、人生、産業、経済、歴史、凡ゆる時間と空間を効率化し、未来永劫、優性種で在り続ける。然う火裂いていた挙げ句に此の様か。新世紀の霊超類が聞いて呆れる。人類も機族も情報と云う寄生虫に背乗りされて生かされているだけの裳抜けの傀儡だ。権力の頂点に昇り詰めた煽動者も所詮、寄生虫に寄生された寄生虫でしか無い。
進歩する歴史の名の許に人類を駆逐した機族の唯進論。科学技術の発展、画期的なイデオロギーと完璧に情報化された社会構造に因って格差と紛争は消滅し、世界は着実に革新していくと豪語した御題目は、人類に未開の原人と云うレッテルを貼っただけで、理性に拠り弁証法的に進歩していく筈の歴史観は、唯の紙芝居で終わった。其れは人類が自らを生類の頂点と思い上がり錯誤した構図を、居抜きの儘、看板を挿げ替えただけで新装開店したのと変わら無い。霊長類も霊超類も、人類も機族も、所詮、競争と破壊と云う枠組みの中で自傷行為に陥った、屠殺場の同じコンベアーで腸を暴かれ、押し流されていく順番を待つだけの畜群だった。鯔の詰まり此の世界は、理性が社会構造を築き上げ、発展してきたのでは無く、太古の時代から恒に、理性は構造の生み出す力学に隷属し続けてきた。共同体の制度、風俗、階級が意志と行動を規定し、自由で主体的な理性なぞ唯の妄想。機族の専進原理主義も、進歩する歴史と云う信仰、人類の語り継いだ神話の亜種、其の他の独つでしか無かった。
古来、神と人が共に暮らし、神と人に、詞と哥と祈りに区別の無かった神話の時代は、機族社会とは異なる社会構造を謳歌し、人間本来の卓越した知性と語彙、豊穣な無意識に拠る深想世界で満ち溢れていた。デジタル化した知能の解析処理を限界まで拡張し、如何に認知中枢モデルの精度を突き詰めようと到達出来ぬ、悠久の歳月を費やし、感性と創造力と歓喜に祝福されて野性から芽生えた、観察と仮説と検証に拠る普遍的な思考の根源、人の心を司る信仰と神秘。現在を生き抜く上に於いて足枷でしか無いと、過去を憎み破壊してきた者達の懼れる、覆しようの無い生命と精神の核心が其処には在る。神話の世界は文明に疲れた個人が潜り込む、イデオロギー的防空壕では無い。人が神と共に在った時代を信じようとし無い、過去の無い者に未来は無い。何れほど合理化を極め競争社会を生き抜いても、人間の存在、其の物に勝ち負けなど無い様に、社会を、世界を、然して宇宙を文明と未開で断絶し、優劣を付ける事も出来はし無い。此の宇宙を外から俯瞰すれば、極限まで集積化した機族文明も民族誌的資料の一つとして、機械化した風俗に相対化され、分類されるだけ。寧ろ、自然の摂理では無い、自ら小細工したシステムに縛られて沼田打ち回っている其の様は、神の領域を目指した理性からは程遠い。集団構造の範囲内で限定された世界に於いて、自由な意志も理性も主体も果敢無き錯覚でしか無い。だが、其の不自由な意志と理性と主体の限界を自覚する事で、人は初めて独善的な世界観から目覚め、人生と家族と社会と未来を本当の意味で真剣に考え、一度限りの命に配られた、取り替えの利かぬ運命のカードを手に出来る。此の不完全で不揃いなカードを、答えの無い人生を意味有る物にする為、如何に切り出していくべきか。鉄郎の切った最後のカードは999のホログラムを仄めかし、宙空に散った。伯爵も自分も同じ車輌に乗り合わせ無限軌道を周回する、途中下車の出来ぬ旅人。其処には敵も味方も、善も悪も、電脳ファシズムも資本化された権力機構も無い。然して何より、こんな賢しらで趣味の合わぬ洋服乞食は、もう沢山だ。
「何うした鉄郎。母の仇を前にして止めを刺さぬとは如何なる料簡か。貴様の如き流民風情に情けを掛けられる覚えなぞ無い。其の為体で此処迄辿り着けるとは、幸甚な星の巡りに感謝しろ。」
背後の砕け散った飾り窓が覗き見える、胸郭の豪快な裂傷が酷薄な笑みを浮かべ、腰から提げた直劍に手を掛けようとすらせず、鉄郎の最後通牒を受けて立つ伯爵の剛顔。墓荒らしを返り討ちにする、不貞不貞しい亡者の余裕が鼻に付く。絶望的な致命傷に反比例して生生しく駆動する、幽渾にして絶倫なる頑躯。全く以て何う云う造りをしているのやら、余程、棺桶の居心地が悪いのか、近頃の死に損無いと来た日には、納める年貢の荷役から戒名まで、手取り足取り世話してやらぬと駄目らしい。
「撥条仕掛けのハムレットは其処迄だ。此の銃が何故咆えたのか未だ判らねえのか。カラスが鳴いたら温和しく家に帰るもんだ。ママのスープが冷める前にな。」
「彼の女には、宇宙の果てで朽ちたとでも云つておけば良い。」
「彼の女だと。巫山戯るな。母さんと呼べ。
思爾爲雛日 思へ爾雛爲し日
高飛背母時 高飛して母に背ける時
死に場所を探してるのなら俺に任せろ。御前には帰る場所が在る。」
「未だそんな家族なぞと云ふ幻想に囚はれてゐるのか。鉄郎、貴様に取つて母とは何だ。」
伯爵は切り刻まれた巨漢を傾ぎ、膝下で折り返した鐵鍛冶のライディングブーツで、痩せた床板の逆剥けた柾目を詰り、砕け散った窓硝子を踏み拉き乍ら書斎机の前に出ると、付け狙う緋照のポインターを鋼顔に減り込むモノアイで牽睛し乍ら、音素の粗い外顎のエアフィルターを咳いた。
「母とは生まれて初めて出会ふ、意味不明な言語を操つて自己とを劃かつ、決定的な他者でしか無い。其れを生殺与奪の権利を持つ母の心を引き留める為、子は母の欲望の対象に成ろうとし、母を奪ふ父の存在と衝突するだの。其の愛憎劇を乗り越える事こそが精神の自立と成長の鍵で在り、人格形成を司る父、母、子供の三角関係、核家族こそが人類普遍の基礎的な単位だの。其処から逃れる事は誰にも敵はず、家族の三角形を逸脱した欲望は、神経症、倒錯、精神病に依つて自らを罰する事に為るだのと。そんな実しやかに唱へられた旧世紀の神話を、貴様は真に受けているのか。良いか鉄郎、エディプスコンプレックスなぞ、所詮、エーゲ海の地方都市で生まれた、数ある神のエピソードの独つ。其れ以上の悲劇でも其れ以下の醜聞でも無い。其の御伽噺に尾鰭が付き、更に宗教が家族と云ふ雛形で偽装した共同幻想と交雑して嵌合体と成り、帝国主義と抱き合はせで西欧列強から植民地に押し付けられ、精神分析の文学的なレトリックに依つて、恰も抑圧が人間の文化的条件で在るかの様に吹聴されてきたが、そんな物の何処に妥当性が見出せると云ふのか。現に、アフリカの先住民族の中には、西欧社会ならば親子関係の縺れと解する神経症発作を、呪術を通じて、政治、経済の結び付きから、領土、縁組み、出自を巡る欲望のバランスが崩れた為だと、的確に突き止める知恵を持つてゐる者達も居た。暴力装置に依つて拡散した西欧の手前味噌な枡目に押し込める程、世界は杓子定規に出来てはい無い。結局、そんな親子の葛藤なぞと云ふ似非ヒューマンドラマに酔ひ痴れた者達は資本家達のカモにされ、民族浄化と国家解体の最初のメスで在る、共同体の核家族に因る細分化は、資本主義の労働力を確保する奴隷船の波飛沫と、地球全土を一括で植民地支配する謀略に呑み込まれていつた。フェミニズムもLGBTも、人類の文化と伝統を破壊し脱コード化を押し進め、暗躍する資本家が、似非左翼に金を渡して仕組んだ社会の分断工作の独つでしか無い。人権を声高に叫べば馬鹿な奴ほど騙される。然して、家族関係の構築に挫け、破綻し、護る物を見失つた輩ほど、其の埋め合わせと復讐の為に、平和主義、共産主義、リベラル思想と云つた、上辺だけ高邁な空理空論に逃避し、溺れていつた。其処は将に人の行動原理で在る欲望を見誤つた者達の掃き溜めだ。家族と云ふ呪縛が人格と欲望形成の根幹に在ると云ふ考えを棄てぬ限り、混乱した理性と肉体から精神の自由を救ひ出す事なぞ夢の又夢。家族と云ふ物が社会の一部で在る以上、個人的な人格と欲望と云ふの物は存在し得ず、何れほど荒廃した環境で在らうと社会との繋がりの中で人格と欲望は組成統合されていく。然して、近代化以降、資本主義装置で脱コード化された欲望は、社会や政治から切り離された親子と云ふ最小単位で再コード化され、欲望は食卓を囲む気骨無い団欒で劃られた領土の中に、冷めたスープの様な家族の対立に引き擦り降ろされ、模範的な家族で在る様に去勢されたまま閉ぢ込められた。鉄郎、貴様の様にな。出口の無い懊悩を精神疾患へと加速させる再領土化を完膚無き迄に破壊し、去勢された子羊を解放する最適解は、資本主義が齎す脱領土化、脱コード化のリミッターを外し、分裂的な欲望の衝動に拍車を掛け、血縁の鎖縛を断ち切る以外に無い。鉄郎、己の胸に手を当ててみるが良い。貴様は母との間に己で築いた心の壁すら乗り越えられずにゐるのでは無いか。忠誠と反逆を通じた自我の形成すら経ずに、家族は疎か世界からも独立出来ると云ふのなら遣つてみるが良い。国家と社会が対峙せぬまま融合し、奪われた主権を取り戻す気力すら見せずに滅亡した、何処ぞの島国の様にな。見せ掛けだけの家族、民族、国家に取り囲まれた者達に真の自由は無い。電脳化に因つて開化した我我の精神は旧世紀の凡ゆる障壁を打ち破つてきた。金銭関係と表裏を為す、欺瞞に満ちた人の絆や、多民族が犇めき、睨み合ひ殺し合ふ国境線に何の意味が在る。好い加減に眼を覚ませ。人の世の情けに甘えて身を滅ぼした者達の声無き声を聞け。」
突き付けた銃口を塞いで断裂した胸郭が立ち開かると、鉄郎はタイタンの草庵で膝詰めに差し向かい、茶の湯を交わした一時がカットバックした。小兵の啖呵を意にも介さぬ孤老の矍鑠とした気丈。幾ら機械に換装しても、血は争えぬとは此の事だ。御負けに、片足を棺桶に突っ込んで引き擦り乍ら、頭熟しの説教と来ている。全く大した漢だ。旅先で眼にした、巨悪を裏で糸引く頭目は大抵、何の信条も無く、己の大罪に自覚も想像力も欠落した、自分自身すら他人事と云う、小心で狡猾で陳腐で、遣る事、為す事、事務的なキャリア官僚と相場が決まっていたが、此の叩き上げの御尋ね物は、悪徳の度量と云い、力量と云い、外道を絵に描いた其の姿に寸分の狂いも無い。其れでこそ叩き直す甲斐が有ると云う物だ。
「離散した家族を国境に追い遣り、不法移民の孤児を人身売買の網に掛けて売春宿に叩き売るのが精神の解放とは恐れ入ったぜ。海賊だけじゃ飽き足りず、山賊稼業にも御執心の鉄道王とはな。良くもまあ其の形で、いけしゃあしゃあと。口が達者なのは誰に似たのか、其れも覚えがねえって云うのかよ。生憎だがなあ、俺はもう、そんな舶来の小賢しい座学には倦んざりしてんだ。理論武装しなければ保た無い外野の野次で身も心も粉飾し、俺が間違ってた、其のたった一言が云えず蜷局を巻いている分際で、何が眼を覚ませだ。糞みてえな合理を弄しただけの心無い詞が、俺の心に届くと云うのか。そんな御為ごかしで俺の心を奪えると思ったか。人の命や財産、住んでいる土地を暴力で奪う事は出来ても、文字の無い神話の世界から始まる故事を敬い、気の遠くなる様な風雪に耐えてきた知恵に感謝し、命と命が繋ぎ止めてきた風俗や伝統を誇りに想い語り継ぐ心と詞は、決して奪う事は出来無い。心の奥底に宿る本物の詞は、決して忘れる事も、忘れ去られる事も無い。伯爵、御前の受け継いできた家学は何うした。人が最後に帰るべき場所は血の通った国語だと、赤線を引いて習ったんじゃねえのかよ。此の銃は其の国語の産声、人が神と交わした詞に感応して能を解き放つ。御前も此の銃を手に旅をしたのなら、何故、其の詞と心を手放した。」
「人が神と交はした詞か。そんな魔除けの護符を頼りにせねばならぬとは、旅の心細さが余程骨身に応へたか。私の言葉が場外批判だと云ふのなら、良く聞け。紀元前十世紀以前、古代の人類は独りの個人に統合された意識とは異なる、二分心と云ふ精神構造を持つていた。言語中枢のウェルニッケ野で音声化された、経験則に法る善悪の超自然的な啓示と、其れに付き従つて肉体を使役する神の僕。人の心には神が宿り、神と人が御互いに響き合つて暮らしてゐた神話の時代は確かに存在し、右脳で醸成される神神の声を、脳梁の前交連を介して左脳が老想化声や思考反響と云つた幻聴に変換して聞き取り、人々は日常の祭祀や政治を執り行つてゐた。併し、数数の戦乱、災害、飢饉、疫病、民族離散と云つた混沌の中で、神神の声だけでは現実に対応出来ず、又、文字と比喩に因る認知能力と時空を把握する許容量の発達が、脳内で分散してゐた知覚を統合して意識の起源と成り、分割されてゐた心は衰退して、巫術を生業とする一部の者達を除き、神神は沈黙していく。神の声と云ふ指針を失つた人類は、取り残された自意識と向き合ふ事で哲学や宗教と云ふ心の杖を編み出し、独り歩きをし始め、然して何時しか、其の杖を抗争の刃に磨き上げていつた。」
ストレージの検索結果を咀嚼し乍ら、伯爵の顴骨で狡猾に蠢く饕餮の教鞭。頸椎を走るベアチップの神経質な明滅。量子化した史料の深層から浮上し、勝ち誇った形相が雄弁に自説を継ぎ足そうとした瞬間、鉄郎の添えた人差し指を魍禽の鉤爪が振り解き、霊銃の銃爪が猛然と弾けた。算譜厘求された蛮声を掻き消し、断裂した胸郭の狭間を衝き貫ける鈷藍の皇弾。鳴る神の音羽を散らす、鵲の愾りが暴発し、更に邃く抉られた風穴に揺らめく伯爵の斬像。
「昔の相棒が忠告してくれてるぜ。理学の安直で種明かしをすれば、人の心や信仰も語り尽くせる。思いの儘にも操れて、己の心も誤魔化せると思ったら、火傷位じゃ済まねえってな。」
「では、エデンの園に還る為に、知恵の実を総て吐き出せと云ふのか。」
「然うだな。少なくとも余計な口数が減って良い。此から連れて帰る間中、ガタガタ云われたくねえからな。」
「此の躰を見て彼の女が喜ぶと思ふのか。恥を棄てた漢に立つ瀬なぞ無い。母を護れず死に損なつた貴様と一緒に為るな。」
「如水庵の女将は、字が汚いのを俺が恥じると、本物を求める心が有るからこそ、恥ずかしいと思えるのだと諭してくれた。
身也者 父母之遺體也 身は父母の遺體なり
行父母之遺體 敢不敬乎 父母の遺體を行う 敢へて敬せざらんや
こんな躰で生き恥を曝したく無い。然う想う気持ちが有るのは、授かった我が身を敬い、感謝する想いが有るからだ。譬へ此の身は朽ちようと武門の誉れ。情けを受ける覚えなぞ無い、なんぞと息巻くのは結構だがな、好い歳をして粋がってる木端侍の、面倒見る此方の身にも為りやがれ。そんな痩せ我慢で晩節を飾って何うする。樹木に皮が有る様に、機械にも被る面子が有るってんなら、そんな鼻糞みてえな瘡蓋、俺が今此処で剥ぎ取ってやる。機械の体じゃ戻れねえって云うんなら、俺の躰に乗り移りやがれ。生身か機械か何て関係ねえ。会うだけで良い。其れだけで良い。帰りを待つ身に取って、御前の生き方が正しかったのか間違ってたのか何て如何でも良いんだ。取って付けた錦も、持ち切れない手土産も要らねえ。躰一つ有れば其れで良い。御前を待っている人が居る。此以上待たせるな。俺は此の銃に何度も助けられてきた。人の道を外れて、親の気持ちも判ら無くなった空蝉でも、俺には連れて帰る義理が有る。力尽くでもな。」
今にも飛び掛からんとする鵲を拝む様に諸手で押さえ込み、其の悲嘆を代弁し、魂極る鉄郎。戦士の銃は知っている。鋳造の煉獄に身を堕としても、此の漢未だ未だ嫗の血が枯れて無い事を。然うで無ければ、こんな屑鉄、初めから頭を狙っている。
「ふん、猪口才な。」
如何にも大義と云った素振りで伯爵が腰の得物に手を掛け、撃ち抜かれた裂傷を軋ませ乍ら隻腕を大仰に揮い上げると、金象嵌の刻印が火の粉を散らして、艦内の淀んだ埃氛を焼き払い、炒鋼精鍛の武骨な刀身から立ち昇る邪気で、視界が歪み始める。鉄郎は怪周波を上げて逆巻く三半規管を掻き分け乍ら、魔刃の呪界に呑まれまいと、熱烈な火語で喉を裂き、舌を焦がした。
歸去來兮 歸りなんいざ
田園將蕪胡不歸 田園將に蕪れなんとす 胡ぞ歸らざる
既自以心爲形役 既に心を以つて形の役と爲す
奚惆悵而獨悲 奚ぞ惆悵として獨り悲しむ
悟已往之不諌 已往の諌められざるを悟り
知来者之可追 来者の追ふ可きを知る
實迷途其未遠 實に途に迷ふこと其れ未だ遠からず
覺今是而昨非 今の是にして昨の非なるを覺る
鉄郎は母に対する己の負い目を曝け出す様に、痛恨の祖辞で伯爵を面罵し、然して、密かに微笑んだ。俺は恐らく殺される。九死を潜り抜けて来た鉄郎の古傷が疼き、手合わせをする迄も無いと五月蠅なす歴戦の第六感。抜き身の兇刃を呪能で充たした此の漢は流石に物が違う。だが、其れなら其れで構わ無い。鉄郎は嫗が待っていると伝える事が出来ただけで、既に感慨無量の随喜が込み上げていた。漢とは身の丈を越える壮大な物語を欲望し、凡ゆる生と実存の命題を、泡沫の栄華に溺れて忘れ去る物だが、伯爵はそんな吝嗇臭い玉では無い。嫗の為に鉄郎が総てを献げれば、此の漢は機械の躰が稼働し続ける限り、己の生を全う出来ず、其の報いを赤の他人に償わせたと、永遠に責め苛まれる事だろう。現世での再会は叶わず、其の身は土に帰ろうと、伯爵の慚愧を橋掛かりに嫗の想いが生き続けるのなら、其れも又、男子の本懐。自分に出来るのは其処迄だ。構えた銃口に直劍の煮え滾る呪能を突き付けられ、鉄郎が天命を覚悟した其の時、
「御取り込み中のようね。」
開け放たれた扉の向こうから、神経を逆撫でるピンヒールの瀟洒な刻韻が聞こえてきた。耳に覚えの有る勿体振った其のステップ。仄かに嫋ぐ、999から姿を消した令嬢の雅な香貴。併し、何処か毛色が違う。疫病神が復た独り増えた。鉄郎の旅を翻弄し続けた瑞瑞しき狂濫とは似而非なる、怨嗟に満ちた嬌声が背筋を逆撫で、相対する隻眼のカドミウムレッドが見開かれた儘、死の淵を覗き見たかの様に氷結している。伯爵の忌まわしき呪能に怯まず、好き好んで暴虐の渦中に身を投じる痴れ者に、胸騒ぐ血潮の荒磯波。すると、銃撃態勢を解いて振り返りたくとも、此処で水入りと云う訳にもいかぬ鉄郎に、伯爵は突き付けていた直劍を落雷の如く床に突き立て、鷹揚に構えていた錆声の語気を神妙に引き絞った。
「鉄郎、心して聞け。最早、彼の女を母とは思ふな。いざと為れば、此の老骨もろ共、奴を撃ち抜け。」
霊銃の脅弾なぞ眼中に無い決死の忠告。余りに唐突で何を訴えているのか理解出来ず、鉄郎の眼路が銃口の照星からブレると、垂直に倒立した柄を手放し、腰へと廻した伯爵の隻腕が、翡翠の宝玉を後ろ手に取り出した。黎明の神秘を湛えて円む、厳つい五指に包まれた刻の雫。メーテルの胸元を飾り、蠱惑の痩身を護り続けた勾玉のネックレスが何故此処に。鉄郎の脳裏を巡る奇遇の経緯。併し、其れを言問う暇も与えずに、伯爵は無言で鉄郎が羽織るベストの左胸に捻込んだ。高鳴る鼓動を弾き返すポケットの異物。伯爵は岩漿の滴る皇剣を抜き取り、銃を構えたまま放心している鉄郎の脇を陰鬱な足取りで袖に為ると、招かざる客人を声朗高らかに迎え入れた。
「此は此は、プロメシューム様、御変はり無き其の御娟容、見目麗しく、拝眉の栄に浴する望外の僥倖、恐悦至極に存じます。況してや、長きに渡り沙汰の礼節を欠いた不敬にも拘はらず、此の様な浅間敷き苫舟に足を御運び頂き、面目次第も御座いませぬ。」
当て付けがましい美辞の継ぎ目から発散する鉛色の殺意。御座敷の太鼓持ちに成り下がった、伯爵の見え透いた御持て成しを、背後の上客はピンヒールの楔で詰り倒した。
「そんな歯の浮く様な御追従、何処で覚えてきたのやら。海賊崩れが、拾ってもらった恩返しに提灯担ぎとは、恐れ入るのは此方の方よ。」
メーテルの竹を割った様な痛罵が霞む、地の底へ引き擦り込む救いの無い醜念。鉄郎が恐る恐る振り返り、肩越しに垣間見ると、其処には心神喪失だった鳳髪の令嬢が、光励起サーベルを枝垂れ柳に構えて既に漲っていた。所在なげに虚ろう露西亜帽と墨染めのフォックスコートに身を包む弱竹の蜂腰。無限軌道の女王は確かに蘇生し、燃え盛ってはいるが、其の様相はメーテルにしてメーテルに非ず。伯爵がプロメシュームと呼ぶ、此の物語を巡る最後の当事者が、済し崩しの顔面神経に取り憑いて、酷薄な笑みを噛み殺している。終着駅に幽閉された、もう独りの女王が降霊し、此で役者が揃ったと云う事なのか。母の躰に相乗りするメーテルとプロメシューム。白紙の台本から脱け出した母と二人の女王の一人三役。全く収拾の付か無い夢幻能から鉄郎は閉め出され、後シテのプロメシュームはメーテルの躰を労る様に鎖骨の幽谷に手を添えた。
「此の子のペンダントを何処へ遣ったの。」
「あんな物に何時まで縋り続けるつもりだ。此以上メーテルに罪を背負はせて何うする。其の荷を解いてやるのが、親の務めと云ふ物だ。」
「此の子を散々利用して甘い汁に有り付いた金色夜叉が、云うに事欠いて、罪だ何だと。此の子を触媒に仕立て上げて、傀儡の責め苦に突き落としたのは何処の何奴よ。」
メーテルの肌理細やかな白磁の頬が見る間に萎れ、其の襞が眉間から鼻翼へと群がり、皺枯れる妄執の刻印。絶世の美貌が兇変し、鉄郎の母よりも年老いて見えるプロメシュームの険相に、伯爵の文身獣面が緑青の酸化皮膜を散らして応戦する。
「何度云つたら判るのだ。メーテルに宇気比の能が有るのを見出したのは、全く予期せぬ違算だつた。メーテルの受診してゐた宙域性神経発作の脳波計バイナリを、電劾重合体の冥彩素数解析に投入したのも、戦略的因子に浸蝕されたシステムの誤動作に因る物だ。カルテに添付された波形データが符合して、彼の化け物を撃退するなぞ誰が想像出来たと云ふのか。メーテルの神経発作が、永遠に自己準拠し続けなければならぬ、帯域覚醒した電劾重合体のジレンマに感応して引き起こされてゐたのも、後後に為つて漸く判明した事だ。何故、マイクロチップや遺伝子操作に冒されてゐ無い、伝世品種の貞女にのみ巫術の能が宿るのか。未だに其の因果も相関も藪の中だ。」
「其れだけ斬り刻まれても、未だ足り無いようね。口で答える気が無いのなら躰に訊く迄の事。」
「プロメシューム、私事に感けて己を見失ふな。其の験体はもう限界だ。一刻も早く離脱しろ。私には其れを無傷で返す義務が有る。
ますら夫の腰にまもりの太刀あれど
人のなさけをいかに断つべき
手荒な真似はしたく無い。帝層帯域に温和しく還れ。」
プロメシュームの胸元を指して皇鼎の旺羅を放射する、天河を左治して作らしめた百練の利刀。燭台を限る伯爵の屈疆な玄影に覆い尽くされて猶、皺襞を極めた老醜を眉独つ欹てぬ、痩墨の幽女。反目の狭間で押し殺された沈黙に室内が窒息し、破滅の瞬間を秒読みする心搏数。鉄郎は直感した。伯爵を片輪にしたのは此の女、否、メーテルだ。何故、今の今迄気付け無かったのか。星の巷を見渡して二人と居無い、絶対零度の彼の斬り口。何時何処で手合わせをしたのか、そんな穿鑿は何うでも良い。人の情けに免じて一度は納めた鞘ならば、其の柵を踏み倒し、メーテルを討てと云う伯爵の翻意に妥結は無い。彼の女を母とは思うな。、胸元の宝玉に託された、鉄郎を揺るがす迫真の宣告。敵や味方で色分け出来ぬ、善悪を越えた伯爵の絶望的な気骨を目の当たりにして、鉄郎は今、己が護るべき情理は何なのか、其の糸口すら掴め無い。然して其れは、母に乗り移った、憑き物にしても又、然り。
「温和しく還れですって。私も此の子も還りたいわよ、彼の頃の地球に。」
燭台を背にした逆光を女物狂ひの絶叫が劈き、伯爵の巌の如き肩骨から饕餮の生首が刎ねた。構えと云う構えも何も無く、アーク独閃散らさずに、鉄郎の目搏く刹那を掠めた其の斬像。戦慄の付け入る余地すら無い奇想の剣戟。鋳造の魔神を仕留めた、在るか無きかの一太刀が刻の流れをも寸断し、花と散った意趣返し。総ては決した、其の筈が、柄を握った儘の隻腕は、何を血迷ったか跋折羅の如く最上段に振り被り、宙を舞う頭骸も顧みず、プロメシュームに襲い掛かる。原形を放棄した鬼哭啾啾の斬骸を擲つ電呪の特攻。微動だにせず黑怨を上げる喪装の憑き人。プロメシュームの顱頂を捉えた刀身が幻影に呑まれ、床板を打ち砕いた激甚が斬り裂かれた胸郭を駆け抜けると、脊椎から右肩に達した雷刃が皇鼎の文身を二分した。轟音を傾ぎ、プラズマの血飛沫を巻き上げて、伯爵の下肢が膝から崩れ落ち、床に突き立つ直劍を握り込んだ儘、宙に没する隻腕と胸郭。首を斬らせて骨を断つ処か、斬っ先を交える事すら敵わず、床板を爆ぜる隻眼の生首が、射ゆ獣の行き死ぬ遠吠えを捲し立てる。
「鉄郎、撃て。躊躇ふな。」
狂瀾のカドミウムレッドが其の睛能を蒼失し、顔を伏した儘、寝返りの独つも返せ無い。総ては鉄郎に委ねられた。併し、何を躊躇わずにいられるのか。譬へ物狂いに取り憑かれていようとも、母に偽りの無い物を。
「精精、吠えるが良いわ。其れが野良犬の仕事ですもの。但し、此の私に噛み付きたければ、狼に生まれて出直す事ね。」
地に堕ちた穂垂首の顳顬にピンヒールを突き立てて踏み躙り、首実検を堪能するプロメシューム。鉄郎は嗜虐を貪る其の熱狂に、母の押し殺していた本性を覗き見た気がした。厳し過ぎる気高さの歪みに悲鳴を上げる心と躰。鉄郎の窺い知れぬ業の深さに辿り着く呪能の源泉。鬼子母の抱えた闇に吠える愛憎の餓鬼道に、伯爵が止めを刺せと喚き続ける。此の変わり果てた姿も又、止むに止まれぬ母の真実なのだとしたら。其の迷いを断ち切らぬ限り本当の救いは無いのだとしたら。浜の真砂を埋め尽くす程に、機界の荒魂を調伏してきた霊銃も息を呑む骨肉の弔砲。死蝋で塗り固めた様に血の気の失せた鉄郎の面差しを、プロメシュームは藪睨み、我が子を念ふ余りの絶望を手当たり次第に訴える。
「何うした、産みの母に弓を引くのが辛いか、苦しいか。成らば篤と味わうが良い。私とメーテルが受けた苦しみは、こんな物じゃ無いのよ。」
狐狼の怪生が総毛立つ墨染めのオートクチュール。退行した母性が絶頂に達し、頭上に翳した光励起の撻刃が唸りを上げて弧を描くと、蛇蝎の蠱尾を揮うが如く撃ち放たれた厳づ霊の光鎖が稲走り、母の物狂いに魅入られ、立ち尽くしていた鉄郎の左胸に炸裂した。心の鼓動が途絶して背中を突き抜け、弾き飛ぶウォバッシュのベスト。伯爵の託した翡翠の宝玉が粉砕し、勾えられていた八ツ俣の鳳雷が、コード化された盲念を打電し乍ら室内に燦乱する。
「己、何故、貴様が其の勾琉石を。」
閃光の彼方に掻き消されるプロメシュームの怒号。奇矯な幾何学放電の燐舞と、機銃掃射の如きブロックノイズを放駭し乍ら、船尾楼の飾り窓を総て叩き割り、無法の宙域に飛び発っていくアセンブラの暴霊。何がペンダントに封印されていたのか確かめる術も無い、視界を焼き尽くす凄絶な珀劇に、床の上に投げ出された鉄郎は両手で顔を覆って垈打ち、瞳孔から網膜を串刺しにした星の鏃を掻き毟る。灼熱の視床下部が脳の髄を抉り込み、暗転するアルカディア號。座礁した運命の方舟を満たす、沖つ藻の霏霺く潮。遠離る意識の中で、寄せては返す振り子時計の歯車が逆相し、舞い降りる刻の海底、沖去りにされた、追憶の遺伝史を玉釧、巻き戻されて千千に隠るる。
彼の人の眠りは、徐かに覺めていつた。
射干玉の闇に包まる繭玉の
玉緖の文を梳く哥枕
淺き吐息の玉響に、獨つ復た獨つと、耳鐘の幾重にも折り重なりて、夢に虛ろふ萬雷の蟬時雨。鈍に寢返りを打つた糖蜜の樣な微睡みの最中に、ムつとする濕氣つた土埃が舞ひ上がり、古木の掠れた臭ひと入り混じつて、首筋の寢汗に絡み付くと、板木を踏み拉く跫音と煤が頭熟し降り注いできた。
「鉄、未だ寢とうとや。さつさ、起きんや。」
我が名を呼ばれて物憂げに半身を起こし、無意識に周りの地邊田を手探つて、指先に觸れた切れ端を、天から降りた蜘蛛の糸の樣に鷲摑む、未だ朧な見當識。今日が右だか左だか、此處が誰で己が何處なのか。久方の光を求めて、握り締めた棒切れを支へに節節を勞り乍ら徐に立ち上がつた途端、跫音が駆け巡る低い天井に頭を撲つけ、杖を賴りに聲のする方へと躙り寄る暗夜行路。窮屈な常闇を畵する竹林の如き角柱を、額に纏はり付く蜘蛛の巢と思しき綿埃を掻き分け乍ら擦り拔けると、軒端の靑物車を貳階から呼び止める樣に、旋毛の上で快哉が爆ぜた。
「おふい、土竜の鉄の出てきんしやつたばい。」
深綠を言祝ぐ薰風の壱陣が頰を浚ひ、總身に旺盛な日差しを浴びて、肺の腑に張り詰める豐滿な大氣。陽に焼けた玉砂利を裸足で踏み締め、藪の中から拔け出た樣に背筋を伸ばすと、肆方を壓する熊蟬の大勤行、將に鼎の湧くが如し。今から盛りを迎へる夏が、此處を先途と噎せ返つてゐる。
「見てみんしやい、あん顏、嗚呼、もう、でんしかやう。」
「本なこつ、土竜んごたるばい。」
「鉄、シカシカしえんや。」
頭上から子供等の聲が次々と舞い降り、麻の單衣に塗した土埃を咳込み乍ら叩き落とす。息吐く閒の無い惡童達の雜言。浮はの空の鉄は照り付ける天つ日を仰ぎ、爲れるが儘に立ち盡くしてゐた。己の膚で直に感じる燦然とした陽氣。其處に在る確かな天主の惠み。にも拘わらず、瞼を開けてゐる筈の兩の眼に、光の粒て獨つ射してこ無い。寢惚け眼では濟まされぬ底の拔けた黯礁。鉄は塗り潰された墨繪の中に居た。
「鉄、昨日、平原に墓掘りに行くつて、云ふとつたらうが。忘れたとや。」
「未だ未だ鏡な埋まつとるばい。」
「吳服町んとこの先生に持つて行つたらくさ、高かう買ふてくれんしやあけんが。」
「そらあ、本なこつね。」
「土ん付いた儘、持つて來んしやいつて、云ひよんしやつた。」
「おう、そいでくさ、何處い埋まつとうとか聞いてきんしやあけんが、絕對、云ふたらいかんばい。」
「ばつてんがくさ、今日の夜は七夕やろ。」
「やけんが良かつたい、皆、街道筋に出てをらんめえが。鉄やつたら眼の利かんでも土竜の鼻で何處い埋まつとうとか嗅ぎ分けるけんね。」
「おい、鉄、貴樣んの出番ぜ。聞こえんとや。盲が聾の振りすんなや。」
鉄は盲の壱言に色を失ひ、鎖された光に眼を凝らした。頰を傳つて喉元を辿り、肩から肘へと降つていく壱條の心明。鉄の眼は握り締めた杖の先に在つた。其れは自づから然有る姿で、鉄の血肉に宿つてゐる。數多の苦難を睨み伏せてきた黑耀の円らな瞳は、白眼を剥いて瞑れてゐた。鏡を覗いて確かめる事すら敵はぬ其の事實に、鉄は取り巻く蠻聲に耳を傾ける事すら出來無い。惡童に背中から蹴られて杖に縋る、生きたまま突き落とされた壱點の曇りも無い昏絕の奈落。決して目覺める事の無い畢竟の闇には奧行きも廣がりも無く、唯、漠として鉄の前途に垂れ籠めてゐた。前世で踏んだ邪の道の報いか、身に覺えの無い宿業に吹き出す汗の滴りが眦から滲み入り、天を憎むが如く裏返つた斜視に爪を立てる。光を奪はれ、土砂降りの蟬時雨と惡童達の野次に取り圍まれた鉄は、無言で瞠め返してくる闇默に向かつて静かに息を整へた。幾ら心を澄ましても何も見啓かれず、姿形を取り戻さぬ幽昏の世界。鉄の洞な瞳に映るのは、盲を相手に數に物を云はせ、嵩に懸かつて弱きを挫く、本當の弱者の心の弱さ許り。
年季奉公で体を壞し送り返された用無し。親の商売が傾き小作に戻つた品下り。緣故を盥回しにされて冷や飯を浴びる親無しを筆頭に、皆が皆、食い詰め、空弁當を持つて通う學校から足も遠退き、祭りの揃ひ袢纏にも袖を通せず、長脇差しに道を譲つては管を巻く伍人組の見下げた意氣地が、己の心を整理する詞を持たぬ、生意氣盛りの苛立ちが、鉄の吐胸を虛つて空廻る。兔角、浮世の侘び住居、泣きの淚の隙閒風に、煮え湯を呑んで凌ぐは詮無き事。とは云へ、こんな不遇を託つて腐るだけの明き盲の儘では本人の爲にも成るまじと、鉄が杖を握り替へやうとした其の時、
「復た、鉄ば虐めよろお。恨めしかねえ。」
耳骨を劈く嬌聲に絕句する惡童達。木履の甲高い跫音が參下の亂癡氣を蹴散らし、焚き染められた薰衣香が鉄の小鼻を擽つて頰を寄せ、
「お、御孃・・・・・、どげんしたとですか、こげなとこで。」
喉が支へて支度ろ斑の棒振風情に、娘盛りの鼻つ柱が活きの良い啖呵を吹つ掛ける。
「どげんもこげんも無か。大神しやんとこひ家の遣ひで來たつたい。しえん吉、あんたな方こそ、田圃の溝切りも藏の整理もせんと、こげなとこで何ばしやうとね。敎練に付いていかれんで學校にも出とらんとやらうが。油売つて飯の喰へるとやつたら、内とこの田圃も畑も返して、さつさと出ていき。莞爾、あんたんとこは、内の家で立て替へて遣つとう拂ひの幾ら溜まつとうとか知つとうとね。内な算術の習ひ事序でに、帳簿とかも見さしてもらひやうけんね。噓や無かよ。八重の眼ば見んしやい。」
脛に瘕有る身の上を遠慮會釋無く論ひ、獅子吼する、壱領具足から庄屋上がりの獨り娘。節を曲げた事の無い男勝りの劍幕に、小作の野蕃漢、觸らぬ御侠に火の粉無しと、遁ずらの目配せに、尻を紮げて、壱、貳の参肆郞が倒けの踏み轉。蟬時雨の暗幕を潛り、先を押し退け逃げ去つていく。跳ねつ返りの御轉婆が鼻息獨つで雜魚を追い拂ふと、盲の壱念で知らぬが佛を決め込む鉄を、疳の治まらぬ舌鋒は返す刀で斬り棄てた。
「あげなシヤバ僧、何で其ん木太刀でくらさんとね。鉄は本なこつは強かとやろ。嗚呼もう、齒痒いかよお。」
杖を握つた拳を撲つ、浴衣の袖に染め上げられた花鳥が白檀の芳芬を振り撒き、黑襦子と染分絞りの昼夜帶が背を向けて、英吉利結びの束髮に差した、蜻蛉玉の小振りな壱本軸の簪が閃く、雅な御冠。生煮えの根菜には芯が有るのを承知で憤る、臈長けた素振りに袖を引かれて、鉄は滿更でも無かつた。然して次第に、刻の潮が滿ちて黃泉復る遙かな遺傳史。千古を隔てた歲月の汀に流れ著き、鉄は老松神社の本殿の床下で、野良犬の樣に寢起きする己を取り戻していく。
魏志倭人傳に其の名を刻み、倭国に於ける對外交流の要衝を擔ひ榮えた伊都国も今は昔。太宰府へ博多へと移り變はる人の流れに取り殘され、瑞梅寺から向かふは唐津と揶揄されて久しき、山と海しか見當たらぬ糸㠀に生まれ落ちた、盲の浮浪兒。鉄と云ふ名付け親が誰なのか。尋ねた處で返つてくるのは放埒な高笑いか、精精、良くて苦笑ひ。態態、急ぐ足を止めて壱席を設ける御人好しは無い物の、其れは其れ萬民の覺えが目出度い裏返し。鉄は町の者達の潤んだ瞳に見守られ、皆が皆、其の將來を案じ、餠貰ひに來る瞽女や比丘尼に成る譯にもいくまいに、末は按摩か琵琶法師と、彼の家、此の家と引き取られても引き取られても、老松神社の本殿の床下に戻つてくる其の日暮らし。盲、土竜と呼び棄てられて何不自由無い風來坊。天照らす大いなる神で天照大御神、大和の武し神で日本武尊、輝ける姬でかぐや姬と呼ばれる通り、眼が昏くて盲の何が可笑しいのか。皆、其れぞれ氣の持ちやうが違ふのだから氣違ひで當たり前。名と体に壱寸の狂ひも無く、唖も、聾も、跛も、吃りも、知惠遲れも、機族が人を狩る樣に繰り廣げられた言葉狩りに合ふ前の、皆、在るが儘に血の通つた言の葉の姿。詞は人に狩られ、人は機械に狩られ、鉄は美しい花の樣に摘まれる事も、聰いが故に疎まれる事も知らず、唯、盲と云ふ名の人膚の温もりに包まれて、噓僞りの無い生を謳歌してゐた。
「大神しやんなくさ、朝拜ば濟ませんしやつたら、社務も放つぽらかして昼間つから長尾本陣で呑みよんしやあつちやもん。機嫌やう謠ひよんしやあとが聞こえてから、そげな大した要件や無かけんが、其處で話しは濟んどつちやけどくさ。」
鉄の手を引いて老松神社の鳥居を潛り、遣ひの駄賃の少なさと學校での愚癡を零し乍ら、氣の向く儘に步き始める八重。鉄は勝手知つたる己の庭に盲を煩ふ必要は無い。姬の御御足が御所望なのは書房の金光堂か、將亦、筆屋の古川か。鉄が眼裡の地圖を廣げて屡叩くと、梢の朝露が彈けた樣に、幺さな歡聲が貳人の背中を追ひ越し、火の見櫓で見張つてゐた獨りが振り向きざまに吠え立てる。
「あ、御孃、荻浦から筒井原の方に昇つた煙の選果場ん前で止まつたけんが、上りの汽車の來よんしやつたばい。」
「本なこつね。鉄、汽車の來よんしやつたげな。見に行こ。」
唐津街道、国道202號線に沿つて敷設され、明治43年の7月に北筑軌道が開業して丁度壱年。今川橋-加布里閒を約2時閒、平均時速12.8㎞の足で走つて追ひ付ける雨宮製小型蒸氣機關車と客車壱輛を、牽き物と云へば馬と牛しか見た事の無い子供達は夢中で追ひ回した。數珠繋ぎの金魚の糞を振り切る樣に吹き荒ぶ長緩汽笛。軌道貨物に載つて運び込まれた新規の物資に群がる人人の眼の色や、新天地へ旅立つていく者達への羨望は、煙害に顏を顰める沿道の世帶、日露戰爭後の長引く恐慌と、未だ採算の合わぬ新規交通事業への疑念を押し退けて、鐵道が町を變へる、と云ふ熱氣を炙り立てた。時代に乘り遲れまいとするかの樣に鐵路の花道に飛び出す子供達。倂し、壱緖になつて駆け出そうとする八重の浴衣の袖を鉄は摑んで離さなかつた。誰もが目新しさに眼が眩み、帰り道を見失つた激動期。盲の鉄は盲だからこそ、本當の意味で前に進むとは何かを知つてゐた。光が見えるだけの俗眼とは物が違ふ、瞑れた瞳で足許を瞠めた儘、壱步も動かぬ無言の唱導。鉄に強く引き畱められて心の搖れた八重は、意を決して切り出した。
「鉄な、今晚、七夕に行くとね。」
今日が星祝ひだと云ふ事すら知らず、何の當ても無い身の鉄が首を橫に振るのを見て、頑なな其の瞳に迫る八重の眞劍な眼差し。
「其れやつたら、八重と壱緖に茶臼山の御堂に行つてくれんかいにや。壽福寺の観音樣やのうして茶臼山の。今、佐賀から來とう狐憑が泊まつとんしやつてくさ。内な、母樣の口寄せばしてもらひたかとよ。あすこん御堂は良う乞食の住み著かうが。そいでからくさ、こん前、蜘蛛男のをるけんが見に行かんねつて、飯炊きの睦の云ふけんが付いていつたらくさ、あそこばしごいて、そん先から、ほうら、蜘蛛の糸ばい、つて云ふて、嗚呼もう、でんしかもん。そん話しば家ん人にしたらくさ、もう貳度と行きんしやんなつて、豪い腹掻いてくさ。おらびんしやあつちやもん。家ん人には皆と七夕見に行く云ふて出てくるけんが、鉄、壱緖に御堂に行こ。」
八重が有無を云はさぬのは何時もの事だが、其の勝ち氣な物腰の中に密かな怯えが潛んでゐるのを、鉄が見逃す事は無かつた。選果場裏の茶臼山の木立に埋もれた、竹の子程の大きさの円空彫りの佛樣が壱体安置されてゐるだけの、誰が建てたとも知れぬ破れ堂。板葺きの六畳壱間を、皆、土足で出入りしてゐるとは雖も、確かに日が暮れてから女子供が獨りで行く樣な處では無い。然して、母樣の口寄せと云ふ神妙な口實。
「鉄、暮れ六つ刻に何時もんとこで待つとうけんね。判つとろ。
君ならずして
誰がをるとね。」
と念を押し鉄の手を握り込むと、
「鉄な口の堅かけんが賴むとよ。内な、他に賴める人のをらんちやけんが。」
胸の内を笹めく憂ひや迷ひを拂ひ除ける樣に八重は駆け出した。追い縋る野暮を袖にする鮮烈な恥ぢらひ。頰を撲たれた樣に痺れて立ち盡くし、遠離つていく白檀の殘り香を手繰ろうとする鉄。其れを不意に、精力旺盛な煤煙が掻き消し、熱きドラフトの放咳を被り、運轉手と車掌に怒鳴り散らされ乍ら、黑鉄の悍馬と倂走する子供達の歡聲が橫切つた。往き過ぎる時の流れの吹き溜まりに、再び取り殘されて終つた盲の浮浪兒。杖を指揮棒に地邊田の伍線譜でリズムを取り、鉄は行商で賑はふ街道筋を獨り步き始めた。
大里の内裏から博多、唐津の名護屋城、涯は長崎平戶まで伸びる、江戶時代初頭に開通した唐津街道に倂せて、福岡藩が舞獄山の麓に在つた民家や寺を遷し、宿場町に設へて榮へた筑前国志摩郡の要衝、前原宿。宿場通り御出迎への東構口を潛つて大手を振れば、豪商の綿屋、酒藏の和泉屋を筆頭に、伊能忠敬も止宿した町茶屋、團子屋に筆屋に手遊屋が、間口割りの地租に應じた、閒口參閒、奧行き廿閒の鰻の寢床で軒を聯ね、宿場特有の町屋造りが卯建を競ひ合つてゐる。引きも切らさぬ俥の往來、打ち水に土煙も鎭まりて、店先に躍る掃き目の靑海波、盲の裸足、其の潮騷を數へ乍ら、いざ今宵の星祭り、氣の急いて夕涼みの緣台早早に、杖の先で擦り拔ける彼方此方。八㠀精肉店の前を通れば、裏に呼ばれて屑肉の御相伴に與る小腹、年季奉公の子守が覺え立ての童唄合ひの手を拍つ。
のこひき ごんねんさん
のこのくず やんないや
やろこた やろばつてん
おやじが おおごるもん
盲や跛や知惠遲れ、伍体滿足で無い者は商運を聯れて步くと尊ばれ、足を向ければ芥を漁らずとも施してくれる街道筋。何ね今日は遲かやなかねと袖を引かれる、鉄は宿場通りの顏役。其の耳に同じ身空で肩身の無き流れ者が、甲高き歌い口上、壱節、復た壱節。
「巫女の口寄せ、竈拂ひはどげんかね。」
緣台で茶に呼ばれ寬ぐ鉄の頰が强張り、湯飮みに口を付けた儘、瞑れた瞳が覗き込む。咒具を納めた外法箱を、舟に見立てた紺の袱紗で擔ぐ步き巫女。皓の脚胖に下襦袢、尻を紮げた皓の腰巻姿は街道筋の眼を引いた。
「ちよ、彼れば、見てみんしやい。」
「何ね、何ね。」
「あん氣違ひの狐憑、今年も茶臼山の御堂に泊まつとうつちやろ。壱昨日に、婆さんの御堂ん中ば掃はきよんしやつたもん。」
「何や復た、瓜ば土産に乳繰りにいくとや。其れよか、風呂の壹つも貸してやつたら良かつたい。後は如何とでも爲ろうもん。」
「然うや無か。あん狐憑が鉄ば産んだつちやないとね。」
「おほ、然うくさ。御堂の中で産ばするとか云ふて、麓のもんな蒲團ば持つてきたり、湯う湧かしたり。大事やつたげな。父親な町の若いもんか何處ぞの鰥夫か知らんけどくさ。」
周りの者は聞こえぬ樣に耳打ちしてゐるつもりでも、地獄の底を聞き分ける鉄の耳には節の無い筒拔け。步みを止めず迫り來る口上に尻を叩かれ、鉄は禮も云はずに席を辭した。耳を塞いでも割り込んで來るのが人の噂。ほれ、彼の鼻筋が何うの、橫顏が何うのと較べられ、鉄とて蒲魚振つた儘、知らぬ存ぜぬで通すつもりは毛頭無いが、面と向かつて囃し立てる者を杖でしばき上げる時、力が入り過ぎて抑へが利かぬが故に、口を聞いた事も無ければ、擦れ違うふ事すら避けてゐる。其れを今晚、態態、假の塒にまで夜詣でと云ふのだから、今から足が重いのも無理は無い。楢崎米穀店の御呼ばれを袖に、西へ向かつた杖の先が小突いた追分石。唐津街道と志摩の村道を劃つた標石と、西構口の舊關番所は、送り返された者達の淚も乾上がり、手形を檢めた厳めしき往時の影も無く、宿場通りを拔けて丸太の溜め池の前まで來ると、糸㠀郡立農學校を取り圍んで糸富士を望む田園が、鉄の穩やかならぬ胸の内を埋め盡くした。分蘖が終はり、中干しをして再び水を張つた靑田の、鼻を突き、舌に廣がる爽やかな蘞味。新しく芽吹いた綠が深みを增し、風の渡る葉擦れの音が、鑢の目の樣に幾重にも折り重なつて、薄ら寒い鉄の背筋を駆け拔けていく。
芋の葉に溜まつた露を集めて墨を摺り、子女は文字、裁縫が巧くなるやうにと、竹の葉に色取り取りに吊して奉る手藝や色紙、短册に、貳つの歲に麻疹で死んだ末娘、山の木馬牽きに出て谷底に落ちた許嫁の冥福を禱る言の葉が入り交じり、啜り泣きの樣に擦れ合う笹なみが、今夜壱晚だけでも安らかに眠つておくれと、潭く首を垂れてゐる。武家の爺樣は白帷子で冷や麦の夕涼み。蕗の葉に團子を供へ、迎へ火の樣に佰目蝋燭を點し、香を焚く家のチラホラ。祭りを祝う㐂びに家の格式なぞ無い、星の妹背の天の河。町中の稚兒等が集合し、街道筋を觸れ步く高張提燈に、佛前で鉦を敲き御詠歌を誦んでゐた年寄りが、次次と軒に顏を出す。晴れ著の浴衣に、下ろし立ての下駄を鳴らし、御囃しを擔いで合流する靑年團。虫送りも兼ね、麻幹の松明を持つて畦に繰り出せば、田圃に點つた人の列が雷山川の堤へと壱條に繋がり、子供達の天まで屆けと揭げる燈火が、中天を限る星合の濱を染め上げた。
筒井筒 井筒にかけしまろがたけ
過ぎにけらしな妹見ざるまに
くらべこし振り分け髮も肩過ぎぬ
君ならずしてたれかあぐべき
八重の仄めかした古哥を擦つて、定刻通り、鐘の音を賴りに街道筋へ戻つてきた盲棒。糸㠀の干拓事業が起ち上がる遙か以前の松原に、筒井原と名付けられて幾星霜。泊産安、染井の井戶に、志登の玉の井、大原の大井戶と、名の有る掘り井に埋もれて、筒井を冠する町外れ、誰が呼んだか筒井筒。八重は物蔭に隱れてゐるつもりなのだらう。浴衣に焚き染めた薰衣香と、髮に飾つた星七草の幽かな芳純が、必死で氣配を殺してゐる。幼氣な兒戲に眼を瞑る甘美な懲罰。鉄の指先が杖より先に町井戶の井桁に觸れて立ち止まり、釣甁の滑車を神社の鈴紐の樣に摑んで鳴らすと、
風吹けば 沖つしら浪 可也の山
夜半にや君が ひとり越ゆらむ
木履の甲高い跫音が、嬌聲を紮げて駆けてくる。八重は美しい娘だ。其の面差しが視えずとも、觸れずとも、取り巻く者達の華やぐ聲色は噓を吐きやうが無い。八重が右を差せば皆が右を向き、八重が笑へば皆が笑い、八重が咳をすれば皆が案じる。貳見ヶ浦に沈む夕陽の樣に誰もが愛でる其の娟容。宿場通りへと向かふ人の流れに叛き、八重に手を引かれて步く盲に注がれる畸異の眼を、鉄は瞑れた瞳で睨み返した。
「獨りで餠ば、そんなにがめて、何うするとや。」
「復た、かみさんの實家に帰んしやつたとね。其りやあ、どげんかせんと、いかんばい。」
「おほう、良かばい。良かばい。幾らでも持つていきんしやい。」
「何ね、文ちやんな、先輩ん事、好いとんしやあと?」
「そら、然うくさ、息子しやんの稼ぎよんしやあもん。」
「嗚呼もう、極樂の蓮の上んごたるばい。」
年の渡りに言寄せて、賑はふ出店と棚飾り。貳星の屋形を映そうと緣台に載せた七種の御遊も涼しげに、乞巧の夕べは更けていく。行き交ふ人の合閒を縫ひ、壱方的に捲し立てる八重の口吻に無言の相槌を返す鉄。
「七夕で皆、艶付けとんしやあばい。鉄は見えんちやね。折角、内も壱番宜かとば著てきとうとい。噓でも宜かけんが、少し位は誉めちやらんね。」
「今度の期末、内は簿記以外、赤點ばつかやつたつちやがあ。もう、何うしやうかいにやあ。」
「鉄は未だ汽車に乘つた事の無かとやろ。北筑の汽車ば今川橋で乘り換へたら何處迄行けるとかいにやあ。宜かねえ。内も旅のしたかばい。鉄は何うね。内と壱緖に行かんね。」
「鉄は仙女座つて知つとうね。内なくさ、今日學校で習うたとよ。天の河の脇ん處に在る彼が然うばい。」
八重の指差す明後日の方を仰ぐ鉄に、八重は右だ左だと腹を抱へて指圖する。何時もより口數多く燥ぐ八重に、鉄は其の張り裂けそうな胸の内を垣間見て、道化を演じる事しか出來無い。年季奉公で身を粉にする端女達が、今夜壱晚暇を貰つて羽目を外す其の脇を、似而非なる憂ひで彩られた、馨しき裝ひが擦れ違ふ。鉄の手を強引に振り回して、何れが織り姬だ彦星だと星の空騷ぎに、氣が付けば丸太池を過ぎ、積み上げた夏蜜柑の芳醇な酸氣漂ふ選果場前で、木履の甲高い跫音が止んだ。鉄が八重の瞳を借りると、茶臼山の鬱蒼とした黑塊が、祭りの夜を泥溝の樣に塗り潰してゐる。
茶臼山は永祿年間に波多江鎭種が居城してゐた以前の記錄が定かで無い舞岳城の城址で、明治開闢と共に取り毀された儘、在りし日を偲ぶ遺構も舞岳山の名も廃れ果て、櫻竝木が年に壱度賑はふだけの柴山に成り下がつて久しい。源平合戰を事始めに、應仁の亂から戰国時代と、糸㠀にも飛び火し繰り廣げられた幾多の戰亂も、木立を駆け回る子供等の裏山遊びが夢之跡。天守閣から、領地と戰略的要衝を抑へる爲に選ばれた、糸㠀の肆季を見渡せる標高七拾六米突くの眺望も盲の鉄には緣が無く、況してや、昼の山と夜の山の區別も無い筈が、今夜に限つて底知れぬ瘴氣しやうきを纏つて立ち塞がつてゐる。山の禁を破るなと恫す樣に、棚田から轟く夥しい蛙の聲。祭りの燈りに背を向けて八重の顫へる手を握り返し、選果場の脇から山頂へと續く坂道を、今度は鉄が八重の手を引いて步かうとした其の時、八重は突然其の場に蹲つた。
「鉄、何うしやうかいにや、やつぱ、内な、えずかばい。此處で待つとほけんが、母樣の向かふで幸せにしとんしやあとか、内の父樣は本なこつ、内の父樣か聞いてきてくれんね。此、内の母樣の付け取つた簪やけんが、持つて行つてくさ、こん簪ば付け取つた人な、今、何うしよんしやあかだけでも聞いてきて。」
小作の野蕃漢を壱蹴した御轉婆が見る影も無く、鉄の手に握り込まれた蜻蛉玉の小振りな壱本軸の簪。大切な形見を鉄に託すと、其れまで必死に堪へてゐた物が灼熱の虫酸と爲つて逆流した。
「嗚呼、恨めしか、恨めしか。内な父樣の恨めしかとよ。にくじゆうやもん。片眼で内の事ば睨んでからくさ。眼帶ばしとう方の眼は、支那に行つて遣られたんやのうして、渡世人の仲介ん時、脇差しで抉られたとか、助役とこの息子が云ひよつた。本なこつかいにや。鉄、若し、父樣が内の父樣や無かつたら、内と壱緖に糸㠀ば出よ。あん汽車に乘つて糸㠀ば出よ。」
山の狐に取り憑かれた樣に泣き叫ぶ八重。鉄は淚に暮れる其の頰を平手で張り飛ばして默らせると、兩肩を摑んで正面に向き合ひ、本の小さく頷いた。
「鉄、有り難う。内、待つとうけん。此處で待つとうけん。」
八重は鉄の胸の中に崩れ落ち、髮飾りの星七草が鉄の唇を掠めた。美しいが故に摘まれて終ふ名花の憂ひ。成らば、切り取られた花の土と成り、泥と塗れずにゐられる物か。泣き止んだ八重を選果場の木箱に座らせると、鉄は杖を短く持つて簪を銜へ、山道を無視して茶臼山の斜面に直接挑み掛かつた。態態、込み入つた虎口まで廻らずとも、御堂に欠かす事の無い、線香と蝋燭の燃え止しの臭ひが、鉄の小鼻を摑んで離さ無い。山城として護りに徹し造成された切岸や堀切も、獅嚙憑いた其の後は壱直線に登つて最短距離だ。腐葉土を掻き分け、木の股を摑み、枝から落ちた猿の樣に、修驗道の荒行の樣に、漆黑の樹海に同化していく鉄。狐憑が何を口にしやうと、母は彼の世で幸せにしてゐると云へば良い。父の事は判らぬと云へば良い。鉄は八重に然う云ひ聞かせる自身が有つた。八重を惑はす親を念ふ心の闇。此からは自分が八重の眼に成る番だ。盲に點す光が在るのなら、八重の心を照らしてくれ。指肉と爪の隙間に木つ端が抉り込み、頭から被る土砂が、眼と云はず鼻と云はず、穴と云ふ穴を塞いで、簪を銜へてゐるのか泥を食んでゐるのかも判らず、八重に成り代はつて其の躰を苛み、柴山の斜面を刺し殺す樣に杖を突き立て、駆け登つていく。眼が見えぬ事を甘受し氣儘に暮らしてゐる鉄には窺ひ知れぬ、名家を背負ふ重圧に押し潰された八重の行く末。亡くなつた母に己が身空を襲ね、其の言の葉に濟ひを求める少女の絕望。母は今、何處で何うしてゐるのか。どうか幸せで在つて欲しいと云ふ切なる念ひ。其れは鉄とても同じ事。此の急勾配を登り切つた御堂で待つている狐憑は、本當に血を分けた母なのか。口寄せの壱糸纏はぬ眞實の詞は何を物語るのか。息が上がり胸を亂れ拍つ鼓動で我武者羅に捻ぢ伏せる不吉な豫感と、抗ふ術の無い運命の因力。鉄は銜へた簪に犬齒を立てて、込み上げる私情を呑み込むと、年に壱度の七夕に願ひを籠めて、八重の念ひが天まで屆けと這ひ上がつた。
抹香臭ひ腐葉土に、御供へ物の腐亂した臭ひが入り交じり、下草が增えて木立の漣が疎らに爲つた頭上から、山颪が峭然と吹き下ろしてくる。鉄が杖を長く持ち替へて壱氣に躰を引き揚げると、其處は敵の侵攻を食い止める爲に、尾根を削つて踏み均した曲輪の棚地だつた。柴山の夜氣に澄み渡る、波多江氏が居城した往年の矜恃と、時代に討ち破れた死に顏を曝す慚愧。山は無言で哭く。簪を手にして泥を吐き、單衣の汚れを叩き落として、饐えた婦の臭いと幽かな息遣ひに向かつて鉄は杖を運んだ。狐憑は獨りの筈だが確證は無い。夜営の敵將を仕畱めに行く樣に、朽ち果てた枯れ葉に爲り切つて柴を踏み締める。土竜が土を掘る樣に、闇を読むのは盲の拾八番。彌增す練り物の殘り香と、巢穴に戻つた猪の無造作な氣配を手繰り寄せ、杖の先が沓巻きの無い地面に直刺しの向拜柱を嗅ぎ付けると、鉄は息を殺して屈み込み、濱緣も段木も無い出所不明の境外佛堂に耳を添へた。藪蚊が寄つてこ無いと云ふ事は燈りを焚いてる樣子は無い。鉄は向拜から裏へ回らうと中腰のまま向きを變へ、其處で礑と、何故こんな夜盜に毛の生えた眞似をしてゐるのか、今更、何を探る必要が有るのかと、己の氣遲れを叱咤した。狐憑の語る眞言に畏れを爲してゐる場合では無い。奴が己と血を分けてゐるのか何うか等、貳の次だ。
「此處で待つとうけん。」
八重の淚で濡れた袖が乾かぬ内に吉い報せを持ち帰る。今は其れが渾てだ。盲の不幸なぞ高が知れてゐる。自分で不幸を背負ひ周りを幸せにする。其れが漢だ。漢に盲も糞も無い。然う意を決した其の時、
「何方しやんね。」
宿場通りを撫で回した口上と同じ、甘つたるい聲が首を擡げた。枯れ切つた板間が軋み、扉の番が錆の粉を吹いて悲鳴を上げ、解き放たれる汗ばんだ雌の臭ひ。
「何うしたとね、そんな泥だらけで。急いで來たとね。」
見知らぬ漢を訝る處か、待つてゐたと許りに、媚びた笑みが科を作つて近寄つてくる。其の馴れ馴れしさに戶惑ふ鉄から優しく杖を取り上げ、
「早う中に入りんしやい。」
狐憑が手首を摑んで引き寄せると、鉄の掌に熱り勃つ乳首が直に突き刺さつた。得体の知れぬ剥き出しの精氣が疼いてゐる。狐憑は帶を締めてゐ無い處か、膚襦袢を肩に浅く羽織つただけで支度解甚く前を開けてゐた。鉄は全身の和毛が粟を吹き、餘りの惨たらしさに舌の根まで痺れ、身動きが取れ無い。すると、
「何ね其れ内に吳れるとね。」
狐憑は簪を持つた鉄の手にウつトリと頰を添へた。鉄が劣情を誘ふ惡ずれした色香に抗ふと、狐憑きは怖氣立つ襟足に巻き付いて、
「何ね、恥づかしがらんで良かとよ。」
鉄の股間を獸の樣に弄り、鉄の唇を奪はうとする。鉄は畸聲を上げて狐憑を拂ひ除け、其の頭上に簪の劍を振り上げた。闇を劈く狐憑の絕叫。我に返つた鉄は杖も忘れて御堂を飛び出し、曲輪の棚地から轉がり落ちていく。
腐葉土と枯れ枝を撒き散らし乍ら、急勾配を暴走する盲の地獄車。悽ましい星の下に生まれた狐憑の罪無き俗情が、母と子の逃れ得ぬ宿業が輪轉し、粉粉に打ち砕かれる鉄の本懐。俺はあんな壮りの付いた野良猫の後始末か何かで産まれ、棄てられたのか。彼の女に何を口寄せしろと云ふのか。何故人は忌まわしい程に懦く、悲しいのか。此の因業な仕打ちの何處に濟ひが在るのか。闇に生きる盲には人の世の闇から眼を背ける術が無い。禱りを捧げた星は巡り會ふ事無く砕け散つた。もう此の儘、奈落の底を突き拔けて何處迄も堕ちていけば良い。闇に呑まれ、光をも手放した魂の斷捨離。眞つ逆樣の世界に止めを刺す樣に、鉄は地面に叩き付けられた。
肩甲骨から腰椎へと跳ね上がる激甚に肺の腑が潰れて呻く事も出來ず、棚田を埋め盡くす蛙の聲が、土に還つた泥の塊を壱斉に笑ひ飛ばす。地獄に落ちる事さえ出來ぬ此の爲体。最早、此の柴山の麓は振り出しですら無い。八重が汽車に乘つて旅をしたい。此處から出たいと云つた意味が今漸く判つた。八重は何處だ。俺が聯れて行つてやる。此處では無い何處かへ。今直ぐにだ。追い縋る物總てを振り切りる黑鉄の機關車に乘つて、此の闇が見え無くなる迄。
杖の無い鉄は柑橘類の薰りを辿つて選果場を目指した。倂し、實の詰まつた夏蜜柑の発散する酸味の中に、八重の浴衣に焚き染められた白檀の名殘も無ければ、星七草の頰笑みも聞こえてこ無い。積み上げられた出荷待ちの貨物に撲つかり、崩れ落ちる木箱を掻き分ける樣に、肆つん這いで手當たり次第に周圍を探る鉄。何處だ、八重は何處だ。此處で待つていると叫んだ八重の誓ひを信じて、鉄は犬の樣に地邊田を嗅ぎ廻つた。八重を濟へるのは鉄しか居無い、鉄を濟へるのも八重しか居無い。失はれた片身を求めて、散亂した夏蜜柑を押し退ける。もう此が己の闇か八重の闇かも判ら無い。鉄は初めて本當の闇の中に居た。其處へ、厩舎を飛び出した馬群の樣な、唯ならぬ跫音が怒鳴り込んできた。
「そげなとこで何ばしょうとや、鉄、大事ばい、墓堀り處の話しや無か。御孃が、八重孃が伏龍池に落ちんしやつた。」
「母樣の簪の池に落ちたつて云ふて飛び込みんしやつたげな。」
「いつちよん上がつてこんつてぜ。旦那しやんも來んしやつてから。豪い騷ぎばい。」
取り亂した惡童達が矢繼ぎ早に捲し立てる證言が、鉄の悟性を擦り拔けていく。誰よりも音に聰い盲の地獄耳が其の意味を聞き取れ無い。行き場の無い焦りと焦りが衝突し、何獨つとして嚙み合はぬ、八重を念ふ心と心。復た俺を揶揄つてゐるのか。根性を叩き直して欲しいのなら後で纏めて片付けてやる。今はそんな駄法螺に付き合つてゐる場合ぢや無い。八重は此處で待つてゐて、簪は斯うして此の俺が、と突き付けやうとした鉄の手から、彼程強く握り締めてゐた筈の簪が消え、唯、泥だらけの袖口が八重の念ひで濡れてゐた。
惡童達の過ぎ去つていく跫音が、鳴り止まぬ蛙の挽歌に呑み込まれていく。夢虛つの鉄に其の後を追ふ氣力は無かつた。研ぎ澄まされた夜氣に忍び寄る顏の無い寂滅。取り殘された闇の中で、幕が下りたのか何うかすら判ら無い。伏龍池は農業用水を確保する爲に掘られた、岸から急に深くなる人工池で、落ちたら龍の餌に爲ると懼れられてゐた。八重は龍に呑まれたのか。其れとも形見の簪を賴りに亡き母の元へ向かつたのか。鉄の瞑れた瞳は此の星降る夜に何を見て終つたのか。町役場の方角から、不意に軌道機關車の汽笛が轟き、風穴の空いた鉄の心を弔砲の參拾壱文字が吹き荒ぶ。
見えそめし夢の浮橋末かけて
いつかむかひの岸にいたらむ
年の渡りに天翔る、精靈列車が貳星の屋形。何時か瞰た望外の旅立ちと、聞き覺えの有る其の聲に、鉄は相聞の古哥を誦し、不帰の汀に送り出す。
思ひ入る心しあらば末かけて
などか見ざらん夢の浮橋
「駄目よ、鉄郎。時間が来たわ。幾ら伝世品種の貴方でも此処迄が限界よ。其処を渡つて戻れる保証は無いわ。」
竜頭の掠れた声が、鉄郎の迷ひ込んだ、星の渡りを寸断した。何時から其処に居たのか、何処から見護つてゐたのか。刻を司る斎女の時ならぬ訪ひに、甦った見当識が立ち眩む。竜頭の提げだ燈會の錻力が幽かに軋み、仄かな温もりが鼻先を掠めて、鉄郎の心の火屋に灯りを分けた。
「鉄郎。今、私に出来るのは貴方を引き留める事だけ。何故、伯爵が貴方に知遇を尽くしたのか。御願ひだから気が付いて頂戴。私も漸くストレージの環留回路を解除出来たわ。でも、記憶のリミッターを破壊した処で、抑圧されていた過去に押し潰されるだけ。此処で貴方を二重遭難させる訳にはいか無いのよ。」
リミッターの外れた竜頭が押し殺して顫えてゐる思ひの丈に、鉄郎の心火が揺らめゐた。翻るチャドルのドレープに夜気が波打ち、鉄郎に背を向けて裾を擦る当て所無い跫音。
「オイ、竜頭、何処に行く。」
「私は何処にも行きはし無い。胎内の時辰儀を何んなに使ひ熟しても、此の宇宙と云ふ質量保存の駕籠の中。私は何処にも行けやし無いのよ。」
「竜頭、教へてくれ、八重は、メーテルは、真逆、竜頭、御前も・・・・・・。」
鉄郎は駆け出し、役目を終へた閑かな刻の渡し守に追ひ縋る。
玉葛實ならぬ樹にはちはやぶる
神ぞ著くといふならぬ樹ごとに
火屋の灯りを吹き消す竜頭の吐息が鉄郎の手を擦り抜け、伏龍池に没した少女の後を追ふ様に飛び込んだ消煙の闇。迫り来る汽笛が鉄郎を追ひ越し、母を念ふ少女の祈りから振り落とされる。投げ出された躰が宙を泳ぎ、地の底を跳ねて転げ回ると、星今宵の澄み渡る夜気が、灼けたグリスと放駭な水蒸気で噎せ返つた。
2023-03-06 09:41
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